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3123文字、自他救済をどう捉えるべきかについて(受けた糾弾をご都合主義的に矮小化する事で何らかを保全する事例に目を配りつつ)

2023-8-006

同じ対象について肯定的か否定的かのスペクトラム上のどこかに個々の主体が位置付けられるとか、できるできない等の有限性の表層有り様が個々主体で異なるとか、

そうした個々主体の差異を気にしない有り様には二通りあって、その使い分けができてないから、
人権主権含む権利観は有害な側面を持ち続けてきた(帰属認定が、保障にかこつけた疑似事情への帰属誘導、つまりは、帰属操作にも利用されてきた)ので、

その人の自他救済の像が既存の権利感覚(帰属感覚)と大差ないなら、通念的善悪像のどこに位置付けられようが、奪う奪われる内容の政治に与してる
(その外に出る余地を潰してる、したがって、そのような環境に自他を置き続けてる様を救済と見なしてる)側であるように思われます。


そして、その二通りとは個別性の代表として主観で言うと、
主観から客観への移行処理(同種の他との差異要素捨象による個別性捨象)、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存
(局面と着目無視との合致の意味でのフェアへの志向を包含してるので、受けた糾弾に対する矮小化をはじめ、ご都合主義ではないという事実が先立っていないと正当化されない類の認定の判断者条件も満たしてる)
を生きてる結果の主観への志向(同種の他との共通要素捨象に十分さらされてる個別性は表層有り様によらず肯定し、そうでない個別性は表層有り様によらず否定する態度)、


この二つが相当し、余裕が生じてなお成立の質を問わないままな次善の策居座り
(これは、理想を割り引く程度を最小にできてない類の現実受容Aなので、これが見られた人なり社会なりには、
対無限者や対真善美についても同Bである事が、つまりは、そこを最小にする原理の不在が意味される)を含む、

成立の質が問われてる状況で成立の量を追う(上の二通りにおける後者が要請されてる局面で前者を持ち出す)という、場の性質の非尊重が、使い分け失敗の中身に当たる為、
その人の自他救済の有り様が奪う奪われる世界の保全に与しているいないの差異は、性質把握の精度が上限化されているいないの差異


(上限から離れる程、場の疑似でない性質に対する尊重のその立場故に可能な具現のみが他方に要求される管理者立場プレーヤー立場間関係なり、場の疑似でない個別性に即させる整合から成る秩序への志向なり、
外在場の不可避な影響を有限の与件性レベルの受容せざる得なさに抑える働きは形骸)

に置き換え可能で、この置き換え版の差異(上で言う最小にする原理を、抽象化具体化の不十分さ解消と解せば、
この解消と整合してない部分を疑似問題扱い、疑似解決扱いできているいないの差異とも言い換えられる)への着目を欠いてる既存の政治哲学に
(もちろん、合わせる合わさないという単なる表層形二択な地平から成る対秩序にも)取り合う必要は、奪う奪われる世界の外を目指すなら、ないと考えます。



また、理論とその実践の関係(ちなみに、理論面では理想切り捨て、実践面では現実切り捨てを、あるいは、実践面でも理想切り捨てを主張してる形な既存権威の扱われ具合は現状、
上の意味での疑似問題扱い、疑似解決扱いが、プラトン時点で提示されてる理想現実関係に関して未だ不在である証拠になってる)については、


仮説と検証の関係にするつもり(理論の改善機会に開いておくつもり)なら、
精度の低い具体化結果(仮説の通用してない領域があるかどうかについての情報)による改悪フィードバックを避けないと形骸なので、

限定条件の除去状態の準備と引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、これらの上限化
(両者に負わせる限定条件が、代替不可能な内外事情にしか応じない実存であるケース)を内容にしてる時に肯定される(修正余地がないので受容に値する)し、

そうでない時は、通用してない理屈の余裕有無とは関係ない(次善の策ですらない)ごり押しや、
帰結の内の理屈に帰属しない(理屈を矮小化させてる者に帰属する)部分までその理屈の責任にする擦り付けと見なされる、

こういう構造が言えるのでないかと想像します。



後者内容から前者内容への移行をもって、例えば、他者救済に関する自負なり大義名分なりが肥大化するのも、防げるはずと期待するわけです。
逆に言うと、問題解決でしかない生(化学反応の円環連鎖に関する、置かれてる場に通用させ続けるという存在条件満たし)が、

次元設定自在性という人間性による、問題や解決の抽象化を経る事で、問題や解決の中身を、抽象化具体化の不十分さ解消
(受容条件の中身を、有限の与件性レベルの強い受容せざる得なさから成る限定前後関係)
にまで持っていける(受容条件設定の安易さと整合してるせいで矮小化してる知性倫理美意識の働きを、帰属修正の形骸化から解放できる)だけ、



つまり、他者他種に限らず、無生物だろうが概念だろうが、さらには、この解消の具体化
(理系的局面では同種の他との差異要素捨象を、文系的局面では同種の他との共通要素捨象を引き受ける論理像の不在は、この解消の具体化が不十分なものになる原因であり、

この不在が前者的捨象の領域侵犯と後者的捨象の埋没という形をしてる近代性パラダイムの産物を、
不在の分だけ確からしさを割り引くよう要請しないまま、まき散らす有害性は、

問題というものの抽象化が不十分なせいで表層次元の整合性に留まってる対象理解に対し、
疑問が持たれない理解力観、および、疑問を持たなくなる方向へ特化させる教育環境に原因がある)まで、

抽象化具体化の不十分な現象有り様を十分な現象有り様へと、修正する対象に含まれてくるだけ、


との理解が踏まえられてないから、利己利他枠組みの肥大化(局面と着目無視の合致を先立たせてない救済反応などの、
フェアを越えた尊重部分に修正余地を見ない対自他やその権威化)を許してきたと考えるわけです。




注1

上の意味で抽象化が不足してる問題解決観(帰属認定も尊重の一種と解し、形骸化してないかどうかはともかく帰属修正を知性倫理美意識の働きと解するとして、

フェアを越えた尊重部分に修正余地を見る対自他も包含してる、代替不可能な内外事情にしか応じない実存を、
生きる以上の事、特にこの実存と整合しない獲得なり特化なりを自他に要求してる時点で、もちろん、要求してる内容の理念を採用していても、これが言える)は、


歴史や論理(排中律等は有限性の現れなイメージですし、有と無の差異も有限性を意味するので無限性自体は有無枠組みの対象でないイメージです)について、
それらは抽象化具体化の交互反復(による同一性と変化の同時達成)として常に、あるいは、既に展開されていて、

思考含め、我々(通用領域の広狭と確からしさとの相関は認識の前提レベルで持ってる)にできるのは、
抽象化具体化の不十分さ(通用領域の狭さ)の程度を弱める事(過去に対す
るそこの十分不十分の評価踏まえ込み)だけ、

との理解の不在にも繋がってると考えます。


注2

数を数えられるのなら、林檎も蜜柑もまだ見ぬ何かも数えられる(Aができない時点で原理抽出に失敗してる為、同種のBができてるつもりでも、確からしい原理には帰属してない、

この意味で自己絡みの問題だろうと一旦抽象次元に遡る必要があり、覚えたつもりが本番で思い出せないといった類の経験は小学生でも十分可能である以上、遡らないのは経験の持ち腐れな)わけですが、


点から直線を構成するにも、直線から点を局面事情に合った形に切り出してきたものとしての個々を想定するにも、同種の他との差異要素捨象が必要なので、
その捨象用いた抽象化具体化の関係が、理系的な次元間の関係の前提(抽象像)になってるように思います。

ご支援の程よろしくお願い致します。