30歳の同期同士が本気で喧嘩して泣いた日、私たちは戦友になった
「辛い、逃げたい」
その頃の記憶はもうあまり思い出せないけれど、毎日更衣室で岩井ちゃんが笑わせてくれたことだけはハッキリと覚えている__
今から9年前、あの頃が社会人生活の中で一番毎日笑い、そして苦しい日々だった。
「課長へ昇進」
多い時期は100名以上の職員が内示に名を連ねるのだが、時期外れのそれにはたった1人、私だけの名前がA4の白い紙に印刷されていた。
役職に見合わない自分の名前が、ふわふわと紙の上で浮いている感覚をおぼえた。
◇
「後任は誰が来るんだろうね」
直属の上司の育休を控え、私は隣の席に座る同期の岩井ちゃんと呑気に話していた。岩井ちゃんは新入社員時代から仲良のいいグループの一人だ。
今まで出会った中で最も笑いのセンスがあり、一緒に働いた日々の中で笑わされなかった日は一日だってない。
私たちは慣れた手さばきで仕事をこなしながら、「朝、通勤途中の山道でカモシカを見た」とか「すれ違った人がマンガのワンピースに出てくるボン・クレーにそっくりだった」とか、そんなくだらない話をしていた。
そしてやってきた内示の日。
突然の知らせに青ざめた。後任は他でもない私だったのだ。
◇
「私には無理です。もう仕事を辞めようと思ってます」
内示を受けた次の日、私は部長と二人で話していた。
現役の課長職に比べると、経験も能力も足りないことは明白だった。これから訪れる日々を想像し、いっそ仕事を辞めようと申し出たとき、部長は私にこう言った。
「役が人を作るから」と。
考えて考えて、「やってみてダメならその時辞めよう」と、自分を奮い立たせた。
それから一週間後、同期の岩井ちゃんは私の部下になった。
きっとお互いにそう感じていたが、岩井ちゃんはいい意味で私を上司扱いしなかった。
「3人分の仕事、2人で回すってやばくない?」
「もうさ、ミス起こっても全部人事のせいだからお客さんに迷惑かからないようにだけ頑張ろう」
こういう時ド正論をぶつける岩井ちゃんは、口は悪くてもお客さん思いの真面目な性格だ。
新体制は、目が回るような激務から「とにかく毎日無事に終える」という気持ちでお互い動いていた。
人手不足を補うため、采配を決めた部長は充分すぎるほど協力的だったが、しわ寄せが来るのはやはり私たち2人なのだ。
「ねぇ、これどうしようか?」
「ここだけ押さえておけばいいから、あとは適当にやっときゃ大丈夫っしょ!」
と、最低限押さえねばならないポイントを瞬時に、かつ的確に判断し、助言してくれるのはいつも頭の回転が速い岩井ちゃんの方だった。
表面上の課長は私、しかし、実質の課長は岩井ちゃんのような状態だったと思う。
こんなポンコツな課長など聞いたことがない。
けれど、そんなバランスも崩れる時がやってくる。
「私よりも給料高いんだから」
いつしか岩井ちゃんの口からよく出るセリフは給与に対する不満になっていた。
昇進した私は給与が月4万上がっていたが、岩井ちゃんは仕事量が増えているにも関わらず変わらない。不満に思うのは当然だ。
一方、私もストレスが溜まっていた。
目の前に現れる課長の仕事は未経験のものばかり。「分からないことを調べながら処理する」というのは想像以上に時間がかかった。
「この仕事、やったことある?」
「えー、分かんない。急ぎ?」
「今お客さん待ってる」
「あー、じゃ調べるわ。代わりにこっちのお客さんお願い!」
意味不明な業務にぶち当たる不安と時間内に処理しなければならないプレッシャーが常につきまとう。
また、壁にぶちあたったら岩井ちゃんと相談して決めるスタイルも、同期ゆえに経験値はほぼ一緒。そのため、イレギュラーな仕事に躓くときはだいたい一緒なのだ。
「これ、分からないからよろしく」
