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この世界に残されて



愛する家族を失い、孤独と共に生きていかなければいけない。この世界に残された2人の絆は、“孤独”によって生まれた。


数ヶ月前、「この世界に残されて」という映画を鑑賞しました。鑑賞後しばらく経ちますが、なんとなく頭から離れなかったので、書き留めることにします。


映画の舞台はナチスドイツ占領下後のハンガリー。ホロコーストを生き延びた42歳の医師アルドと、16歳の少女クララの数年間を描いた物語。2人はナチスドイツによって愛する家族を失います。家族を失ってしまった2人の孤独や喪失感は、愛情や友情を超えた複雑な関係を築いていきます。

終始淡々と静かに物語は進んでいきます。いつもなら途中で眠たくなりそうな時間。私は2人の人生の一部始終を覗いているような感覚で、まんまと映画の世界観に引き込まれました。

”覗く“という表現になってしまうのは、2人の認めることのできない危うい関係性によるものです。

ですが、一つ覚えていてほしいのは「ロリコン映画」では決してないこと。2人の関係性は絶対的に「父親の代わり」と「娘の代わり」なのです。“代わり”という表現をしてしまうと、少し薄情なニュアンスですが、そもそものきっかけは「父親が与えてくれるような温もりが欲しい」というクララの願望。

アルドの愛する家族がもし生き延びていれば、2人はただの医者と患者という関係だったと思います。クララはアルドに父性を感じたかった。ただそれだけのこと。なぜ2人は惹かれあったのか、それは、アルドもクララと同じように”孤独”だったから。

孤独が結びつける関係性以上に強いものはあるのでしょうか。

さらに、物語を見ていて思ったのは、とにかく美しい。互いに「好き」と言い合うこともなく、キスシーンなども一切出てこない。それでも、2人の父娘以上のような感情が画面を越えて伝わってくるのです。これこそが、互いを思い遣り続けた美しい愛の形。


私は、大人になってから「愛情」というものを深く考えるようになりました。私達が愛情だと勘違いしている感情は、相手に対する過度な期待や、相手を思い遣るように見せかけたエゴ的な感情だと思っています。

そもそも私の恋愛観でいうと、恋愛とはエゴでしかないものだと思っています。「好き」と伝えること、それは本当に相手を思い遣っているのでしょうか。好きと伝えることの裏側には、「好きと伝えたから、あなたも好きになってね」という思いも少なからず混在しているのではないでしょうか。

だから私は、「伝えないことの愛情」も必要だと思っています。親が子を愛するとき、まさにこの「伝えないことの愛情」ではないでしょうか。子供の自由を尊重し、エゴ的な期待もしない。それでもずっと見守っている、世界中の誰よりも味方でいる。居場所でいる。ただそれだけ。

伝えることが全てではなく、相手が何を求めているのか、何を大事にしているのかを尊重し、そっと見守ること。何よりどんなときも相手の居場所でいること。”孤独“を与えないこと。


アルドとクララは、この感情全てをお互いが持ち合わせていたのだと思います。

孤独から生まれた美しい愛の物語。


ぜひ一人でも多くの方に観ていただきたいと思いました。

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