ジャンプ〜子が親を超えていく時〜「リトル・ダンサー」と「コーダ あいのうた」から考察する
ドラマ・映画好きなキャリアコンサルタント xyzです。
今回は、ジャンプ〜子が親を超えていく時〜と題して、二つの映画を取り上げます。
「リトル・ダンサー」と「コーダ あいのうた」です。
ダンスに魅入られた少年と歌を愛する少女
「リトル・ダンサー」原題は『Billy Elliot』
タイトルは、主人公の男の子の名前です。本当はウィリアムという名前ですが、周りも本人もずっとビリーで通しています。面接で、審査員に「ウィリアム」と呼ばれて、わざわざ「ビリー」と訂正(?)するビリー。
いつもここでは邦題のセンスのなさを嘆いているわたしですが、この映画の邦題は、映画の内容を端的に表している、非常に良いタイトルなのではないかなと思います^^(ビリー・エリオットっていきなり言われても「誰それ?」ですもんね)
映画の概要はこちら↓
続いては「コーダ あいのうた」原題は「CODA」。(あいのうた、とは。どこから?)
CODAとはChild of Deaf Adultsの頭文字をとった略称で「聴覚障害の親を持つ健聴の子」のことです。
実は初め、前情報なしで題名聞いた時はコーダって音楽記号のことかと勘違いしてました。
多分、前者のコーダと後者のコーダの意味を掛けているタイトルでもあるのかなぁと思います。音楽映画ですし、ね♫
では、映画の概要はこちらでどうぞ↓
二つの映画の共通点
舞台も背景も上映された時期も違う二つの映画ですが、テーマとしてはいろいろと共通することがあるように思いました。かなりネタバレしますので、ご注意くださいませ^^
★ 年齢の割に大人びている主人公
(年長者の家族の世話や家事に縛られ、子供らしくいられる時間は学校にいる間だけ)
ビリーは幼くして母を亡くし、炭鉱に勤める父と歳の離れた兄、認知症で徘徊癖のある祖母と4人暮らし。
女手がないので、子供のビリーが祖母の面倒、家事を担っています。まだ小学生で、亡くなった母を恋しく思うだろう年頃ですが、寂しがっている暇はないビリー。
ルビーは、聴覚障害の両親、兄の4人暮らし。家の中ではただ一人ルビーが健聴者なので、幼い頃から家族の通訳の役目をこなし、毎日漁の手伝いもしています。家族の生活に、ルビーの存在は不可欠です。
二人ともいわゆるヤングケアラーと言えるでしょう。
まだまだ子供らしくいたい年頃であるにもかかわらず、生活全般でいろいろと我慢を強いられ、そのことに文句も言えず、大人たちの事情をわかっているがために自己主張を諦め、日々を必死で生きています。
★文化資本としては貧しい部類……ではあるけれど。
(英才教育を施されたわけでもなく金銭的にも余裕のない生活)
炭鉱夫である父と兄。日々の生活に必死でおよそ教養や趣味とは縁遠い生活。
しかし、ビリーの母は生前、趣味でピアノを弾いていたらしく、家にはアップライトピアノがあります。素っ気ない、としか表現できないような、地味で質素な狭い部屋に母の形見のピアノの存在感……弾き方はわからないけれど鍵盤を愛しそうに叩き音を鳴らすビリー。
兄のレコード(無断でかけたことがバレてこっぴどく怒られてる)の音楽に合わせて自己流でダンスをしたり。リズムに合わせて身体を動かすことで、日々の鬱憤を晴らしたり、気分転換になっているのでしょうね。踊っている時のビリーは、とても子供らしい表情をしています。踊ることを心から楽しんでいる様子です。
一方のルビーも、毎日漁の手伝いに家族の世話、学校でも周りと馴染めず……と心休まらない日々を送るなかで、唯一の癒しが音楽。
2ドルの中古のレコードプレーヤーを買った娘は母から「無駄遣いだ」と言われてしまう(確かにルビー以外誰も使い道のない代物……)けれど、自分の部屋で中古レコードに合わせて自由に歌うことが大好き。
ルビーにとって音楽は、高尚な芸術などではなくて、もっと身近で、もっと切実な人生の必需品なのですね。
踊るビリーや歌うルビーを見ていると、彼らにとってバレエや音楽は心を豊かにしてくれるものであり、魂の救済であり、祈りであり、生きるすべなのだということが伝わってきました。
★好きなことに対する周囲の偏見や無理解、貧困の壁
(子供が夢中になっていることへの理解に乏しい親)
80年代のイギリス、北イングランドの炭鉱町。もう、この時代背景、舞台設定だけでも、伝統的な男らしさ的なものがぷんぷん匂ってきます。
映画「リトル・ダンサー」のキャッチコピーは「僕がバレエ・ダンサーを夢見てはいけないの?」でした。
父に言われて仕方なくボクシングを習っていたビリーは練習にも身が入らず一向にボクシングは上達しないのですが、ふとした偶然から知ったバレエにだんだんと惹かれていきます。(これぞ、プランドハプンスタンス!)
