【エッセイ】テンプレートの乱
わたしたちは、テンプレートを生きている。
朝起きてから夜眠りにつくまで、テンプレートなことばが、毎日ひしめき合っている。
人と話したり、メールしたりする内容なんて似たり寄ったりで、相手を怒らせないように気を遣って、常套句を吐き出す。世間仕様のわたしが発することばは、口に出す前に粒をそろえている。わたしの口は、わたしの意志とは別の生き物のようににゅるにゅると、自動運転で蠢く。
大昔の哲学者、アリストテレスは「詩学」の中で、芸術は模倣だと言った。自分のことばに再構成しているけれど、文学だって引用とインスパイアの連続だ。
テンプレートを使う利点は、聞き手が安心するからだ。今まさに放たんとする弾を予測できるからだ。それがクオリティや教養を担保することもあるし、そう思うと、テンプレに救われている部分もある。
ただ、センチメンタルモードの時のわたしは思う。人類が生まれてから何千、何万回言ってきたことを繰り返し吐き出して、わたしはどこに存在しているんだろう? なんのためにわたしは自分でことばを選び、わざわざ形にしているのだろう? わたしの口には、息には、ことばには、わたしのタマシイとは言わないまでも、せめて分身は乗っかっているだろうか? わたしのスライスが、レタスのうえに添えてあるだろうか?
自分がはっとしてしまうような、切れ味をもったことばを、わたしは何年も生活の中で発していない気がする。
だから、ときどきはテンプレートの渦から抜け出して、自分を驚かせてみる。自動運転を解除して、意志を持って、はみだす。テンプレに反乱する。だれかを怒らせたっていい。自分が発することばを点検する。それはだいじなこと。とても、とても、だいじなことだ。
(了)