「素直じゃない」のはどっち? | 『対話型OJT 主体的に動ける部下を育てる知識とスキル』
《リモートワーク時代の教え方の新常識》として、OJT担当者が「ひとりで」「一方的に」教えるのとは異なるOJTの姿を紹介しているこちらの書籍。
本書を題材にしながら、OJTのやり方に閉じずに、働き方や学び方、さらには組織のあり方など、様々な方面に思索を広げてきました。
そんな思考のジャンプができたのも、本書が表面的なOJTテクニックを総花的に紹介しているのではなく、人材育成の科学的知見というしっかりとした土台に依拠しているからこそだと思います。
今回は、本書を題材にした寄り道の最終回として、「謙虚さ」を取り上げたいと思います。
教わる側の謙虚さ、素直さについては、いろいろなところで言われていると思います。困った若手を形容する「素直じゃない」という言い古された言葉が、それを端的に表しています。一方、本書が提唱する対話型OJTにおいては、教える側にも謙虚さが求められます。
優しくて面倒見のいい人は、育成に向いているの?
教える側の謙虚さは、本書ではこんなふうに表現されています。
フィードバックは「鏡」ですから、相手の言動が、自分にはどう映ったのか、周囲にどんな影響を及ぼすと感じたのかを伝えます。
もちろん、私の鏡が曇っている可能性もありますので、お互いに話をしながら、どんなふうに見えたのかを確認し合っていくのです。
『対話型OJT 主体的に動ける部下を育てる知識とスキル』より
《私の鏡が曇っている可能性》と、さらりと書かれていますが、この一言を日々の中でどれだけ自分に問いかけられているかというと、私も言葉に詰まってしまいます。教える側が正しくて、教わる側が間違っているという無意識の決めつけが、教える側の中に隠れていないでしょうか。
現場で育成に熱心あるいは適性のある人を評する言葉として、「優しい」「面倒見がいい」といったものがあります。「彼なら優しいから、後輩のOJT担当にいいんじゃない?」「面倒見の良い彼女なら、後輩まかせて大丈夫でしょ」といった感じに。
私はこの、育成に熱心あるいは適性のある人を評するときの「優しい」「面倒見がいい」という言葉に、ずっと違和感を持っています。「それは、『優しい』『面倒見がいい』という言葉で表されるものなのか?」「そもそも、『優しい』『面倒見がいい』ってどういうこと?」
「教え方」の違いはあれど、教え上手の根底にあるものは時代を超えて共通しています。
それは、「相手を思いやる気持ち」であると私は考えています。
「相手を思いやる気持ち」をどのように表現するのか、また、教わる側がどのように受け止めるのかは、時代によって、また一人ひとりによって異なります。
こうした違いを受け入れられるかどうかは、「教え上手かそうでないか」の分水嶺でしょう。
「導管モデル」から「対話モデル」への変遷は、このわかりやすい例と言えます。
「対話」は相手を思いやる気持ちがなければ成り立ちません。
さらには、ダイバーシティの重要性がさけばれて久しい現在、自分の価値観を押しつけることはもっとも受け入れられがたい教え方だと言えるでしょう。
『対話型OJT 主体的に動ける部下を育てる知識とスキル』より
先ほど《私の鏡が曇っている可能性》と表現された教える側の謙虚さがここでは、《相手を思いやる気持ち》さらには《違いを受け入れられるかどうか》と言い表されています。《相手を思いやる気持ち》に加えて、《違いを受け入れられるかどうか》というところまで踏み込んで求めているところが重要だと、私は思っています。
《相手を思いやる気持ち》というのは、「優しい」「面倒見がいい」といった言葉が意図している、教える側から教わる側に向かって注がれるエネルギーの量を指していると私は解釈しています。人を育てるうえで、その熱量はもちろん必要。
一方で、うがった見方をすれば、それは教える側視点に過ぎない。もっと言えば、教える側の独りよがりとなる危険性をはらんでいる、とも言えます。
だからこそ、《違いを受け入れられるかどうか》という、教わる側をも含んだスタンスがあわせて必要なのだと思います。《違い》というのはすなわち、自分と相手の違い、なわけですから、《違い》に意識を向けるということは必然的に、相手(教わる側)に意識を向けることにつながります。そして、相手に意識を向けることで見出された《違い》を《受け入れる》ということは、《私の鏡が曇っている可能性》を踏まえて、相手ではなく自分(教える側)を変えるということを意味します。こうやって、教える側の謙虚さというものが立ち上がってきます。
相手ではなく自分を変える
育成に熱心あるいは適性のある人を評するときの「優しい」「面倒見がいい」という言葉に、私が感じていた違和感の正体は、教える側の謙虚さが置き去りにされた片手落ちの「教える」「育てる」のイメージが跋扈している点なのだと思います。