しかし「バレエは女のやるもの」「男ならボクシング」という偏見から、ビリーはバレエを習っていることを家族にも、親友のマイケル(クロスドレッサー、多分ゲイなのかな)以外には周りにも秘密にしていました。(異端に一人苦しむマイケルも、自分の「秘密」をビリーだけに打ち明けます。このふたりの友情についても書きたい!また別の機会に……)
バレエを習っていることが父親にバレた時も、父親は落胆&大反対!バレエの先生がビリーの才能を力説しても、そんな才能が我が息子にあるわけがない、とロイヤルバレエスクール受験を勧められても父親は聞く耳を持ちません。
ルビーも、歌うことが好きだという気持ちを誰にも言えないでいました。聾唖の母は、合唱部に入った娘に「反抗期なのね」と手話で伝えます。「私たちの目が見えなかったら絵を描いていたわね」とまでからかわれたルビーは怒り心頭です。
ルビーに歌の才能があると音楽の先生に言われても、歌声を聴くことのできない両親は、そんな才能が我が娘にあるのかわからない、そんなことよりも家業を手伝ってもらう方が大事、と音楽大学進学には大反対します。
ビリーの家庭も、ルビーの家庭も、裕福ではないので、子供にいくら才能があったとしても、その才能を伸ばす環境を与えることが難しく……夢を追うにしても貧困の壁、家族の事情が立ちはだかります。
★天賦の才能を見出し、才能を伸ばすことを応援してくれる大人との出会い
ビリーの才能に気づきバレエレッスンの機会を与え、ロイヤルバレエスクール受験を勧めてくれたウィルキンソン先生。
何とかロイヤルバレエ学校受験に挑戦することが決まると、ロンドン行きの旅費をカンパしてくれるビリーの父親の仕事仲間である炭鉱夫たち。
ルビーの歌の才能を見抜いた合唱部の顧問のベルナルド先生は、自宅で特別にプライベートレッスンをしてくれるだけでなく、受験指導までしてくれます。(家業の手伝いで時間通りにレッスンに来られないルビーなのですが……)
引っ込み思案なルビーの、押さえ込んでいる感情や情熱を解放させることにも注力します。
主人公たちの才能を見出した師は、自分自身はその道で大成できなかった人たちでした。しかし、教え子の天賦の才に気づき、その才能を育て伸ばし、更なる研鑽の機会へと導きました。彼らの才能を誰よりも確信し、家族を説得してまで彼らの将来への足がかりを作ってくれました。
主人公二人にとって、この恩師たちとの出会いは人生の転機であったに違いありません。
★親や家族は最終的には子の巣立ちを見送る
ビリーの父は、全身全霊で踊る息子の姿に胸を打たれ、ビリーの才能を信じてみようと思うようになります。ビリーの兄トニーが反対した時も父は「自分たちと違ってビリーには未来がある。ビリーの夢を叶えてやりたいんだ」と男泣きします。
(話は脱線しますが、父に「俺たちはもうおしまいだ」と言われてしまうトニー……彼だって同じ父の息子であるのに、父の真意がわかっていたとしても、そんな言葉を受け止めなければならないトニーの心中を思うと胸が締め付けられます……。)
ビリーの父親自身(兄も、そしてほとんどの炭鉱夫仲間たちも皆)炭鉱の町ダーラムから外に出たことがないのに、バレエの道に進もうとする息子を単身ロンドンに行かせることを決意するのです。
炭鉱が人生の全てだった父親にしてみれば、バレエも、ロイヤルバレエ学校も、ロンドンも、何もかもが別世界であり未知の世界。
自分の知らない世界に踏み出そうとする息子を見守ることは、親としては心配でたまらないことでしょう。幼いビリーを手元から離した父の思いの深さと十数年間が、映画のラストシーンの一コマ(ネタバレ回避。是非観てください!!)でまざまざと思い起こされて、いつも観るたびにここで涙腺決壊してしまいます。(わかっていても、いつもここで大泣き)
ルビー以外の家族は聴覚障害があるため、ルビーの歌声を聴くことができない、ゆえにルビーに歌の才能があるといくら言われてもそれを「実感」することができません。音のない世界にいるのですから。
しかし、声(音)を聴くことはできない家族は、彼らなりの「感覚」と「やり方」でルビーの才能を確信します(ネタバレ回避)。
このシーンたちは映画の中でも心揺さぶられるハイライトなので、是非映画を観て彼らの世界を一緒に体感して(完全に同じに感じ取れなくてもその世界に寄り添って)いただきたい!
