【シンプリスト】と【知足】〜「PERFECT DAYS」を観て①
ドラマ・映画好きなキャリアコンサルタント xyzです。
2024年の映画館初めは「PERFECT DAYS」を選びました。
一人暮らしの中年の男のとある日々(12日間)を切り取った映画(あれこれ削ぎ落とした物語紹介です)。
公式サイトには「映画にならなかった、平山の353日」というショートムービーがついています。必見です!
今回はパート①、この後テーマを変えて②、③……と続く予定です。
それだけこの作品、語りたいことがいろいろ、たくさんあるのです。
それでは!
新しい朝が来る
道を掃く箒のリズミカルな音で目覚めるところから、主人公ヒラヤマの一日が始まります。
起床後は、習慣化された、流れるような動きで身支度をし、植物の世話をし、家を出ます。朝食代わりの缶コーヒーも毎日同じ物。同じだから迷いがない。ヒラヤマが初めて迷うのは、通勤の車の中で聴くカセットテープを選ぶ時くらい。
仕事の手順も、昼食を取る場所も、食後に木漏れ日の写真をカメラで撮ることも、仕事終わりの銭湯での一番風呂も、その後夕食に立ち寄る地下街の店も同じ。帰宅して寝床で本を読み、読むのに疲れたら寝るーこれがヒラヤマの平日。
休日は、コインランドリーに行き、行きつけの写真屋で頼んでいた写真を受け取り、新たに持ち込んだフィルムの現像を頼み、これまた行きつけの古本屋で気になった文庫本を一冊だけ買い、馴染みのスナックに寄って、ママの歌に聴き入る。
いつも、同じ。
退屈に見えるほど、同じ。
同じ時間、同じ作業、同じ店、同じ場所、関わりのある人も同じ。平日は平日の、休日は休日の、決まった過ごし方。
判で押したような毎日、ヒラヤマの生活もそのように捉えられるのでしょうか。はたから見れば同じように見える毎日でも、ヒラヤマにとっては違います。ヒラヤマの一日は決して代わり映えのしないものではなくて、ほんのわずかな変化を感じとり味わうことがてきる、一日一日がいとおしい時間の重なりなのでしょう。
平平たる日常だからこそ、そこに見え隠れする、ほんの少しの違いを敏感に察知できて、それらを楽しめるヒラヤマ。
空模様、風の匂い、空気の流れ、光が作り出す点滅や陰翳、木々の姿、湯の温度、人の表情やこころの動き、それに自分の体調、感覚、感情……刻々と移りゆくものたち。
朝が来て目覚め、夜になって眠り、そしてまた新しい朝が来て目覚める。同じように見えてひとつとして同じではない新しい日。
夜眠りについて、翌朝目覚められることの尊さ、新しい日を始めることができる奇跡と有難さ-ラストシーンで「Feeling Good」を聴きながら運転するヒラヤマのなんとも複雑な表情は、この尊さと奇跡と有難さを静かに噛みしめているようにも見えました。
シンプリスト not ミニマリスト
この映画を「ミニマリストを描いた」「ミニマリストにおすすめの映画」と評しているのを見かけましたが、映画を観終わって思うのは、ヒラヤマはミニマリストというよりは、シンプリストであるということです。
ミニマリストとシンプリスト。似ているようですが違います。
ミニマリストは、物の所有を極力減らすことを主眼に、生活に困らない必要最低限の物で身の回りを構成し、暮らしている。極限まで削ぎ落とす、持たないイメージ。
シンプリストは、物を所有する基準は「気に入っているかどうか」。シンプルであることによって心地よさや豊かさを感じて暮らしている。少数精鋭のお気に入りに囲まれているイメージ。
ミニマリストとシンプリスト、目指す姿は違いますが、共通するのは「自分が決めた基準に沿って要不要を判断できる」「取捨選択できる」ことです。判断や選択に必要なのは、やはり自己理解と自分軸。
自分の嗜好が明確であれば、自然と選択肢が絞り込まれるため、生活スタイルを単純化し、複雑な選択をする必要がなくなります。
いわゆる「生活必需品」も、彼の生活に必要なければ持たない潔さ。
ヒラヤマが大切に持っているものたち、本や植物は、なくても生きていけるものだけど、彼の幸せな生活にはマスト。
「できるだけものごとをシンプルにする」