「わからない」を理由に私に仕事を振ることができる岩井ちゃんと、「分からないものは調べて終わらせる責任」のある私。
また、クレームの初期対応も課長職の仕事だった。もはやサンドバッグ状態である。
「同期の中でたまたま選ばれただけなのに」
「課長昇進を希望したことなど一度もないのに」
いつしかそんな思いが頭の中でリピートされていた私はもう限界だった。
「4万なんていらないから、明日から私を降格させて欲しい」そう思っていた矢先だった。
「そんなにお金のこと言うなら、私の代わりに岩井ちゃんが課長になれば良かったじゃん」
溜め込んだものが溢れ出すように、震える声で私はそう言い返した。
その日、30歳の大人たちが本気で喧嘩をした。どうやって仲直りしたのかあまりよく覚えていないけれど、仕事帰りの駐車場で、多分2人とも涙声で胸の内を、本音を吐き出していたと思う。
よく考えたらどちらもギリギリの状態で働いていた。なんてブラックな職場環境だ。
喧嘩をしたその日のうちに仲直りできたのはきっと、今までの「仲の良い同期グループ」として「友だち」としての関係を崩したくなかったからだ。
本音で話し合ったその日から、私たちは「戦友」になった。
その後も「苦しい」「辛い」「しんどい」と思うような出来事が数えきれないほど訪れる。
だけど、岩井ちゃんが朝と夕方の更衣室で笑わせてくれるのだ、大げさじゃなく本当に毎日毎日。
「昨日うちの両親が床掃除してたんだけどさ、モップを使って二人でカーリングごっこしてるんだよね」と、よく家族の話をしてくれた。
それから、「家で出てくる食事は健康的すぎて満たされない」と、帰宅途中のセブンイレブンでフライドポテトを買って食べてから家の夕飯もしっかり食べる話とか、「昨日の夢には佐藤健が出てきた」とか、「あの人は仕事中にフリスク食べすぎだ」とか、そんなくだらないことを話しながら仕事おわりの更衣室で30分以上話し込んでいた。
もうその時は、岩井ちゃんと話して笑うためだけに仕事に行っていたと思う。
仕事で一番笑った時期と一番苦しかった時期が同時にやってきた、そんな忘れられない日々だった__
その後私は約4年間、課長職を全うした。
我慢づよい性格ゆえに4年も続けてしまったけれど、やっぱり課長職でいることは苦しくて苦しくて、最後までサイズの合わない着ぐるみを着ているような感覚が取れることはなかった。
あの時の経験は私に何を残したのだろう__
私はちゃんと課長になれていただろうか。
もちろんあの時が人生で一番努力をしたと言える。
けれども、「役に自分を近づけねば」と、頑張れば頑張るほど周囲からの期待はふくらみ、苦しさは増した。
今ではこの話は笑って話せるようになったが、あのブカブカの着ぐるみはもう2度と着たくない。
「背伸びせず、自然体で、我慢しなくていい」
過去の自分に声をかけられるならそう伝えたい。
じゃあ、ポンコツな私が課長になって得た一番大きなものはと言ったら、それは一生の友であることは間違いない。
今ではお互い別々の道を歩んでいるけれど、私は今でも岩井ちゃんを尊敬している。一緒に働いた日々は宝物だ。
あの頃のことを岩井ちゃんと話す時は、辛かったことよりも楽しかったことの方が多い。
何年経っても同じ話の同じオチで何十回だって笑える、それもクスリと笑うんじゃない、腹の底から笑うのだ。
もう毎日会うことはできないけれど、年に数回会える日を私はこれからも心から楽しみにしている。
この記事を書いた人▼
フォローはこちらから
やきいも
心が動いた瞬間をエッセイに。
2児の母で育休中のワーママ。プリキュアにハマるセーラームーン世代です。
みくまゆたんさんの企画に参加させていただきます!
「あぁー参加したいなぁ…でも今回は難しいかも」と思っていたけれど、そういえばこの記事めっちゃ自分語りしてる!!と思ったので、遅ればせながら企画への参加表明です🙏