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平等概念も、奪い合いセンス(非対等性に対する単なる増減操作)の下に持ち出されてるので、解放しようという話(カント再考の側面を入れつつ)

2023-1-002

非対等性に対し単なる増減操作(単なる均衡志向含む)で満足するのは、局面に即した次善の策を除き、奪い合い世界の延命と思います。

(場の本質に合わせた結果が場を荒らしてる形にも、荒らしてない形にもなる以上、場が荒れてないというだけでは場と整合的であるとは言えませんし、

市場志向とそれへの反動反発、不変化重視と変化重視、といった場の本質に合わせる方向性持たない、言い換えるなら、具体化精度確保を論点としてない、場に合わせる合わさないの二択は、

その二択に格差を、付けにいく絶対主義傾向や無くしにいく相対主義傾向の有無によらず、
文脈無視して意味を特定する的に、負わされるに値しないものを負わせる働きの保存と見なせます。)


表層の有り様を、帰属操作の混入問題に先立たせてる知性や倫理でなく、

(林檎を数える、蜜柑を数える等の具体化条件差異を、同種の他との差異要素捨象で取り込む理系的局面と、
雨が降ろうが槍が降ろうが引き受けざる得ない的に具体化条件差異を、同種の他との共通要素捨象をもって取り込む文系的局面とを分別しないのは、

特に、個別性が根拠になる局面での前者捨象ごり押しや両捨象否定、つまり、不当合理や過剰特殊は、
場との不整合である為、個体なり種なりを場に通用させ続けるという生主題を矮小化させてる認識下での生であり、

その意味で、具体化精度の低いものも対矛盾等で統合対象にするとか、具体化精度確保、改善フィードバック、内在由来の疑似化の縮減という流れを自我と文化、続けて無意識と意識の関係に持ち込まないとか、
通用の行き渡ってない状態のそうした安易な解消や放置は、生の形骸化であるとしつつ、)

場や場に置かれてるものの疑似でない性質に帰属があると言える点をもって、
非対等性の有り様に満足する知性や倫理が支持(論点選抜や自他救済もフェアを越えてる類は否定)される世界に変えましょう。



(自他尊重なり、手段含む多様性尊重なりを掲げてようとも、場に置かれてるもののポジションや具体的有り様が場の疑似でない固有性と整合的である事の要求を含んでないものは、
内面も場である以上、数を数えられないのに林檎を数えられると言い張ってる形なので、形骸物として扱い、

対人や対国、あるいは、対繋がり方や対歴史においては、場の固有性の疑似化除去という論点を介する事をもって、肯定が過剰肯定となるのも否定が過剰否定となるのを抑えにいきましょう。


例えば、短距離での足の速さ差異のみが取り出されるよう大会運営に要求したり、要求が通ってる状態での割り振りを受容するのと、
国や国際社会への要求、優先順位や役回りの割り振り受容は同じ話であると解して、国への過剰肯定過剰否定を抑え、

また、その種の要求や受容は、何ら限定されてない状態の準備とそれが現象に際して引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、
この両上限を内容とする理想現実関係均衡点の具現への、被管理側なりプレイヤー側なりにおける貢献であると位置づける事で、
異なる内容な均衡点の具現化の、つまりは、受容に値する状態の疑似化の、政治への持ち込みに参加してしまう展開を避けましょう。


同様に、経済系に限らず需給成立に先立たせるべきは場の疑似でない固有性との一致であって、
その他の概念ではない、むしろ、自由や平等も欲望や労働も、そこの一致を内包する方向に概念内容が刷新されるべき対象である、

別の言い方するなら、均衡志向や立場反転願望による事態のエスカレートを抑えるには、そこの一致が均衡達成に先立つ必要があるので、
需給成立についてもその観点からの肯定否定を阻害しないよう、余裕があってなお非対等性の単なる増減操作の対象とするのは避けるべきである、と解しましょう。)



認識が対象を加工する点(理解限界)を、認めつつ、認識場に合わせた必要最小限の加工に抑える問題として捉え直し、
同じ構造を、疑似化の内在由来から外在由来への振り替えとさらに捉え直した上で対実存に、

主体の内在事情外在事情への同種の他との共通要素捨象の形、あるいは、主体のその捨象用いた抽象化具体化の交互反復の形
(仮説が検証のフィードバックを経て疑似化部分を縮小させてく働きが期待できる)で持ち込んだものを、先の最小限加工としてる、

この状態からの認識の乖離を修正対象とする(真理からの認識の乖離を修正対象とはしない)。


この認識観と、同様の構図を重ねた道徳観(および、知性も倫理も帰属関係を、
有限の与件性、より確からしいものが取って代わる運動性、これらから成る、

言い換えると、何ら限定されてない状態とそれが引き受けざるを得ない限定条件、これらの準備上限の下での統合から成る、
帰属に修正余地のない、したがって、受容に値する状態としての上で言う状態へと持ってく働きである、との位置づけ)をもって、既存の哲学と決別し、


特に、既存の理想現実関係観は、(過去や未来を軽視せず、過去の再現や未来へのショートカットにこだわる囚われもない)上で言う統合意味する抽象化具体化不十分さ解消ポイントを紡ぐ歴史
(獲得喪失にこの歴史観を反映させた許容拒絶感覚の下で展開される人生なり政治なり教育なり)を損なう、

