I had no time to Hate —
I had no time to Hate —
Because
The Grave would hinder Me —
And Life was not so
Ample I
Could finish — Enmity —
Nor had I time to Love —
But since
Some Industry must be —
The little Toil of Love —
I thought
Be large enough for Me —
憎んでいる時間はなかった
墓が邪魔をして
憎しみ抜くほどの余裕が
生活になかった
愛している時間もなかった
ただいくつかの努力
少なくとも
愛するために懸命だった時間があった
だから、
それで充分だと私は思った
憎しみも愛も、人生で極めるには深すぎる——
いまわの際から響いてくるような「I」の言葉に、
ましてや僕など、愛や憎しみについて語るには不足すぎると痛感する。
けれど、この詩には惹きつけられた——
死の側から生を見つめる視点が、
やはりディキンソンらしいと思う。
〜するには人生は短すぎる
こんなフレーズは他にもあったような気がしますが、
この詩でいうと、
憎む(愛する)には〜
ということになるでしょう。
もう少し踏み込んで、
憎しみ抜く(愛し抜く)には〜
と言ってもいい。
なぜなら、1連目の最後に使われているfinish。
これはend(終わる)とは少し違って、やり遂げるとか、何か目的があってそれを果たすというニュアンスがあるからです。
憎む時間がない/愛する時間がない
のは、
墓、つまりは死が、「end」として、二つの行為の完遂を妨げるから。
だとすれば、
憎しみと愛は、人一人の人生を超えるだけの長い時を必要とする。
それほどに深いのだ、と言っているようにも読めます。
と、いま書いていてふと気付いたのですが、
これは墓が私のものだった場合だ。
では、これが相手の墓だったらどうか。
憎しみが相手を滅ぼすことならば、
その目的を達した(finish)墓の前に、
私は立っている。
もう憎むことはできないのに、
Enmity(恨み)は終わらない。
憎しみ抜く、
その気持ちが果てるよりまえに、
相手の死が来てしまう。
しかし墓を前にしたとき、
愛もまた同じなのかもしれない。
相手がいなくなっても、
愛する気持ちは残る。
だから果たすことができない。
憎しみと愛。
その違いはなんだろうか。
その答えは、
愛について書かれた2連目の方にあると思う。
愛には、
愛を求めて費やした、一人の時間がある。
その時間は死を前に意味を持ってくる。
憎しみを得るために努力する人はいない。
そう見えるなら、その人はすでに憎んでいる。
そして憎んだ時間は、
死を前に意味を失う。
思えば愛そうとした時間は、
その結末に関わらず、
とても充実していた。
それ自体がとても愛しいものとして。
だから僕には、
私には、
充分な時間があったよ。
墓を前に、そう思えたらいい。
『THE COMPLETE POEMS OF EMILY DICKINSON』
THOMAS H . JOHNSON, EDITOR
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