コミュニケーションとは、伝えるとは、について深く考えさせられます。
ルビーは家業を手伝うために一度は音大進学を断念しようとしますが、そのことに対してルビーの兄レオが彼女に手話で言うセリフ「家族の犠牲になるな。ここにいちゃダメだ。永遠に頼られちまう」。
ラストシーンで家を出るルビーに、ルビー父がかけた「ひとこと」と、ルビーの「返し」。父の行動は(多分多くの観客にとって)不意打ちだったのでインパクト絶大でした。
あとは自分たちで何とかする。おまえは自分の道を行け。ビリーの父やルビーの兄や父はそんなはなむけのことばを贈ったのだなぁと胸が熱くなりました。
どちらの家族の場合も、貧困が子供の進路の障壁のひとつになっていましたが、親は最終的には子の将来を狭めない選択をします。自分たちの想像をはるかに超えた、完全なる未知の世界へと、子を送り出す決断をします。
ヤングケアラーとは
さて、ここで「ヤングケアラー」の定義を厚生労働省のページから引用します。
ヤングケアラーは、未成年にも関わらず家族の介護や世話などで年齢等に見合わない重い責任や負担を負うことで、子どもらしい生活や時間が奪われている状態です。
ビリーは母親を亡くし、認知症の祖母のご飯作りから、徘徊癖のある祖母を探しに出たり、と気の休まる時がありません。ビリー自身もまだ幼く庇護や愛情が必要な年頃であるにもかかわらず、祖母の世話をしています。家族が生活に必死で余裕がないこともわかっているので、ビリーもわがままを言うわけでもなくただただ現実を受け入れています。
ルビーは物心ついてからずっと聴覚障害の両親、兄の通訳をしており、学校に行く前に父と兄と共に漁に出て仕事を手伝っています。聴覚障害者の家庭ということで「変わり者の家族」とクラスメートたちから陰口を叩かれ笑われていて、余計に引っ込み思案になっていました。
歌のレッスンにいつも遅刻してくるルビーにやる気があるのかと叱る先生に対して、ルビーが言った一言です。
物心ついてからずっと家族を支えるために生きてきた、そしてそこに選択の余地はなかったルビーのセリフが心に刺さります。
感情を伝える
ビリーもルビーも、感情表現、特に言葉で表現することには不器用です。感情を抑え込んでしまったり、うまく言葉が見つからなかったりと、もどかしい様子です。
ビリーが父親の前で内心の怒りやフラストレーションをさらけ出した時はタップダンス(のような自己流ダンス)でした。
ルビーが、両親に対して強い調子で怒りや悲しみを訴える時も、言葉が追いつかず、溢れる思いを手話で雄弁に語っていました。
好きなもの、夢中なものについて語る時もそうです。自分の中で起こる変化を説明しようとする二人。
ビリーはロイヤルバレエ学校の試験で審査員に「踊っている時どんな気持ちか?」と聞かれ、こう答えました。
「よくわからない……最初は体が硬いけれど、踊り始めると何もかも忘れてすべてが消えます。何もかも…。自分が変わって、体の中に炎が…宙を飛んでいる気分になります。鳥のように、電気のように……そう、電気のように」
一方、ルビーは「歌う時の気分は?」とベルナルド先生に聞かれ、「うまく説明できない」と言って黙ってしまいますが、やがて手話で気持ちを表現します。
そのジェスチャーから「歌っている時は、心のモヤモヤなどの全てから解き放たれやがて天にも昇るような気持ちになる」と言っているのかなとわたしは受け取りました。(手話の訳は出ないので、あくまでもわたしが見た限りの解釈ですが)
ハッとしたのは、主人公二人の感想がとても似ていたことです。
好きなことをしている時は、すべてのことから解き放たれて、いつもの自分が消えて、宙を飛んでいる/天に昇るような気持ちになる。
二人とも、一種のトランス状態、恍惚感を表現しようとしたのでしょうか。
二人の表現があまりにも似ていたので印象に残りました。そして、その必死の訴えに聞き手は圧倒されたということまで似ています。
子供にはあまりにも過酷な日々の生活の中で、ダンスや歌が心の支えであり、希望の光であり、自分が自分らしくいられる束の間の時間を与えてくれるかけがえのないものだったのでしょう。そんな夢中になれるものを持てた彼らは幸運だったかもしれません。
ジャンプ!あたらしい世界へ
「リトル・ダンサー」の映画の冒頭のシーンは、ベッドの上でぴょんぴょんとジャンプする11歳のビリーの姿から始まります。そしてラストは、ロイヤル・バレエ団の舞台でプリンシパルとして華麗に跳躍するビリーの姿が映されます。初めのジャンプとは違い、洗練されたジャンプです。ビリーのたゆまぬ努力で新しい世界へ飛び込み(ジャンプ)、見事着地した様子を表しているように思えました。
ルビーは、歌の才能を持って、生まれ育った世界とは違う、新しい世界へジャンプしました。(繰返しの旋律の後でコーダ記号まで一気にジャンプするかのように。)
この二つの映画にはたくさんの共通点がありますが「ジャンプ」もそのひとつではないでしょうか?
