3341文字、和や助け合いを生かす為に必要だろう理解について、文系領域での相対主義をどう位置付けるかにも触れつつ
2023-12-001
個人レベルであれ国レベルであれ、優勢劣勢(存在しやすいしにくい)の修正余地をなくす試みが先立ってなければ、
戦術や連動は疑似問題(疑似化してる優勢劣勢有り様を真に受けた反応)に注ぎ込まれる為、
それら(例えば、和や助け合い)は空転してる(持ち腐れてる)と捉えましょう。
実際、行き過ぎた合理性への批判には、内在と外在の上下論がその内容であるケースも、個別性が根拠になる局面での同種の他との共通要素捨象を要求する
(同種の他との差異要素捨象を拒絶する)帰属修正のケースもあると考えます。
前者である内在不問外在軽視な自由観は、優勢劣勢に修正余地なさを持たせる帰属修正とは言えない
(例えば、内実不問と包摂拒否から、表層形反転による包摂回避を可能にすべく肥大化した両極保有に走る相対主義は、
解決におけるフェアを越えた部分を認めないなどの、肥大化した部分の除去へと向かう知性倫理美意識から見るとただの帰属関係操作であって、小手先の解決に過ぎない)のに対し、
後者は(例えば、何に興味持つか等の反応原理と置かれてる状況とが合わさったもの、人なり物なりへの一目ぼれのような対象位置づけ段階も込みなそれとか、
文章における畳み込まれ具合が文脈によって把握されたとか、そうした内実の確からしさについて何も言ってない状態からの移行として)
個々の特殊性(内外性質統合と見て両性質)を上の捨象に十分さらす事で修正余地なさを持たせにいってる形と言えます。
ここで、修正余地のあるものを保障する事態となり得る前者(この場合例えば、グローバル性とローカル性の関係を、
不当合理への批判にかこつけて過剰特殊を押し通すロジックへと矮小化した主張が相当するけれど、攻守反転形でも話は同じ)に疑問を持たないのは、
内在性質なり外在性質なりが単独で成り立つ的な発想(例えば、声含め音が生じる事について気にしてない時と、音が出ないよう慎重に動く時は、
場の性質が異なるだけで対等なのに、前者を場の性質と無関係かのように捉える現象解釈で、
A=Aの左辺が抽象、右辺が具体である場合の論理や言語における勘違いと同じ)に原因があると疑うと、
プラトン以降の哲学者が、真善美との距離ゼロを帰属修正の目指すところとする表層形反転から、内実不問な相対主義化を避けつつ、
有限者故に生じる真善美との距離を、疑似でない有限性形態の反映に抑え(より確からしいものが取って代わる運動性への阻害が、
有限性に対しこの運動性の働いた結果と言えるその反映のみである場合、阻害はないに等しい)、
抑えた結果が受ける具体的扱いを、良い扱いか悪い扱いかによらず置かれてる場の疑似でない個別性次第とする帰属修正
(分かり合えなさで言うと、真善美に対する各自に特有の加工を認めるだけでは相対主義止まりであり、
同様に、各自の差異を必要に応じて捨象する際の必要が、場の疑似でない個別性と整合してないなら相対主義止まりなので、
距離縮小の実現可能な最大限を意味する、代替不可能な内外事情にしか応じない実存の下での対峙、という個人から見た内在場、
および、民主制や市場に限らず、場の性質に反映される個々事情がその実存だけから成ってる状態、という個人から見た外在場での達成度)へと、
論点を修正してれば、知性倫理美意識の機能不全(帰属修正の働きの形骸化)として位置付けられる発想ですから、
現在に至るまで哲学者の問題意識が表層次元の外に出てない、という事実にまで原因を遡れるはずです。
ところで、問われてる差異が取り出されるよう理科の実験をセットアップする事は小学生でも可能であり、制度にせよ組織にせよ同じ要領で構築可能でしょうが、
過去の常識が現場を阻害してる的事態も珍しくない以上、場と形式との整合の観点からの評価が常に機能してるとは言えないと分かります。
文系空間に至っては経年による齟齬発生どころか、個別性が根拠になる局面にもかかわらず、
