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「普通」なのか「まとも」なのか (町田康 「権現の踊り子」)
かつてリオオリンピック閉会式で首相がマリオに扮した結果、内閣支持率が上昇した、と主要なメディアが報じていた。
端的に言うと、このことは国民の民度の低さか、報じたメディアの目の曇りを示すわけだが、いずれにせよ、この国のありようは、良識あるまともな状態、とは言い難い。
しかし、こういった現象は、世間に溢れる言わば普通の事態だ。普通なら良い、というわけではもちろんないが、人の心理として、単に数が多いだけの場所に、安心を見い出すのも事実だろう。
だが、「権現の踊り子」を読めば、世の中の普通のありように安心などしていられない。例えば、アパートに奇怪なおばはんが棲みつき、いつの間にか住人達は管理人として扱っている。
あるいは、くすんだ風貌の楽隊が寂しく悲しいメロディーで、敗北感をつきつけてくる。素通りしてしまえばよいのに、俺は魅了されて動けなくなってしまう。
そして、そのうちに粗悪品をまとった野暮な男の意にかない、また、自身がなんら見識を備えていない意味でもその男同様に偽物である俺が、次から次へと差し出される二流三流以下の偽物を、自らが生き逃れるために撃滅していかねばならないという構造にはまりこむ。
救いは、物語にある種の苦しみが通底している点ではないか。俺が苦しむのは、それを良しとしていない、ということであり、窮状を認め喘ぐ姿は、分かる者が故のとも言うべき苦しみで、
「権現の踊り子」の世界を見渡した際の唯一の希望と言えなくもないが、それを踏まえてもこの世界が、まともとはかけ離れたもの、狂ったものとして成立していることを読み取ることは容易だろう。
しかし、ここで描かれたのは異常な世界だろうか? いや、そうではあるまい。これが町田氏にとっての普通の世界の姿なのだ。腐敗と等号で結べさえするかもしれない。
その上で、では、お前はどうなのだ? 「まとも」なのか? という問いを携えて、私に迫ってくるのである。