4451文字、修正余地の隠蔽を社会から減らす為に、および、実存を内実不問で肯定する内容の理念や偶然性必然性による免責を真に受けない為に必要だろう話
2025-1-005
例えば、目先の和を強要して修正余地を隠蔽し、修正されていれば生じなかった不幸を生み続けてるのに目先の和の実現をもって、自分の知性倫理美意識は機能してると自任してる人がいても、
学力の内容が、帰属修正を阻害してる知性倫理美意識を形骸とする姿勢と整合的であるなら、
少なくとも、学力を必要とするタイプの権力の座にその種の人が就く事態にはならないはずです。
なので、権力が帰属修正の阻害に用いられるケースを減らす(場の個別性を場全体に行き渡らせる整合作用よりも、その個別性の取り違え最小化の働きが先立ってるケースを増やす)為にも、
帰属修正の働きよりも帰属修正を阻害する働きの方を、真善美に近いとの扱いも含めて有り難がるのを止め、
帰属修正の上限を、有限(内外境界発生)の与件性、より確からしいものが取って代わる運動性、これらにのみ帰属がある状態と解し、
文系者の知性倫理美意識については、代替不可能な内外事情にしか応じない実存への志向が不在
(能力や情報の獲得をこの実存に整合させてるレベルで志向してる場合それは、
できる事できない事等の有限性形態自体への評価よりも自身に対する帰属修正を先立たせてるわけで、
内実が確からしいなら表層形は気にしない類の表層形開放と言えるのに対して、
この不在は帰属修正の働かない領域を持つ事実が意味される)な時点で形骸と見なす方向に学力観を改めましょう。
(ちなみに、実存を内実不問で肯定する内容の理念は、この不在へと、ひいては、原理抽出も含んでる帰属修正の働きに対して不全状態へと誘導してる形である為、
置かれてる場に自身を通用させ続けるという存在課題に、できるだけ確からしい原理をもって臨み、対存在課題の結果をより確からしいもの、受容に値するものとする試みを阻害してると言えて、
受容に値する状態にまで持っていってない生有り様や死有り様の受容、および、不可避な有限性に帰属してないせいで負わせるだけの確からしい理由を持たない対外在の許容を、
主体に強いてる以上、その種の理念における存在尊重は形骸と言えるはずですし、
何らかの理念の名の下にこの受容や許容による弊害を引き出してる以上、人間の責任領域の放棄とその弊害を神概念に帰属させてる事例はじめ、
主体の責任であるべきものを理念に擦り付けてる形であって、理念尊重の形骸でもあります。
また、次元設定自在性という自身の種の形式に、局面事情と着目無視設定の合致維持への志向によって抑えられるものも込みで振り回されてるにもかかわらず、
自身に帰属してるべきものが帰属してないという不自由感の前提部分に過不足が生じてるせいで不自由感が機能しておらず、
むしろ自由と誤認してしまう言わば人間性の形骸化を、助長するものでもあるはずです。)
そもそも、思考や議論を事実が踏まえられた展開にしたい(事実を踏まえてなくても思考や議論が通用してしまうぬるい業界でない)なら、
事実(修正余地の指摘込み)に対する過大反応過小反応を避ける必要があるのに、
内面世界や局面の個別性(着目無視の設定)の取り違え具合(感情選抜や表出形選抜の茶番具合)の検討が学力に含まれてない
(客観視に必要な個別性捨象は既存教育でも要求される為、理系局面に関しては結果的に含まれてる形になってる)ので、
文系者は学力を高めても、思考や議論の土台(事実に対する態度の、前提の過不足の回避や修正による確からしさの獲得)は不十分なままであるわけです。
もちろん、災害トラウマのようなものは誰にでも起き得て、緩和しにいくだけの余裕がない段階もある、
といった現実がある以上、事実に対する過大反応それ自体を否定するのは無理筋ですから、
厳密には、怪我してるならしてるなりの最善、その種のポイント(不可避な偏り)から見て過大な部分が修正余地になると認めると、
結局、代替不可能な内外事情にしか応じない実存への志向(自身に対する帰属修正の上限化による有限性形態の不可避化)が文系者にとって、分野によらず思考や議論の土台になると言えるはずです。
ところで、権力観に限らず、相対主義的有り様や絶対主義的有り様に価値を覚えるならそれは、
場に合わせる合わさないの表層形反転二択を生きてる(場の代替利かない要素にのみ合わせた結果であれば、
場に合わせるという表層形になろうとも、場に合わさないという表層形になろうとも気にしない表層形開放を生きてない)ので、内実不問故に内実に関する修正余地の隠蔽が意味されますし、
例えば、局面次第でしかないものについて、局面事情の取り違え可能性を抑えない、あるいは、局面事情を無視して定める安易さが、
文系事象に関する思考や議論には必ず含まれてるので、具体化結果を点の立場で紡いだものとして歴史を捉えた場合の、
具体化精度がその種の安易さを持たない像から見た過去現在未来や変化不変化具合の評価なり検討なりを持てない事実が意味されます。
この事実は、その人の対テキストが安易さ(粗雑さなり短絡さなり)を評価しきれないのに加え、
書き手読み手関係における過去時空と現在時空の上下論にテキスト解釈が陥るのを防ぐのに必要な、
怪我してるならしてるなりの最善は求めるがそれ以上求めないといった、過小要求(疑似解決)過大要求(疑似問題)の同時否定を対テキストの土台にしてない証拠ですし
