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終末フィルム


 元来、こだわりの強いY世代の年寄りたちが、若い時分から慣れ親しむ動画編集ソフトを使って自らの人生の最後をフィルムに収めようとしたのは、いわば必然のようなものだった。



 おそらく人類の歴史の中で最も長い期間――目減りした年金を補填するため七十歳まであくせく働いた――老人たちにとって、人生の余暇は先達ほど残されていない。

 彼らは、健全な欲求として、自らの人生を振り返る手段を求めた。セミリタイアしたY世代は、後期高齢者を中心に、これまでスマホで撮り貯めた動画やら写真やらを自らの手で編集し、自らの人生を振り返る文化を形成するようになった。それらは皮肉交じりに「終末フィルム」と呼ばれた。

 Y世代は自分の人生に起こった、良いことや悪いこと、それらをすべて価値あるものとしてハイライトし、一本の映画にしたいと願った。納得できる完成度で、できればそれを多くの人に共有したいと願った。



 昔イギリスのある政治家が言った。「暇を持て余した情熱的な年寄りほど怖いものはない」

 彼らは旅の思い出を記録に残して知り合いに個人的に見せるだけでは飽き足らず、いつしか葬式に巨大なプロジェクターと音響を用意し、式次第にはフィルム上映の項を加え、自らの終末フィルムを上映するようになった。

 上映が終了すると、故人を偲んで同年代の批評家 兼 監督の友人知人は速やかにレビューを書き投稿した。「やはりライブで見ると違う」「前評判通り、非常にレベルの高い作品でした」「僕らが今日この空間を共有できてよかった」生前の期待値が高い人ほど葬式にはたくさんの弔問客が訪れた。プレミアチケットになる葬式もあった。課金すると定額で自宅やスマホでも他人のムービーを見ることができた。

 彼らは生き生きと、死に対峙していた。
この熱心な取り組みを家族に反対されそうになると、彼らは決まって言った。
「これは一生ものだから」



 映画を作る過程で、監督誰もが大事なことに気づいた。
自分が人生のどこをどう切り取るかで、映画のジャンルが変わること。伝記もの、青春もの、アクション、ホラー、クライムサスペンス、ラブコメディー、ファンタジーなど。

 そして、自らの人生を喜劇とするか、悲劇とするかは監督の嗜好に委ねられること。

 単調なドラマの結末を観るのが苦痛であるように、彼らは自身の人生の終わりを病院で迎え、管につながれて受動的な死を受け入れる、ということに耐えられなかった。自分の結末は、自分で決めたかった。

 彼らの終末フィルムは、団結して無意味な人生に抗うドキュメンタリーものでもあった。一部で自死を選ぶ映画もつくられたが、これは発禁になり、一時、世間を騒がせた。尊厳的な生と死とは何なのかについては、論壇でも多くの議論がなされることになった。終末フィルムは、ひとつの大きなジャンルに統合されつつあった。



「自分の映画を観た人に、圧倒的な感動を」
 もっと、より良い作品をつくるにはどうすればよいだろうか。色々なトレーニングを経て体幹を鍛えることに回帰するスポーツ選手のように、未来の巨匠たちの取り組みはよりエスカレートしていく。制作準備期間が長くなっていく。

 より良い映画をつくるためには、若いうちからの生き方にもこだわり、良いシーンを残さねばならない。

 映画に残せるような、今を生きているか。
他人からの目やお飾りのタグばかりを追い求めては、死ぬ間際、自分の納得する作品を作り上げ、後世に残すことなどできない。
 図らずも、本質に迫っていく。人生のための映画が、映画のための人生に倒置されていく。




 エンドロールが流れ終わると、終末フィルムの最後はいつもお決まりの言葉で締められた。

Stay tuned for the next film. 
 次回作にご期待ください。


(了)

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