
地下1、5mに埋もれていた村とかお茶碗とか前世とか。
その昔、遺跡発掘調査のアルバイトをしていた時のこと、最初に見たのはただの草ぼうぼうの土地でした。この草ぼうぼうのどこに弥生時代があるんだろう?と不思議に思ったものです。私も知らなかったのですが、遺跡の発掘は期間限定&一期一会で、数ヶ月後には埋め戻されてマンションが建設されることが決まっていました。
ところで、足の下にあるんです、弥生時代って。東京都下の場合、弥生時代の地層は、だいたい1、5mくらい下になるので、ジョレンという道具を使い人力で少しづつ地面を削って掘り下げていきます。
すると、大正、明治、江戸と土の色が徐々に変わっていって、紀元100年頃の弥生時代後期の地層にたどり着きます。ちょうどヨーロッパでローマの5賢帝時代が始まる頃ですね。ざっと2000年分で1、5mくらい削っていきます。辿り着いたとわかるのは、親愛なる主任研究員が厳かに「そろそろ弥生に到達するよ。みんな、気をつけてね?」と告げるからです。
気をつけなければならないのは、遺物が出土する可能性があるから傷つけないようにしてね?という意味なんだけど、素人にはチンプンカンプン。とにかく数日は、ひたすらジョレンがけをしてタオルで汗を拭い水を飲む、という繰り返しが続きます。
そのうちに、(近距離では分かりにくいのですが)遠くから見ると住居跡やお墓、川や広場などが大まかに姿を現し、目視で確認できるようになります。その村は15世帯ほどの小さな村でした。全体の様子がわかってきたら、今度は2人1組になって竪穴式住居跡や川などを掘り進めます。
アルバイトの発掘作業員は15〜6人いたと思います。みんな20代〜30代のフリーターで男子の方が多かったけれど、女子も数人いて、学校のようなゼミのようなゆる〜い雰囲気の仕事場でした。ランチタイムにはみんなで近くの公園へ行ってお弁当を食べたり、湧き水を汲みに行ったり、ジョレンがけをしながら宮崎駿論なんかを語りあったりしたものです。
職場恋愛もあったらしく、付き合ったり別れたりのドラマも水面下で進行していたようです。私自身は塾の講師をしていた S君とウマが合ってよく話をしましたが、二人ともステディーな相手がいたので友達以上の関係にはなりませんでした。
が、話し相手としては非の打ちどころが無かったなぁ〜と今でもたまに思い出します。何を言っても反応がいいし、言葉以上の気持ちを掬い取ってくれているように感じていました。後年、自死したと風の噂で聞きましたが、あまりにもいい人すぎたのかもしれませんね・・・。
多かったのは、彫刻や絵画など美術系のフリーター、インディーズバンドをやっているという男子やものすごくきれいな人妻、超個性的なアネゴ肌の人なんかもいてかなりユニークな集団だったと思います。サブカルチャーかぶれの人も数人、整体師を目指していたりとか鍼灸師の卵だのバリエーションはめっちゃ豊富でした。
また、某大物俳優の息子もいて、この彼はお父さんに似てイケメンでしたが、家庭環境はあまり幸せとはいえなかったようです。彼はこの現場の仕事期間中に交通事故で亡くなりました。家庭に恵まれなかったせいか10代で結婚してパパになり、授かった娘がもう可愛くて可愛くて自慢の種だったのに・・・。本当にかわいそうでした。
が、そんな出来事も含めてなんでも話せてしまう疑似家族とでもいうような雰囲気のある職場でした。ピラミッドの頂点が主任研究員と副主任で底辺がアルバイトという教師と生徒のような2層構造だったのも手伝っていたかもしれません。
竪穴式住居跡には、仮に責任者の名前をつけて「鈴木さんち」とか「山田さんち」と呼んでいました。いえ、その時点ではただの土ですけど。私が担当したのは「森さんち」でした。発掘調査会の主任研究員に言わせると、森さんちは火事で焼けたのだそうです。その道のプロはすごい!土の色が他の家とは違うから一目瞭然とのことでした。
その森さんちの入り口近くに周囲と色の異なる楕円形の土がありました。
「これって何ですか?」
「赤ん坊を埋葬した跡だよ。この村には墓所もあるけど、離れた場所へ埋めるのは忍びなかったんだろうね?」と主任研究員。
胸がキュッと痛くなりました。
弥生時代であれ現代であれ、人間の愛情ってそう変わらないんだなぁ、と。
現代に比べれば、乳幼児の死亡率もはるかに高く、寿命だってそう長くなかったでしょうに。
住居の中を掘り進めていくと、文字通りの弥生土器(完品ではありません)が出てきました。まあ、弥生時代なので当然といえば当然なのですが。ただ、その土器がものすごく美しい!色といい形といい、手にしっくりくる感触といい、それはもう言葉で言い表せないくらい美しいのです。
こんなにも素敵な器を作れる人がいたんだ!
