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【書評】孤立のもたらすあやうさについて〜木村紅美『あなたに安全なひと』

ひとと直接会うことが少しづつ増え、言葉だけに頼らないコミュニケーションの楽しさを改めて感じています。コロナ禍のこの2年余り、ひととの交流の形は大きくかわりました。この変化を、どのように考えたら良いのでしょう?こたえを求めて、わたくしは小説を読みます。なぜなら時代の違和感や変化に敏感な作家たちは、きっと作品の中で何らかの気付きをわたしたちに示してくれているはずだと思うから。

2つめのブックレビューでは、コロナ禍に書かれた作品を取り上げます。作者の木村紅美は近作『夜の底の兎』(「群像」2019年9月号)で、結婚と家族のかたち、ジェンダーバイアス、ハンセン病や強制不妊手術、いじめや性虐待など「いまの社会が抱えるさまざまな問題が、かかわったひとの人生をどのように変えるのか」に関心を向けました。事実婚が破綻したばかりの主人公女性に、現在と過去、現実と記憶や夢の中の世界を行きつもどりつさせながら、独特の幻想的な筆致で人生を照らす光と影を描いた秀作です。

最新作の『あなたに安全な人』は、優雅な装丁を纏う、悲しくも残酷な物語。選び抜かれた言葉(漢字と仮名のバランス!)、考え抜かれた表現、木村紅美ならではの静謐な空気感を味わいつつ、そのなかに、登場人物がひそかに抱える闇を読み取る面白さ。(ひと言も揺るがせにできない緊張感は、個人的にはアリス=マンロー以来でした。)読めば読むほど深みに嵌る木村紅美の世界を、note読者のみなさまにご紹介します。

(以下、ネタバレあります)



◆感染者ゼロの街で生きるということ

『あなたに安全な人』は、世界がコロナ禍に見舞われた2年前の、東北のある街が舞台です。未知の疫病が急速に蔓延したあのころ、多くの人が厳しいソーシャルディスタンスを守って暮らしました。

自分には、だれからも支えてもらう価値はない。(p.145)

本文より


主人公の妙(たえ)は地元で教師をしたあと上京し、親の介護で帰郷したアラフィフシングル。両親の死後、妙は人とのかかわりを避けスマホも持たず、わずかな遺産を取り崩しながら尼僧のような暮らしを送っていました。全国的にコロナが蔓延しても、妙の住む街では感染者はいないまま。住民たちは排他的になり、都会から移住してきた「本間さん」は地元民に爪弾きにされた挙句、自死します。そんな殺伐とした街でもしも感染してしまったら、どれだけ噂になることでしょう。表に出したくない過去だって、詮索されてしまうかもしれません。


◆避難所としての、隔離=ソーシャルディスタンス

けっして、顔は見あわせないで。互いの気配は、ときどき、幽霊がいるのかな、とでもびくっとさせるくらいに漂わせるのが理想です。(p.128)

本文より


けれど、隔離生活を味方につけて隠れるように暮らしていても、世間は妙を忘れてはくれなかった。ある晩、昔の教え子の末期癌の父親から「先生がいじめを放置した証拠を掴んだ」と電話がありました。妙は、恐怖に怯えます。なぜなら、いじめを相談されていたのに己の無神経さと怠惰から放置し教え子を自死させてしまったと思っていたから。それからというもの妙は父親からの仕返しに怯え、若い便利屋の男にいっさいの接触を禁じる約束をさせて、用心棒として同居させます。

この家は船になって、自分と女のふたりがそっぽを向き合ったまま果てのようなところへ流されてゆく空想に浸される。(p.124)

本文より


便利屋の忍(しのぶ)は都会で女に騙され故郷に戻り、身内から蔑まれつつ日銭を稼ぐ男。迷子を保護すれば連れ去りを疑われ、小遣いをせびる姪を諭せば手出しをしたと騒がれる。どんなにひととのつながりを求めてもうまくいかない人生に、心底嫌気がさしています警備員のアルバイトをしていた時に、刃物をかざすデモ隊の女を避けようとして誤って殴ってしまったこともありました。女が翌月亡くなったのを「自分のせい」だと自責する、そのたび忍はタバコの火を腕に押し付けます。それはまるで、罪未満の出来事を敢えて「罪」と思い込み、その「罪」こそが唯一の他者とのつながりの証だと、必死にしがみついているように見えるのです。

◆孤立がもたらす危うさとは?

そんな忍にもっと嫌がらせをしようと、姪がSNSにあげた中傷への非難のメッセージは、たったひとつだけでした。幸せはもとより、それまでの人生すべてから見捨てられた忍は日に日に窶(やつ)れ、急速に生きる意欲を萎えさせていきます。

もしもバレたら、あいつ死んでしまえ、と恨みを抱かれていそうな隠しごとって、ひとつやふたつしでかしているの、珍しくもないんじゃないの。わたしのは、ばれていないと思うけど(p.103)

本文より


追い詰められた妙は、叫びます。長い孤立生活の果てに、暴走した不安が毒に代わってしまった瞬間でしょう。ソーシャルディスタンスという名の安全なゆりかごを隠れ蓑に、犯した罪を隠し同居人の忍ともかかわらずに生きる。けれどそんな生き方の先に現れたのは、独善的で自分本意なひとりの女でした。雇った忍に食物を与えることを「お供え」と呼び、その行為を自らの贖罪として、生きる糧にすら転化させてしまう妙の強さと狂気。忍が死んでしまった後も「お供え」を続けようと妙が独白したところで、物語は幕を閉じます。

独りで過ごす時間は、心豊かに暮らすには欠かせないもの。けれど自分の考えのズレや至らなさを知るのに必要なのは、やはり他の人との日々の会話や交流なのかもしれません。さりげない雑談をかわす、そのときの相手のしぐさや表情から、わたしたちは言葉では言いにくい、あるいは言葉を使わず示された相手の本音を察知して、あらためて自分の考えを見つめなおします。そういう「ノイズ」を知ることで、わたしたちは自分のただしさを確認したり、ずれた部分を修正したりできるのだと。そんな貴重な機会を奪われたのがこの2年余りの隔離生活ではなかったのかと、改めて感じたことでした。

(2022.5.26 加筆修正)

木村紅美著
『あなたに安全な人』
河出書房新社


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