3341文字、包摂から逃げ回る有り様はプラトン問題に包摂されるのではないかという話
2024-7-003
自他への肯定が、代替不可能な内外事情にしか応じない実存ではない部分まで含むなら過剰肯定(修正余地のあるものの受容という疑似解決)、
自他への否定が、代替不可能な内外事情にしか応じない実存まで含むなら過剰否定(修正余地のないものの受容拒否という疑似問題)、
そう見なしましょう(自他の言動への評価をこの実存の反映かどうかと無関係に下す人に対しては、
表層形のみで断罪する短絡傾向があると捉え、提示される価値体系を真に受けるのは避けましょう)。
この場合、その実存と整合させた獲得を超えて獲得された能力なり情報なり可能性なりは否定
(有限性に対する、本質的でないものだけでなく本質的なものまで否定する過剰否定の下で、
自身に帰属してる有限性としてない有限性の分別が展開された無理筋の産物扱い)されますが、
価値は場の性質が決める為、それらが有難がられる事は全然あり得ますし、逆に、その実存と整合的な行為が場次第では罰的扱いを受ける事も十分あり得ます。
場から受ける扱いは、場の取り違え最小な個別性に即してる(理想を割り引く程度が最小な現実として場がある)ならそれで良く、
認識場ではその実存の反映である事が、社会ではその実存の集積の反映である事が個別性の取り違え最小化
(例えば、感情選抜がドーピングによる金メダル的な茶番ではなく、フェアな帰結である、
あるいは、感情等の内面世界の産物との関わり方を局面事情とは無関係に規定するなどの、次元設定自在性という人間性の持ち腐れでなく、
局面に合わせる能力としての理性を形骸に陥らせる事なく生かせてる)と言える条件です。
ところで、両極保有(都合に合わせて他方に飛び移る飛び石の確保による被弾回避)という行動原理は個人的には、
短絡さ回避をもって常に80点を確保し、そこから下がる事も上がる事もないテクニックのイメージです。
0もあれば100もある(安易さ100もあれば安易さ0もある)スタイルから見ると閉じてるとか、過保護な印象を受けるので、
包摂から逃げ回る有り様は、より確からしいものが取って代わる運動性(通用してる領域が常に上限)の受容阻害を最小化してる状態とは異なると考えます。
つまり、内外境界の発生意味する有限性がその運動性を阻害最小で受容したものの一種である先の実存を採用すると、この有り様にはならず、
先の実存は、理想を割り引く程度を最小にする現実という理想現実関係と同様に抽象化具体化不十分さ解消の一種なだけでなく、そのような現実にもなるものですから、
この有り様はプラトン問題(理想を割り引いたものとしての現実という関係構造を指摘しておきながら、
理想を割り引く程度を最小にする現実という抽象化具体化不十分さ解消枠組みに、
理想現実関係を落とし込まなかった件)の弊害に思われます(プラトン問題に包摂されてる)。
また、割り引かれ(包摂によるもの込み)の忌避という行動原理は、本質的でないもの(捨象しても対象が成り立つもの)だけでなく、
本質的なもの(捨象すると対象が成り立たないもの)まで否定する過剰否定な反応故に、
この行動原理を採用し続ける限り、現象を捉えようとしても原理把握(および、原理にとって具体化条件になってるものに対する、
つまりは、応じてる外在性質に相当するものに対する本質的でない要素の混入程度把握)にいらぬ限界
(林檎を数えられないのに蜜柑はできるつもり的な原理不在)を抱えてしまうし、
先の意味での理性が、内在性質に外在性質の本質的な部分だけを統合させる働きという意味では機能させられません。
加えて、極端な話、相手側の優勢が味方側の劣勢にそのまま繋がる類の競技ものでは、
悪手を咎めないとかチャンスを逸するといった事態は味方にいらぬ劣勢を負わせてしまう
(もちろん、代替不可能な内外事情にしか応じない実存である事以上を自他に求めるのは疑似問題なので、失敗自体に対する否定は過剰否定)わけで、
場の本質的要素にのみ合わせる具体化によって可能となる仮説改善的検証の放棄により、