ジャンプする子の足枷にならないように
この二つの映画では、貧困および家族の事情が子の将来に制約をかけてしまいかねない(選択肢を狭めざるをえない)状況にありました。
しかし、現実社会に目を向けると、制約は何も貧困や家庭の事情などの経済的な理由ばかりではありません。
ともすると親は、心配や不安から良かれと思って過保護、過干渉になったり、過度の期待をかけたり、親のエゴや価値観を押しつけようとして、子の将来に制約をかけてしまったり、子の望まない進路を強制してしまうこともあると聞きます。
また、子が親を超えていく、親の知らない世界を目指すことへの抵抗、不安、子を自分の手元に置いておきたいという願いから、子の進路に反対してしまうという話も珍しくありません。
貧困や家庭の事情の場合とは違い、金銭的な障壁はないけれど、子が自由な選択をすることへの心理的な障壁を親が作り出していることも。
新しい世界に向かって果敢にジャンプしようとする子に、親が足枷にならないように。
成功するかどうかわからないジャンプを見守るのも、ジャンプした先が未知の世界なのも不安にちがいないですが、不安に堪えて見守り、子が安心して帰れる場所を作ることが親にできる最大のことだと思いました。
ウェルビーイングな生き方とは
この二つの映画を、子を見守る親の目線で観てみると、若い頃初めて「リトル・ダンサー」を観た時とはまた違った感想を持つようになりました。(初めて観た時は未知の世界に挑む子の側からの目線であり思いでした。)
キャリアコンサルタントになって、わたしの目指すテーマが「ウェルビーイング」であることも、n回目に映画を観直してみて、新たな気づきを得られたのだと思います。
親と子は別の人間であること。
何をそんな当たり前のことを……と言われそうですが、これがなかなかできそうでできない。理屈ではわかっていても、感情が邪魔をすること、ありますよね。
子は親の分身でも、ましてや道具でもないこと。
改めて肝に銘じます。
若年層のキャリア教育と同時に、親世代のキャリア教育も非常に重要だと思うのです。親世代はこれまでキャリア教育を受ける機会が少なかった世代にも関わらず、今も機会は少ないままのようです。
良くも悪くも、親の子に対する影響力は大きいので、親世代のキャリア観のアップデートこそが、間接的にでも若年層のキャリアを支援することにもつながるとわたしは確信しています。
ビリーの家族やルビーの家族のように、子の将来を思い、可能性を信じ、未知の世界に送り出すことができるだろうか。
そして、親も子も誰もが皆、互いに誰かの「犠牲」になるような生き方をしないですむ世界。
誰もが皆それぞれ自分の人生をよく生きることができる世界、それこそがウェルビーイングの実現なのだと、二つの映画を観て強く思いました。
最後に……
実は、もう一年以上前から「リトル・ダンサー」を題材にnoteの記事を書いていました。
なかなか書き終わらず寝かせているうちに、ふと、今書いている(寝かせている)テーマとは別に、「コーダ あいのうた」とのコラボで書いてみようかと思い立ち、第二の記事を書いたのが今回のものです。それも書き終わるまでにかなり時間がかかってしまいましたが(汗)
第一の記事の方も、そろそろ書き終えたいな……(滝汗)
今回の記事もとても長いものとなってしまいましたが、最後まで読んでくださり、本当に本当にありがとうございました!