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肯定否定反応が形骸(評価に際する立脚が表層的)でなくなる、ひいては、社会改善が表層的でなくなると期待する、ある主体像の採用について

2021-8-007

肯定否定なり受容拒絶なりは、通用が行き渡っているいない判定(通用領域の広狭と確からしさとの相関への立脚)の結果の具現であって、
どんな観点の下で判定するかにより変わるわけなので、


通用が行き渡ってないものを肯定や受容したり、行き渡ってるものを否定や拒絶する、
通用の行き渡っているものといないものとの間に扱い差をつけない
(もちろん、差異性の捨象が要請されてる局面もあるわけで、その場合、局面の表層的要素に振り回されてる程度とも言い換えられる、対局面に関する通用領域差異の問題になるだけ)、


これら(知性や倫理の不全に思える)は、
観点設定の精度の低さ(通用領域の狭いものを広いものと見なす判断ミスを設定次元に関して、さらに遡ると局面把握に関して、引き起こしてるという、通用領域判定の具体化精度の低さ)とイコール、


つまり、上で言う立脚を表層次元でのみ展開し、局面と着目無視が事実上不一致なままでも
(ここの不一致を修正する反応は、理系的局面でしか効果のない内容を教育される為、その方向に理性や論理は矮小化させられてるようなものなのに)知性や倫理を持ち出す形骸性のせいであり、

(内在場外在場によらず)場の代替不可能な固有性の発現を損なわないように成立形(主体の有限性形態込み)が組み上げられてるかどうかを、
扱い差に反映させる事なしに、表層形(量の多寡といった見た目含む)と肯定否定や受容拒絶とを結び付ける矮小化、
この意味での形式主義の弊害、

そう言えるはずです。



例えば、小さな子ども向け等々の理由も特になく、いらぬ歪みが取り除かれているいないの差を区別せずに、
してたとしても選り分ける原理(恣意的側面をできるだけ剥いだそれ)を明示せず(有害な曖昧さ)に、
愛なり自由なりを望ましいものとして語ったり、推奨する(いらぬ歪み部分に帰属する現象を、発生誘導してるも同然)のと、

最大限代替不可能化させた内在事情外在事情にしか(つまり、引き受けざるを得ないと言える状態まで持っていったものにしか)応じない主体像との遠近を、
自身について区別しないまま為す(現象なり主張なりへの)肯定否定でも、
対象位置づけ(ひいては、問題意識の中身)に反映させるに値するもの、世界に負わせるに値するもの扱いする(肯定や受容の対象として扱う)のは、


構造的に同じ(後者はより抽象的、要点抽出的なだけ、
そうだとすると、抽象次元を押さえれば、同じXに属すのにAはできるがBはできないとか、Aを肯定しながらBを否定するといった事態を防げるので、
後者の修正がまず図られるべき)でしょうし、


区別してない類がまかり通る現状は、
(小さな子ども向け等々の)局面事情に関係なく区別しなくて問題ない(通用が行き渡ってる)と判断してる人が、
社会の多数派である現れ(国民対象の教育が整備されてる国ではその内容に帰される事態)でしょう。


特に、文系域での自分の理解力は十分に高いと思ってる人の理解力の実態が、

人や企業や国の振る舞い(できるできない、得てる得てないといった有限性形態の有り様込み)に対する肯定否定の論点に、
上の主体像(の下で設定される観点)との遠近を持ち出さないなど、


(その主体像への接近以上のものを自他に要求してる不当獲得傾向、
言い換えると、獲得を通用が行き渡ってる内実の反映形に留める事なく、否定や拒絶の対象にすべきものまでも欲しがる欲深さが、
文系者に見られる場合、数学が不得手な理系者に相当する論理保障不全と見なすべき)


その後者(通用が行き渡ってない段階なのに済ませてしまう、つまり、通用が行き渡ってる扱いをしてしまうレベル)である事に、

いらぬ不幸(いらぬ負わされ)の発生を潰せない(着せ替えしかない)原因がある、
発生構造(既存の権利観に代表される、帰属をより確からしいものに修正する働き的には中途半端な、文系知性や倫理の反映体系)が保存されてる原因がある、
そう言えるように思います。


(上で言う遠近が論点な人を増やす方向以外の社会改善は、小手先きの対応、良くて、余裕がない時の次善の策である、


逆に言うと、問題は、
実力を上げる余裕がないからマニュアル対応のように、各場の差異に反応しない低い具体化精度による成立、つまり、質を諦めた成立に走るのも仕方がないという話なのに、

余裕があってなお、知性や倫理を既存のパラダイムの外に出さない、例えば、解決枠組みを、分離で済ませる内容から、分離された双方を代替可能要素削ぎ落した上で再統合する内容へと持っていかないとか、
実力があると勘違いして、高い具体化精度を可能にする抽象具体関係構造の獲得とは無関係に、規律を弱めにいってるケースにある、

そう考えます。)



ところで、Aさんの行動を偶々目にした結果、Aさんのイメージ(行動原理に相当する像)が変わった、
理系者が実験をした結果、今持ってる仮説では対象の現象を説明しきれない事が分かった、


これら(歴史性を抽象と具体の行き来として見た時の、その行き来が持つ確からしさ向上の側面)は、
抽象次元に反映されるべき新しい具体形パターンが確認された、という点で(消極的か積極的かはともかく)同じであって、

しかし、具体化精度の低いものが増えたところで、かえって抽象次元(フィードバックの結果)の確からしさは下がるわけです。


前者を自己規定として見た場合に、具体化精度の最大化に当たるのが、先の主体像の採用であり、

(採用してる主体が増えるほど、割り振り原理の導出スタイル、つまり、場の性質の特定スタイルが個々事情の直接反映である、市場や民主制は需給成立の形骸性が小さくなる、
したがって、スタイル次第では、経済や政治から受けるできない等も含む負わされが、より受容に値するものになる)


また、その採用は、先の主体像から乖離してまで新しい具体形パターンを取りにいかない方針も意味するので、


より確からしいものが取って代わる運動性を、抽象次元に関して阻害なく展開したい、という観点
(理想状態などの割り引き前、加工前の有り様に対する取り違えの縮減に必要)においては、
文系的局面(同種の他との差異性が根拠になる局面)で保有される具体形パターンの質と量は、先の主体像の反映な場合に肯定される、

井の中の蛙状態Aとそれよりも全体枠が広いBとの差異について、文系域では、先の主体像との遠近をベースに見るべき
(観点設定や局面把握を、その時その時の成立形の組み上げを、よりB的な状態の下でこなすという方向性も含む話)、

そう言えると考えます。

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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