存在するのと引き換えでない要素まで帰属させてる実存状態(疑似化込み実存)を許容してる形となる為に、
理想を割り引く程度を最小にする実存とはなり得ず、言わば、チキンレースでの即離脱的な安全策
(持つ者は持つ者なりの、持たない者は持たない者なりの上限でありさえすれば良いとする平等観、
この場合、上限は割り引きを最小にする実存である代替不可能な内外事情にしか応じない実存なので、局面事情と着目無視との合致の下での対他者を内容とする、
言い換えると、場が不可避に持つ偏りのみを扱いに反映させ、反応におけるご都合主義の側面を抑える意味でのフェアを内容とする平等も内包してるこれを引き受けずに、
条件上の上限に至る前に成立させてしまう疑似解決)に留まり続ける事になるこの行動原理は、
一見自身を大切にしてるようでいて実際は、迷惑をかける味方的な振る舞いによる環境悪化を介して自身にいらぬ劣勢を負わせるものと言えて、
つまりは、こうした難点が目に入らないだけの視野狭窄(視野がいらぬ割り引かれを負ってる状態)の弊害としてこの行動原理の採用があるように思われます。
対秩序で言うと、空気を読む読まないという規模であれ、世界を肯定否定するという規模であれ、外在秩序が外在場の本質のみを反映させたものではない場合に、
外在場の本質のみを反映させてる時との差分の縮減を本筋とせずに、場に合わさないという反応を本筋扱いし、次善の策に留めないでいる人は、
話を、内在場の本質のみを反映させたものではない内在秩序と外在場の本質のみを反映させたものではない外在秩序との間の上下論、
どちらが上であれ、優勢劣勢有り様の肥大化部分の意味での搾取が発生する枠組みであるこれに矮小化するだけでなく、
競争におけるフェアな序列付け、協調におけるフェアな役回り振り分け、競争協調が両極のスペクトラム上の点選抜におけるフェアなバランス選択、
これらのような外在場の本質のみを反映させた秩序を受容しない(解決状態として扱わない)振る舞いによって解決阻害の原因となり得ます。
逆に言えば、観点(着目無視設定)の確からしさ(反映される偏りの不可避性)を論点としていれば、
前提はどこまでも疑える(この疑い自体が通用してる領域と確からしさとの相関を前提にしてるので矛盾)かのような相対主義的反応を示す事にはならない為、
先の視野狭窄の原因は、肯定も否定も保留も根拠を通用してる領域の広狭と確からしさとの相関に依拠しながら、
この相関を持ち出す際の観点についてもこの相関をもって検討する事をしない中途半端さ(通用領域の狭さ)にあると推測されますし、
この中途半端さは、デカルトのミス(方法的懐疑においてこの相関に依拠しながらこの相関を始点としなかった件)と同型なので、
文系権威が相対主義的な言動を発信してる事実は近代が終わってない証拠であり、
この終わっていなさの弊害が、搾取に搾取で対抗する疑似解決(全体主義なりグローバル化なりへの批判にかこつけて、無条件受容な内容の多様性確保を押し通すロジックに出くわしても、
いらぬ飛躍を着せ替えさせて保存する論理性破綻として扱わない知性倫理美意識、
言い換えると、帰属修正が先立ってない為に、具体的問題を切り出してくる先である抽象状態としての問題状態が帰属修正余地の総体になってない、
したがって、問題の把握に過大過小が生じてるという抽象不足)に疑問が持たれない状況であると捉えましょう。
(帰属修正の働きが強い空間であればあるほど、帰属操作的な利得や不利益回避は困難となる為、責任から逃げ回るのも難しくなるわけで、
責任を取らせたい対象がいるのなら目指すべきは、帰属修正が先立ってない知性倫理美意識が影響力を持つ状況、
先の実存を生きてない時点で、存在にかこつけて存在するのと引き換えでない要素まで押し付ける帰属操作についての責任が生じてるのに、その種の生が正当化されてきたように、過不足ない責任帰属を阻害し、
修正余地のあるものの泣き寝入り的受容か納得いかなさのラリー展開に話を留めてしまうこれの解消であると解しましょう。)