個別性を同種の他との共通要素捨象に十分さらす要求が不在であるという、場との齟齬がデフォルトであって、
この外在性質の問題は、教育を通し、対内実の帰属修正具合という観点を欠いた対象理解の標準化、
という理解力に対する誤解に、つまりは、内在性質の問題に振り替えられてさえいます。
実際、表層次元での整合へと矮小化された論理像踏まえた明晰さ信奉、場にその性質が疑似化してるしてないによらず合わさせる相対主義へと矮小化された自由像踏まえた曖昧さ信奉、
これら、硬軟程度(選抜の絞り具合込み)のような局面次第でしかないものを局面無視で規定する(この時点で、上のデフォルトから解放されてる事を期待できない)絶対主義が、
文系権威によって牽引されてきた(主流哲学の性格ですらある)という事実は、
外在性質の内在性質への反映を介した有り様保障(場の上に立ち上がってる秩序の歪みや、
そこから受ける影響を最小化する対外在の不在への指摘は矮小化される)という内外連関として解せるはずです。
なので、この内外連関に対し少なくとも精神的に距離を取れるよう、以下の理解を押さえましょう。
哲学のレベル(パラダイムのレベル)から、具体化精度最大化(場との齟齬の除去)を紡いでいく歴史
(個人レベルであれ国レベルであれ)や、変化不変化の程度の妥当不当を判断する能力は阻害を受け続けてる。
例えば、生を受容に値するものすべく、生を割り引く一切(真善美も自己以外の救済者も意味性も)を生の下側に置いたり、
不可分である死と向き合ったり(囚われの利用を含む危機感利用に対し親和的)する試みは、
いらぬ特化(先の実存像とは整合してない獲得喪失)を促進する分、かえって確からしさを下げる為、
優勢劣勢の修正余地をなくすべく、既に引き受けられた主題である生をより確からしいものが取って代わる運動性への阻害なさの下で展開する試みとの間に、断絶を呼び込むのに未だ権威を持つ。
同様に、現行のパラダイムによって、展開性の点で歴史と同じである論理の文系空間での像も、
理系論理(点から線への次元飛躍を、同種の他との差異要素捨象が、林檎も蜜柑もまだ見ぬものも数えられる的内容の付与をもって担ってるイメージ、
これが主観から客観への移行にも、理系的な論理紡ぎにも言える)の領域侵犯と、
文系論理(通用の行き渡ってる状態を保存しながらな表層形変転の失敗である論理破綻が、
存在するのと引き換えレベルの通用性をもっては存在に帰属してないもの込みな特殊性の根拠化、
個別性への同種の他との共通要素捨象の、したがって、雨が降ろうが槍が降ろうが引き受けざる得ない的内容の不十分さが意味されるそれによって生じる類の論理、
これを認めると、文系領域で相対主義的立場を採る人は論理破綻な主張の採用者として位置付けられ、張りぼてな確からしさを根拠に振る舞う者として扱われる事になる)の埋没、
言い換えるなら、不当合理と過剰特殊の二択枠組み(実存の肥大化部分を削ぎ落せば存在尊重の形骸化を防げるのに、
丸々肯定する後者を丸々否定する前者という関係であり、肥大してない部分込みで現実を見ないか肥大化部分込みで現実を見る、
どちらにせよご都合主義な二択)に矮小化させられてる、当然、思考による問題解決にいらぬ限界を与えられてる。
結局のところ、局面と着目無視を合致させながらな対他者(が内容の平等方針)や合致させる対自己(が内容の自由方針)の結果は損得によらず妥当とする秩序観
(場の疑似でない個別性に合わせた具体化の集積を検証結果とする仮説改善の結果物であり続けてる個別性は、人に限らず疑似性から解放されてる、
したがって、存在する以上こうならざる得ないというロジックが疑似性の分だけ帰属操作を意味する事態、
資格を開くだけ系が有害化する根本理由のこれからも解放されてるとする内外関係像)の持ち主の集積や選抜をもって文系空間を展開できているいないの差異が、
存在しやすいしにくいの有り様について、帰属修正の結果に得たもの(ドーピングによる金メダル的な茶番が意見選抜や感情選抜で生じにくい、
かつ、この生じにくさが先の小学生レベルで期待できる)か、帰属操作の結果に得たものかを決めてる。