4041文字、コミュニケーション能力は誤解されていて、その原因は内実不問に追いやる既存教育にあるという話
2024-11-005
経済活動の文脈であれ、人間関係の文脈であれ、需給成立が代替不可能な内外事情にしか応じない主体像
(個別性に対する同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化が十分である主体像)における個々事情としての需給事情から成ってるなら、
その成立は、存在するのと引き換えでない要素を存在に帰属させる帰属操作が含まれてないので搾取とは言えないはずです。
その成立を理想とした時の受容に値する(同捨象を用いた抽象化具体化が十分である為に修正余地がない)現実とは、
内外事情の取り違え(個別性が根拠になる局面での論理飛躍)が含まれてないほど質が高いとした時の質を、
余裕がない局面でも高めにいく、余裕がある局面でも高めにいかない、といった理想現実関係にとっての安易さ(具体化精度の低さ)を回避できてるケースです。
つまり、個別性が根拠になる局面で個別性に対する同種の他との共通要素捨象を展開したり、この捨象が十分であるかを検討する能力
(言い換えると、対文系での内実不問を文系的ないらぬ飛躍が保存される論理性欠如として扱い、
内実の確からしいものを確からしくないものに混ぜたり、内実の確からしくないものを確からしいものに混ぜる帰属操作を退ける能力、
もちろん、その捨象に十分にさらすよう求める要求から逃げ回り、内実不問を維持してるケースに対して、
意図的な帰属操作と認定し、何らかの搾取を非難してたとしてもそこに説得力を、
帰属操作Aを肯定しつつ帰属操作Bを否定してる内実をもって認めない反応込み)を育ててない既存の教育と、
整合的(個別性が根拠になる局面でも個別性の取り違えを問えない内実不問が内面化されてる状態)である限り、
その人は経済活動も人間関係も、負わせるに値しないものを負わせる内容に留めてしまうわけです。
(在庫管理やポートフォリオに至ってはもはや基礎レベルと言えるいらぬ特化対策でしょうから、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存と獲得喪失有り様との整合を無視して情報を取りにいかせる内容、
したがって、いらぬ特化に対し鈍感となるよう誘導してるも同然な内容の既存の教育論による、
いらぬ特化回避を原理レベルで持つ事への妨害、言わば、林檎は数えられるのに蜜柑はできない的な状態に据え置かされる、という側面も押さえる必要があります。)
例えば、場の本質に合わせる(特化の過不足を最小にしてる具体化)なら場を荒らすという表層形も場を荒らさないという表層形もあり得る(表層形は開放されてる)のに、
場の表層に合わせる(場を荒らさない)のを空気を読む事と解して、場の表層に合わせるか場に合わさないかの二択で人間関係を捉え、表層形のいらぬ限定という矮小化を人間関係に齎してる。
例えば、チームスポーツ、かつ、敵の優勢がそのまま味方の劣勢になるゼロサム的競技スポーツにおいて、
敵の悪手を咎めない、チャンスを逸するといった傾向故に、味方にいらぬ劣勢
(アンフェアを許すと結果が茶番になって、負うに値しないものを関係する全員が負わされる事になるので、それを防いでる結果に生じてる類の迷惑はかけて問題ない、
つまり、取り違え最小な局面事情と着目無視との合致の下での割り振りへの支持の意味でのフェアを、
越えてまで自他を助けない、という内実の現れとしての迷惑を負ってる状態はいらぬ劣勢ではない)が常時与えられてるのに、
チームの和を重視(和が損なわれる事自体の忌避は、割り引かれ自体の忌避の点では同種である包摂忌避と共に、上の二択を構成する)してるつもりな形骸配慮に疑問を持たないでいる。
こうした事態も内実不問な現象解釈から来てますから(内実不問なまま駆使されてるのに、集団主義系ロジックや個人主義系ロジックに対して論理飛躍を見出せない理解力は実際、
ある場におけるルールが場の性質を保障できているいない、言い換えると、場にとって持たざるを得ない偏りの反映になっているいない、
場の性質が場を構成してる主体の個々事情の集積である時に、個々事情が主体にとっての取り違えでない内外事情であるかないか、
といった内実について不問なまま政治や経済の秩序を語る、例えば、人権と主権の疑似対立を前提に話を進めるなど、政治哲学を矮小化させ続けてる程度には有害です)、
既存の教育における先の育ててなさの意味での不備(内実確からしさへの着目による表層形開放の方向性を埋没させてる内容)の弊害が、文化に合わせて具体化されたものと捉えましょう。
文系領域において余裕があってなお内実不問なもの(修正余地のあるもの)を押し付けておきながら
(個別性捨象をもって構成されるところの権利概念や権利感覚を、あるいは、共通性立脚な理論を、
個別性が根拠になる局面とならない局面の区別不全の下で持ち出した時点でこの形になる)、
自分には正当性があると主張する人、ひいては、内実不問由来の不幸およびその泣き寝入りを、
