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「公用文における漢字使用等について」と特許翻訳・特許明細書作成
特許翻訳をはじめとする翻訳実務においては、クライアントやベンダー(翻訳会社)が用意する「スタイルガイド」と呼ばれる資料が一般的に準備され、翻訳者はその指示に従って翻訳を行うのが通常です。
一方で、翻訳実務とは別の基準として、各業界における慣例などが存在するのが実情でして、特許翻訳(や、リーガル翻訳)に携わる翻訳者は、「公用文における漢字使用等について」という、内閣府が出している訓令が存在することは、知っておいて損がないことかと思います。
このような訓令だったりスタイルガイドというのは、翻訳者個人では判断できないような記載方法について統一の指標・見解を示してくれるものなので、非常に有益なものですし、個人的な考えでは、特許や法律など、堅い分野の翻訳であれば、余計なエラーを極力無くすために、ファジーな部分はできるだけ明確に言語化されているのが理想、と思っています(特許の場合、主に翻訳する特許明細書は、それ自体が法文書なので、その仕様に則った表現規則などを使うべきですし、それらはやはり、翻訳会社など、間に入る利害関係者が率先して確立すべきものだと思います)。
ただ、時々頭を抱えるのが、訓令などで明記されている指示と、スタイルガイドで記載されている指示が矛盾する場合の対応です。
一般法と特別法の関係?
特許英日翻訳においては、場合によっては「字数を省略するために、"したがって""さらに"は"従って""更に"と漢字で表記してください」という指示がスタイルガイド出される場合があるのですが、これは少し曲者です。
というのも、先に紹介した「公用文における~」においては、以下のような規定が出されているからです。
漢字使用等について
オ.次のような接続詞は,原則として,仮名で書く
例 おって かつ したがって ただし ついては ところが ところで また ゆえに
もう少し具体的に説明すると、「したがって」「さらに」などは、副詞として用いられる場合は漢字で、接続詞として用いられる場合はひらがなで書く、というのが、日本語の原則となっています。
つまり、
「本開示の組成物は、●を更に含む」
「さらに、本開示では、●●について記載する」
「製造業者のプロトコルに従って、以下の試薬を用いて、~~~という処理をした」
「したがって、本開示の組成物は、従来の組成物よりも~~~という点において有益な効果を示す」
という、太字で示した箇所の表現は、このとおりの記載とするのが、厳密に正しいのです。
ですから、「字数を省略するために、"したがって""さらに"などは漢字で表現すること」というのは、厳密には訓令とは矛盾してしまう内容になってしまうのです。
このような場合にどう対応するのか、という話ですが、スタイルガイドは基本的に従う必要があるものですから、これらの単語が副詞で用いられている場合は当然ながら、「従って」「更に」のように、漢字で記載すべきです(厳密には、スタイルガイドで指示がされていなくても、訓令に則ればこれらの表記は漢字にしなければならないので、スタイルガイドが"余計"とも言えるのですが)。
一方で、"Accordingly, …"や"In addition, …"のように、文頭に「したがって」「さらに」に対応する表現が出てきたときに、スタイルガイドに従って「従って、」「更に、」という訳をするのは、適切なのでしょうか。
本来であれば、このような場合は、「スタイルガイドと言えど、内閣訓令のほうが効力は強いだろうから、訓令を優先すべき」という考え方を用いるのが順当ではないかと思います。所謂、一般法と特別法の関係で、一般法の例外規定が特別法、特別法で規定されていない事項については、一般法の規定に基づき判断する、というものです(例えば、民法と特許法の関係がそうです)。
ただし、スタイルガイドや訓令は、当然ながら法律とは別のものですし、互いに特別法/一般法の関係にある、といえるものでもないので、同じような考え方を適用することは良くはないとも言えます。
なので、現場目線での翻訳実務を考えるのであれば、スタイルガイドに厳密に従って、文頭でも「更に、」「従って、」のような表記をすべきなのでしょうが、個人的にはどうも納得がいきません。笑