実際、被限定を剥ぎ切ってるとは言えない理想を掲げるばかりか、強引に実現させにいく政治などの余地を許してきた、との理解を踏まえつつ、

ある過去の認識や道徳への肯定否定も、現在や未来のそれも、上の認識観道徳観の反映である対時空
(例えば、古代なり近代なりに書かれたテキストとの付き合い方)を内包する平等観(冒頭の後者満足と言えるそれの取り込み)を達成しましょう。



その平等(小学期では親や先生といった管理者ポジションに対するその獲得が、先立たないと他の獲得喪失有り様を環境に振り回され過ぎな結果としてしまう為に、最大の課題と目される、
あらゆる主体に上の対実存を求める一方でそれ以上は求めないという、表現への評価観点ともなる態度)は例えば、

余裕がある局面とない局面という条件差異を、夏も冬も同じ格好的なごり押し生によってでなく、怪我してるならしてるなりの最善がある的発想によって取り込む方と整合的であるわけなので、


限定前後で確からしさが保存されてる(限定理由の確からしさが、通用領域減分を補填してる)限定に対し、
それ込みで被限定を否定したり(自由や尊重や対理想の語り方がこれだったり)、
それ以外込みで被限定を肯定していたら(対現実や権威や経験の語り方がこれだったり)が、余裕あってなお見られるごり押し生では、

言い換えると、抽象化具体化の不十分さ解消を根本論点としてない生では、達成できませんから、


哲学に限らずその種の言動
(特に、認識か存在かによらず、あらゆる現象を内外性質統合と捉える、かつ、両性質におけるいらぬ飛躍の含有量を論点とする現象観を欠く為に、

主語からの切り出しだけでなく主語の切り出しも込みの主語述語関係像における論点が、先の文理分別含めた、抽象化具体化不十分さ解消になってない、
その流れで、文系論理や文系概念が、具体化条件差異パターンに通用を行き渡らせにいった産物になってない、その結果として、実存的平等や質的救済を埋没させてしまう言語感覚、

あるいは、文理の分別不全と相まって、歴史展開の論点が改悪フィードバックの阻止に、もっと言うと、対問題の論点がいらぬ飛躍の除去になってない、
その結果として、条件の良し悪しに振り回され過ぎてるとか、講じる対策が強硬であるとか、望ましい表層形との遠近を具体化精度の高低に先立たせてしまう処理感覚によって、

内実が奪い合いとなってる言動)とは、余裕が生じ次第決別しましょう。




注1

本文で言う対実存(対実存でも内在由来の疑似化を外在由来に振り替える生)を実存的自由と見なせば、
本文の内容を(美意識も知性や倫理と、機能してるかどうかはともかく、同じ働きを持つとの仮説込みで)踏まえると、
その自由は、有限性の下での真善美からの乖離の最小化の働きと疑え、

加えて、真善美をより確からしいものが取って代わる運動性(無限性)のある側面と解する事で、
その自由は信仰(有限者による無限者との関係性改善)における上限化にとっての、少なくとも必要条件であるとも疑えるように思います。


注2

主観は、同種の他との差異要素捨象によって客観(ここでの同種について、他人に限るとか他生物種も含めるとかの操作で階層化も可能)となり、
同種の他との共通要素捨象によって、存在するのと引き換えの要素だけが反映されてる状態に近づく、

そう解するとして、前者捨象そのものの世界(数学や形式論理学)の同種の他として、後者捨象そのものの世界(同次元の他との差異を確からしくする働き)はあるわけなので、

より確からしいものが取って代わる運動性そのもの(無限性)を抽象次元とする個々具体としての両世界に関し、
自身の性質を明確に持つ働きの形で、つまり、自身を自身足らしめるべく、前者世界は後者世界を要請してる
(逆向きでは、同種認定に際して要請がある)という関係が文理の内実として疑えるのでないかと想像します。


注3

例えば、具体化精度の確保と関係なくポジションなり具体的有り様なりの変化不変化を肯定否定していたら、
仮説を改悪フィードバックに極力さらさないでおく能力を持ってない事を意味しますから、

本文で言う対実存と整合的な獲得喪失(有限性形態の特化)を要求してない既存の教育や教育論は、

文系事象に関するその能力を育てない内容であり、可能なだけ育てた文系者を社会に送り出してた場合の世界との乖離部分
(言わば、帰属操作の混入阻止を表層形に先立たせてる世界と、非対等性に対する単なる増減操作でしかない問題解決が理念レベルで幅を利かせてる世界との間のズレ)について責任を負ってると言えます。

逆に言うと、例えば、本文で言う対実存の集積として市場において割り振り原理となる需給事情が立ち上がってる状態に関し、近づけたり実態との差異を掴まえたりするのと同じ働きを、
文系事象に対する認識に持たせる教育が、世界有り様の根本改善には必要なのだと想像されますし、

その教育は個人レベルでも、同じ働きが自我(内在的問題解決スタイル)と文化(外在的問題解決スタイル)に対しても生じれば、
生じた結果に構成された注力形式が、自身の無意識と意識という、問題解決に関する注力前後関係に、
具体化精度確保、改善フィードバック、内在由来の疑似化の縮減という流れを持ち込んでくれる(本文で言う放置の解消)と期待できます。

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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