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A Dying Tiger — moaned for Drink —

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

A Dying Tiger — moaned for Drink —
I hunted all the Sand —
I caught the Dripping of a Rock
And bore it in my Hand —
His Mighty Balls — in death were thick —
But searching — I could see
A Vision on the Retina
Of Water — and of me —

‘T was not my blame — who sped too slow —
‘T was not his blame — who died
While I was reaching him —
But ‘twas — the fact that He was dead —

死にゆく虎は風がうなるように言った——水を、——
私は砂をかきあつめ
岩清水のしたたりを
手のひらに包んで持っていった
あの力強い双眸は死を前にかすんでいた
しかし——私には見えた——
その眼に映る水の夢、
同じその瞳の中に
私もいたのだ

それは、
私のせいじゃない——彼は今ゆっくりとかけめぐり
彼のせいじゃない——旅立った
私が戻ってきたとき
そこには
ただ彼の死があった


ディキンソンは草花や鳥の存在にイメージを託した詩を多く残しており、ほとんど家の外に出ない生活をしていた彼女にとって、それらがいかに身近なものだったのかがよく分かります。

この詩を見つけたときは驚きました。ディキンソンに虎?……そんなイメージがなかったからです。彼女は本物の虎を見たことがあったのか。あるいは散歩をしながら、見慣れた庭の片隅に、虎が迷い込んでいはしないかと、想像した日があったのでしょうか。ともあれ、初めは意外さに興味をそそられたこの詩も、読んでいるうちにあっという間に世界観に引き込まれ、ああ、やっぱりディキンソンの詩だな、と読後には腑に落ちていて、余韻に浸る心の片隅で、僕はこの詩を訳そうと決めていたのでした。


死にかけの虎が水を欲しがっていて、
「私」が水を持って戻ってくるも、
その時にはもう虎は死んでいた。

the fact(事実)としては、
これ以上書かなくともいいでしょう。

しかし、
人は誰かが「死んだ」と言われて、
「そうか、分かった」とすんなりと納得するものでしょうか。

そうではないからこそ、
死という、その訪れは決定的で一瞬のうちに行われる出来事に対して、
せめてそれを受け入れるための「時」を、確保しようとするのではないでしょうか。

「私」が虎の姿を実際に見たのは、
1行目と、最後の2行だけ。

死に瀕する姿と、
死んだ姿。

しかし、その間にある時間、
実際には描写が不可能なはずの、
水を探して持ってくるあいだにも、
彼(虎)のことが描写されている。

そこにこそ人間の心の働きがあり、
この詩を通してディキンソンが行ったのは、
ひとつの葬式である、
とも言えるでしょう。


ちなみに見送る側だけでなく、
見送られる側としても、
死の間際には「走馬灯を見る」といいます。

こちらも同様に、
それ(死)が一瞬であることの受け入れ難さからくる現象なのかもしれない。

— who sped too slow —

この部分、
spedはspeedの過去形なので、急ぐ、速度を出す、といった意味。
これに、
too slow、とてもゆっくりと、という言葉がついているのも、
きっとそういうことで、
客観的には速くても、
ゆっくりとしか認識できないものがあることを表現しているように思います。

ディキンソンの詩は、水のようだと思うときがあります。
しかしそれは酒のように人を酔わせたり、高揚させたりするのではなく、
本当にそれを必要としている心の部分にまで届いて、
やさしく染み込んでいく。
そんな、
渇きを潤す水だとおもいます。

だから僕はこの詩も、
ディキンソンらしいな、と感じたのです。


冒頭の俳句は松尾芭蕉が詠んだ最後の句とされています。

願わくば彼(虎)のたどりつく場所が枯野ではなく、

豊かなオアシスであることを願って。

『THE COMPLETE POEMS OF EMILY DICHINSON』
THOMAS H . JOHNSON, EDITOR

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