(ちなみに、自身の有限性形態について修正余地がなく自身の責任領域の外にあると言える為には偶然性や必然性では不十分で、代替不可能な内外事情にしか応じない実存を生きてる必要がある、
つまりは、怪我にしろ怪我後にしろ、偶然性や必然性による免責は疑似解決であり、ここでの過不足ない要求とはその実存を生きるよう求める事に他ならない、そう考えます)、
土台にしてる対テキストを対他者だけでなく、他種や無生物や概念等にも拡張すると、優劣に過小要求過大要求を持ち込まない対世界になりますから、
優劣に疑似解決や疑似問題を持ち込む働きが、その人の社会性なり集団秩序に与えてる影響なりには含まれてる証拠でもあります。
なので、相対主義と絶対主義を同時否定してる内容の知性倫理美意識に形骸でない開放性を認めましょう。
この知性倫理美意識では絶対性に何らかの相対性を導入し、実態からの乖離を緩和する戦略が採られるのではなく、相対主義を量的とした時の質追求の方向が目指されますから、
例えば、宗教に分離を課すのではなく、信仰に理想を割り引く程度を最小にしつつ成り立せてる現実である代替不可能な内外事情にしか応じない主体像を要求する話になりますし、
認識に懐疑なり両極保有なりの徹底展開の帰結や実践を組み込ませるのではなく、
確からしさ判定に観点への通用領域の広狭と確からしさとの相関の適用を要求したり、
因果関係把握に帰属関係把握へと遡った上での帰属修正の上限化を要求したり、
次元設定自在性に局面事情の取り違え最小化を先立たせた上での局面事情と着目無視設定との合致維持への志向を要求する、
という話の持ってる構造がそのまま、社会秩序における文化やルールや権力の話に重なる、
もちろん、個人の内在場と外在場でそれぞれ立ち上がってるものである為、代替不可能な内外事情にしか応じない実存への志向で話は繋がってる
(実際、観点の採用に修正余地なさを持たせるこの志向以上を求める有り様は修正余地のないものをあるものとして扱う疑似問題に、
この志向を求めない有り様は修正余地のあるものをないものとして扱う疑似解決に陥ってると見なす態度は、
対自己では、肯定否定はある観点の下での通用が行き渡っているいないの判断に過ぎないと認めない態度と認めるだけの態度の同時棄却として現れ、
対他者では、例えば、目先の和を重視するあまり、チームスポーツで言うところの、
味方にいらぬ劣勢を負わせる振る舞いが修正されない、および、負わせない為の振る舞いが選ばれにくくなる的文化空間の棄却として現れる)と考えます。
(言語は社会性を前提に認識に際する差異把握を洗練させてくれてる為、3つの要求に関して純粋理性批判は懐疑の帰結を認識に組み込んでる事例とした時の、
より重なってる領域での両極保有の事例になってるとウィトゲンシュタインについては疑いますし、
ニーチェを罪帰属問題はじめ、理想と現実の分断の産物に対する、現実立脚な両極保有による廃棄試みの事例とした時の、
有と無の両極保有による廃棄試みの事例ではないかとハイデガーについては疑います。
また、相対性の現れとして現実認識にずれが生じてる場合の典型対処には、主観重視から客観重視への移行、理性による感情の抑制、損得計算による衝動性の全体性への解消等があって、
これらは既存の学力でカバーできるからこそ学力が高い空間ほど規則が緩い傾向があるのでしょうが、
一方で、こうした対処は、既存の学力が代替不可能な内外事情にしか応じない実存と獲得喪失有り様との整合という自身に対する帰属修正上限化や、
そこの不整合を個別性が根拠になる局面での論理飛躍とする対人評価、対テキスト評価と繋がってない為に、
資本主義の徹底合理性体現をはじめ、代替可能なもの扱いの対象領域が肥大化するとか、
既存秩序やその延長線上の外を想像できずに歪な慣習まで深く内面化し、継承して継承させるといった、
別の秩序問題、前提の過剰化を防いでれば肯定されない変化不変化の正当化であるこれをエリートが引きおこす展開もあるわけなので、結局は上の話に合流するように思われます。
ちなみに、表層形反転な発想を疑似解決と見なさない知性倫理美意識が権威を持てる現状には、
近代始点で教会の都合から個人の精神や科学の在り方や国家の権威を分離した件に対して疑似解決扱い、
もっと言うと、食べ放題設定なお店の運営維持的な課題への絶対化対応に対しても、その対応への相対化試みに対しても、
獲得喪失有り様を帰属修正の上限化問題に落とし込めなかった論点取り違えの事例扱いを、
してこなかった弊害としての歪な慣習継承の類と言える側面もあると考えます。)
教育で培われる知性倫理美意識がこの方向に変わらない限り、他が変わっても根本レベルの修正余地は残ってると捉えるようにしましょう。
注
有と無が完全一致でない(有と無は、ある有限性を構成する要素である)以上、有限性は存在に先立ち、
無限性が有限性に先立つのだとしたら、無限性から有限性が引き出される構造が問題となり、
フィードバック構造がそれだとすると、フィードバックに値するしないという質の差異(実験精度の高低のような具体化精度差異)が世界の構造には含まれてる事になります。
また、帰属修正の上限化が有限の与件性とより確からしいものが取って代わる運動性
(ちなみに、通用してる領域が常に上限である為、無限性と解せる)にのみ帰属がある状態だとすると、
帰属修正が上限化されているいないの差異がその差異に相当してる事になります。