それがシンプリスト・ヒラヤマの人生哲学のように見えました。
幸せを感じられる日々
ヒラヤマの日常を振り返る時「静謐」という言葉が浮かんできます。
とても穏やかで静かな日々の営み。
穏やかさや静けさは、一体どこから来るのだろうと考えていて、それはヒラヤマの姿が満ちたりて、余裕が感じられるからだと思いました。
所得や消費などの物質的な豊かさとは無縁だけど、今の彼にとって、過不足なく満たされている生活。
しかし、妹の「こんなところに住んでいるの……」という呟きは、大方の世間の見方と同じかもしれません。彼女の口調からも、ヒラヤマの住むアパートはかつて彼や彼の原家族が属していた世界とはまるでかけはなれたもので、妹にとっては受け入れ難い現実に違いなく……兄妹は断絶している(ヒラヤマの言う「つながっていない世界」)けれど、今の彼はかつていた世界から出て、自由に生きられているのでしょうか。
今、ここで生きていることの幸せを感じられる日々。自分にとって必要なもの、譲れないものがわかっているから、それがいい。ここがいい。
でも、妹が帰った後にひとり涙を流すヒラヤマ。この涙は、どんな涙なんだろう……。彼の過ぎ越し方に思いを巡らせました。
こんなふうに生きていきたい?
「本当にトイレ掃除をしてるの?」
妹がヒラヤマに尋ねるニュアンスは咎める、とは違うけれども、決して好意的な感情ではなく、兄の生きる世界は自分とは違うと決めつけているよそよそしさ……。
誰に褒められるでもない、スポットライトの当たるような仕事ではないけれど、ヒラヤマはこの仕事に無心に真剣に取り組み、自分なりの工夫を加えています。それは、同僚タカオのセリフでヒラヤマがいろんな自作の掃除用具を作っていることからも窺い知れます。無駄な動きはなく、効率的に、完璧に掃除をし、また次の現場へと向かう……その繰り返し。
そんな地味な作業を日々の営みの一部として淡々と粛々と繰り返すヒラヤマ。その姿はひたむきでクール。
ヒラヤマが仕事にやりがいや誇りを持っているかまではわかりませんが、責任を持って仕事を全うする真面目さと、やるからには完璧にという妥協のなさを持ち合わせているのはわかります。
この映画のキャッチフレーズは「こんなふうに生きていけたなら」ですが、これはあくまでもヒラヤマの選択によるヒラヤマの生きる道。誰もが憧れたり理想にする生き方かどうかと言えば、それは違うかな、と思いました。
人の数だけ生きる道はあり、他の誰かと同じ道をなぞって進む必要はない。自分の道を自分の足で進んでいく、それが自分の人生を生きる、ということだから、この映画をきっかけにどんなふうに生きていけたなら自分は幸せなのかを考えてみるのといいかもしれませんね。
自分の人生を生きるーわたしはどんなふうに生きていきたいのか、そんなことを改めて考えました。
知足者富
この映画を観た後の帰り道で思い出したのが【知足】という言葉でした。知足とは老子の言葉【知足者富】の一部です。
書き下し文や訳(意訳なのでご容赦ください)も併せて載せます。
道経は、全81章からなる「老子道徳経」のうち上篇(前半部分)で、下篇(後半部分)は徳経と呼ばれています。
「道」にしたがってありのままの自分を知り、受け入れることの大切さを説いているのだとわたしは解釈しました。
そして、この【知足者富】がヒラヤマの生きる姿に重なりました。
足るを知るものの豊かさや余裕。
多くは求めず、今満たされていること、満たされていることを実感していること。現状に甘んじているのではなく、現状に満足している上で、努力する志を持っている、それはヒラヤマのトイレ掃除への取り組みからも見て取れました。
欲を捨てて満足できる人は貧しくとも精神的に幸福を得られるーヒラヤマの生き方の清々しさの源にも通じるものがあるなと思いました。「こんなふうに生きていけたなら」というキャッチフレーズは、この【知足者富】の清々しさに惹かれる人間の憧れの表れなのかもしれませんね。
ここまで読んでいただきまして、ありがとうございました。
次回もまた別の切り口から「PERFECT DAYS」について書こうかな……と思っています。もう少しだけお付き合いくださいね^^