「教える」「育てる」ということは、教わる側/育てられる側よりも、教える側/育てる側こそが変わる、という可能性とともになければ、独善的な操作主義に陥ってしまいます。
以下の引用は、中途社員(教わる側)が転職先になじむために必要な要素として、「アンラーニング」「学びほぐし」を紹介した一節です。これを、教わる側ではなく、教える側に向けられた言葉として読んでみてください。
この節では「アンラーニング (Unlearning)」を「学習棄却」と表現してきましたが、これまで学んできたことを「捨て去る」ことは、正直、難しいと言えます。
これまで培ってきた経験や学びが本当に要らなくなると考えたくはありませんし、それは、過去の自分・関わってくれた周囲の人たちを否定するような感覚を伴うためです。
よって、私自身は、「アンラーニング(Unleaning)」を「学びほぐし」と表現するようにしています。
毛糸が絡まってしまったような状態を、いったん「ほぐす」。
そうすると、そこにはスペースができるので、 新たなものを入れる余地が生まれるーそのようなイメージです。
前の経験を捨て去るのではなく、塊やこだわりをほぐし、新たな学びを受け入れる余白をつくることが、「アンラーニング」「学びほぐし」 なのです。
このように考えたほうが、経験を大事なよりどころにしている中途社員にとって受け入れやすくなるのではないでしょうか。
『対話型OJT 主体的に動ける部下を育てる知識とスキル』より
私が、《私の鏡が曇っている可能性》という問いかけに言葉を詰まらせてしまうのは、教える側である自分こそが《アンラーニング》《学びほぐし》できてるだろうか、と自問自答したときに、胸を張ってYesと答えられるか不安になってしまうからです。
ここで別の一冊から。《強化する》というのは、ここでは、「はたらきかける」くらいの意味で捉えてください。
誰かが誰かを一方的に制御するということはなく、常に双方向的です。
さらに言えば、あなたが誰かを強化した結果そのものがあなたを強化するとき、その2人の間には信頼感や愛情というべきものが生まれています。
信頼や愛情とは、行動分析学的に定義するとすれば、2人がお互いに相手を強化し続けている状態ということができます。
『上手な教え方の教科書 入門インストラクショナルデザイン』より
誰かにはたらきかける(教える)ということは、そのはたらきかけた結果が今度は、自分自身にはたらきかけてくる。教える側と教わる側の間、というか、人と人の間の関係性においてはすべてそうだと思いますが、そこには必ず作用反作用の力学が存在します。
教える側の謙虚さというのはまず第一に、《私の鏡が曇っている可能性》を念頭に置くこと。そしてその次は、教える側こそが《アンラーニング》《学びほぐし》をすること。つまり、教える側が、〈変化に対して開かれている〉ことなのだと思います。
育てる人を、育てる
〈変化に対して開かれている〉教える側は、教わる側を成長させるだけでなく、〈個人〉としての自分自身をも成長させていくでしょう。そして、教わる側と〈変化に対して開かれている〉教える側の間には、《あなたが誰かを強化した結果そのものがあなたを強化するとき、その2人の間には信頼感や愛情というべきもの》が立ち上がってきます。この《信頼感や愛情》という求心力がいたるところに存在する〈組織〉は、間違いなく強い組織と言えるでしょう。
私が、人材育成担当者として、〈育てる人を、育てる〉という考え方を大切にしている理由がここにあります。
「人を育てる」という営みが大切なことは間違いないのだけど、そこだけにとどまってしまうと、教わる側はいつまでたっても教わる側のままです。新しい人は絶えずやってきます。教える側がいくらいても足りません。そういった量的な理由もあるし、教わる側がいつまでたっても教わる側のままというのは、目にする景色が変わらないことから、その人のポテンシャルを引き出しきれないという、質的な面もあります。「後輩がついたら、先輩の側がグッと成長した」という、ほんらい人が持っているはずの可能性を毀損してしまうのです。
「人を育てる」という単一ループではなく、〈育てる人を、育てる〉という二重ループは、その道のりは単一ループにくらべて複雑で遠いものだけど、個人と組織にとって望ましい場所につながっていると思っています。〈個人〉にとっては、他人を育てることによって、自分が育つ。〈組織〉にとっては、育てる側と育てられる側の間に信頼関係を生み、個々の信頼関係を束ねたところに組織にとっての求心力が生まれる。
本書を通して強く感じたのは、OJTという場、そして、対話型OJTという他者との向き合い方は、〈育てる人を、育てる〉という二重ループを力強く回してくれるのではないか、ということでした。