既存の教育が量産してる事実(代替不可能な内外事情にしか応じない実存である事以上を自他に求めない人間関係、
当然、局面事情の取り違えを最小にしつつ局面と着目無視の合致を捨ててまで自他を助けない自由平等、
つまりは、場が持たざるを得ない偏りに即したフェアな優勢劣勢有り様しか認めない結果に生じてる迷惑なら自他にかけて良いとする態度込みであり、
この実存から成ってるという内実の現れでありさえすれば良いので表層形は開放されていて、
修正余地のないものしか負わせてこないこの実存を他者に求めるという主題の具体化条件もこの実存になる、
したがって、内外事情次第では表面上求めないケースもあるこれの実現とバッティングしてる事実)と向き合いましょう。
(ちなみに、薬をばらまいてるのが病気をまき散らす構造で得をしてる人だとしても、薬を欲してる人にはありがたいわけですが、
お金持ちの為す慈善的に振る舞いには搾取構造を保存する為のメンテナンスの側面もあるわけです。
エリートのリベラル化はこの構図のパラダイムバージョン、セレブリティのリベラル化はこの両者の混合型と推測されますから、
リベラル化したエリ-トがコミュニケーションを評価する際に念頭に置いてる理念には、
個別性の内実確からしさを検討する能力が不全なままでも文系の知的権威になれる構造を、
ひいては、エリートという地位への過剰な特権付与に繋がる肥大化した優勢劣勢有り様を保全する働きがあると捉えましょう。)
ところで、コミュニケーションを神的存在との付き合い方(狭義的には信仰)にまで拡張すると、
コミュニケーション不全に関する誤解は、理想を割り引いたものとしての現実というプラトンの問題提示に対する解決状態として、
理想を割り引く程度を最小にしつつ成り立たせてる現実(この文脈では、代替不可能な内外事情にしか応じない実存)を提示しなかった哲学者の責任になると考えます。
実際、カントは対真善美における知性や認識に関しては理想(および、人間の共通性への着目による現実における個別性の内実への注目)を切り捨てる一方で、
倫理や信仰に関しては現実を切り捨ててます(人間の共通性への立脚による個々事情や現実的事情の切り捨ては、
割り引かれ自体の忌避が改善フィードバックも捨ててしまうせいで、理想を理想として扱えてない事態となるのに)し、
ニーチェは倫理や信仰に関しては神的理想と弱者的現実を切り捨てたポジションに期待してる形(割り引かれ自体の忌避に関する問題は先行者から引き続き存続してる)です。
(理想を割り引く程度を最小にしつつ成り立たせてる現実が点として紡がれてる、という内実が個人の歴史に言えるなら、
その人は代替不可能な内外事情にしか応じてこなかった、ひいては、精度最大な具体化のフィードバックによって内在性質を改善し続けてきたと見なせる為、
感覚選抜や感情選抜のようなその人の個別性を根拠とする振る舞いも、内在物を局面の個別性に合わせて具体化する働きとしての理性もいらぬ飛躍がなく、
ここから、理想現実関係に対する安易さ除去の集積は、文系的ないらぬ飛躍の除去と言えるので、文系空間が文系的ないらぬ飛躍とその弊害に塗れてるのは、
哲学者が、絶対主義的安易さに陥らないよう有限の与件性から目をそらさない、
および、相対主義的安易さに陥らないようより確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害が最小でない有限性まで許容しない、この2点を押さえるのに失敗してきた帰結です。)
なので、代替不可能な内外事情にしか応じない実存(より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害が最小な有限性における有限性有り様)であれば、コミュニケーション不全は不可避な有限性にのみ帰属がある為、
その実存を生きてる者(その実存を対問題の具体化条件にしてる者)はコミュニケーション不全に対する責任を果たしてるし、
その実存を生きてない者は、負わせるに値しない有限性を存在してるだけで自他に負わせてる一環として、コミュニケーションにもいらぬ限界を与えてる、
この理解と整合してない対理想や対現実に関する理論や実践を退けるところまで含めてコミュニケーション能力であると解しましょう。
(例えば、痛みのメカニズムは、置かれてる場に自身を通用させ続けるという存在課題が種に帰属してるケースの産物ですし、
痛みを覚えた事自体も、痛みの原因や痛み自体への対応という対問題も存在課題が個体に帰属してる現れですが、
精神的な痛みは観点にも帰属してる為、この局面で取り上げるべき差異、取り上げるべきではない差異についての判断次第で有無も強弱も変わりますから、
局面把握の精度を最大化できてないなら疑似問題や疑似解決を含んでしまいます。
したがって、上の実存を生きてない為に観点も上の実存の反映ではない人のコミュニケーションには、
指摘に対して過大過小な反応を示すなど、この種の疑似問題疑似解決が含まれてると想像されます。)