弥生時代に!
で、なに?
彼らはこの器でご飯食べてたの!!!
この器で!
その事実に心が震えます。
「弥生人=原始人」みたいなイメージがあったのですが、熱烈大反省。弥生人は現代人よりすごいかも?と秒速で上書き修正いたしました。
その土器は、そのくらい美しかったのです。
後にも先にもあんなに美しい土器は見たことがありません。
なんて豊かなんだろう
なんて美しいんだろう
その印象は今も揺らいでおりません。もし二千年後の人々が令和を発掘したとしたら豊かで美しいと感じるのでしょうか?
村には、大きな焚き火跡もあり、動物を丸焼きにしていたとの事でした。弥生人てパーティーピーポーだったん?猪を丸焼きにしてみんなで食べている様子が、ありありと目の前に浮かんできます。きっと周囲には骨が散らばっていたはずです。はずというのは弥生時代まで遡ると、余程条件のいい場合を除いて骨はまず残っていないからです。
また、村の中心を幅2mくらいの川が流れていて、緩やかに蛇行しているのもわかってきました。子供たちはこの川で遊んだのだろうな?と容易に想像できます。流れがあった事を証明するかのように、川底の石が弥生時代のままに並んでいました。弥生時代の川底を現代の自分が眺めているというのはかなり不思議な感じのするものです。
村はずれには墓所もありました。といっても、骨はとっくに溶けて失くなっていますから、長い楕円形の黒々とした土があるだけなのですが。10個ほどの楕円形がきれいに並んでいて死者への礼を尽くしていた事が窺い知れる、そんなお墓でした。祭祀用の土器と一緒にきっとお花も供えられていたでしょうね。
そこは、人として生まれて生きて死ぬまでの時間が一つの村の中に凝縮されているような場所だったのです。そして、精神的にとても豊かで愛情のある暮らしがあった事を、そこにあった何もかもが静かにけれど力強く語っていました。
初夏の頃、仮設のプレハブでお昼ご飯を食べていた時の事です。その日は墓所の発掘をした事もあって、ちょっとブルーな空気が漂っていたのを覚えています。
「私、ここにいたような気がする。」と誰かがいいました。
「あ、私もそんな気がする。」
「みんな前世はここに住んでいたとか?」
「それで自分の住んでいた村を見たくて集まったとか?」
「前世同窓会?」
シーーーーーーーーーーーーン
「まさかね?」
と、また誰かが言ってその話は終わりましたが、あのシーーーーーーーーンの時間、誰もが「そうかも?」と思っていた、と今でも確信しています。
後年、発掘調査会で働いている友人に「シーーーーーーン」の話をしたところ、「あの時のメンバーだったからだよ?メンバーが入れ替わってからはそういう話になることはなかったし、後にも先にもあの時だけだったよ?」と。
「じゃあ、やっぱり私たちは前世であの村に住んでいたのかな?」
シーーーーーーーーーーーン
今度は2人でシーーーーーーーーーンとなりました。
前世があったかどうかはともかく、その時のメンバーが一期一会だったことだけは確かですし、時々、弥生のお茶碗やあの美しい村と一緒に懐かしく思い出します。みんなよく笑ってたなぁ〜って。
発掘調査終了後、10階建てのマンションが出来たと聞きました。あの遺跡は、もう誰も見ることができません。
なので、私の思ひ出は地下1、5mの弥生時代と一緒に埋まっているのです。
懐かしい仲間と豊かで美しい村
震えるほど美しいお茶碗
そして
前世やなんかと一緒に・・・ね。
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