敢えて、スタイルガイドと訓令が矛盾しない対応をとる
私の考えは「スタイルガイドは特別法で、訓令は一般法」という立ち位置ではあるものの、その一方で「訓令に拘束力はない」というものです(逆に、スタイルガイドには拘束力がある)。
というよりも、「民間企業が作った、拘束力のあるスタイルガイドを遵守する必要があるのは当然だが、内閣府や別の、より大きな機関が打ち出している方針があれば、それらに拘束力がなくても、後者を優先すべき」と言ったほうが厳密でしょうか。
特許明細書では、「用語の定義などにおいて、本明細書に記載の事項と、一般的な事項が矛盾する場合、本明細書の事項を優先する」という記載があることが多いですが、ことスタイルガイドと訓令においては逆、という感じです。
なので、「矛盾する記載を、矛盾しないように対応する」というのが、一翻訳者としてできる最大限の仕事ではないかと思います。
上の例で言うと、"Accordingly,", "In addition,"に対応する訳を「従って、」「更に、」以外で見つけるのが、その対応に当たります。
例えば、"Accordingly,"「そのため、」「それゆえに、」と訳したり、"In addition,"を「加えて、」と訳す、といったことが考えられます。
※「故に」も、訓令に従うとひらがなと漢字の使い分けが必要な表現のようですが、これ単体ではなく「それ故に」という表現にすることで、「故に」自体は副詞("それ"を受ける)となりながら、「それ故に」が接続詞のような役割を果たし、スタイルガイドと訓令の矛盾に困ることなく翻訳ができるのではないかと思います。
このように、矛盾する記載や表現を上手くかいくぐって、規則をできる限り遵守して翻訳を行うのも、翻訳者にとって必要な仕事力かと思います。
おまけ:接続詞でも漢字表記してもいいのかも
というわけで、私のスタンスをまとめましたが、最後に、どんでん返しの考えもまとめておきます。
先に、「スタイルガイドと訓令は、特別法と一般法の対応ではない(し、法律でもない)」と書きました。この考え方に則ると、文頭でも「従って、」「更に、」と記載してもいいのではないか、とも思うのです。
というのも、特許翻訳において、これらの表現が漢字なのかひらがななのかで、明細書の実質的な記載は何ら変わりません。ここが漢字なのかひらがななのかで、権利が取れるかとれないかは変わらないでしょうし、この記載が原因で訂正や無効審判をすることもないでしょう(そんなことをする人がいれば、それはただの茶番でしょう)。
そして、言語方向が逆になりますが、日英の特許翻訳では、例えば情報制御系のクレームでは、"on the basis of"という表現ではなく"based on"という表現を用いることが推奨されています。
「操作部は、~~という判定に基づき、出力部に信号を出力させる」のようなクレームの構成要素があった場合に、"on the basis of"を用いると、"the"が不明瞭な記載になる(初出なのにtheが用いられているため)、という理由で、余計な拒絶理由を喰らう可能性を排除するために、"based on"を用いる、というのが、その理由です。
これは、英文法の視点で厳密に捕らえると、"on the basis of"と"based on"は、後に取る表現が違うので、代用はできないのです。
(簡単に言えば、"on the basis of determining of XX"、"based on the analysis"のように、前者が取るのは動名詞で、後者が取るのは名詞、という違いです。)
ですが、特許の世界では、厳密な文法の規則よりも、特許でのクレーム解釈を優先して、このような対応が慣例(通常)となっているわけです。
この例と、今回の公用文での漢字の話が等価なものではないことは承知なのですが、アメリカでのこのような実務を見ていると、接続詞を漢字で書こうとひらがなで書こうと些末な問題なのだから、大人しくスタイルガイドに従ってもいいのではないか、という話です。
※アメリカの例は、特許の権利取得においてクリティカルな問題を孕んでいるので、喩えとしてはあまりふさわしくないものかもしれないことは念のため記載しておきます。