もう一人の【レペゼン母】……そしてレペゼン全人類!
ドラマ・映画好きなキャリアコンサルタント xyzです。
先日「レペゼン母」について記事を書きました。
小説には主人公の深見明子と雄大親子の他に、もう一組の親子が登場していました。明子の友人、上田円(うえだまどか)とその息子、正太郎です。
この円という人は明子とは全然性格が違うし、「母親」としても明子とは全く違うタイプ。だけど、彼女もまた母をレペゼンしてるんだよなぁ……母もいろいろ。母親の数だけ母親像もある!
ということで、今回は「もう一人の【レペゼン母】」と題して、この円と正太郎親子に焦点を当てたいと思います。
「ちゃんと」の呪縛
主人公明子がハキハキとした姉御肌オカンだとすると、円は柔和で穏やかなお母さん。
夫と死別してシングルマザーとして一人息子を育てた明子と、一人息子の大学進学と同時に離婚して息子の世話にかかりきりだった円。
一人息子への対応もふたりは全然違いました。
明子は「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」派だとすると、円は「乳母日傘」派でしょうか。
愛情表現や息子との向き合い方に違いがあっても、どちらの母も子を大切に思い大事に育ててきたことでしょう。よかれと思ってしていることにはかわりないわけで……。
子も母も状況もそれぞれに違うのだから、どちらの母の対応が良かったかなんて誰にもジャッジできないですよね。母それぞれに自分のスタイルがあるのだから。
そして、どんな親だって「ちゃんと子を育てたい」と思っていることには変わりないはず。
……ん?「ちゃんと」って、何でしょうね?誰に対しての、何のための「ちゃんと」なんでしょうね?
1 少しも乱れがなく、よく整っているさま。
2 確実で間違いのないさま。
しっかりした子、お手本になるような立ち居振る舞い、立派な学歴、職歴……。
「ちゃんと」と言う時、多少なりとも常識という名の世間様の目や他人の評価や価値基準の尺度が入っているような……。そう、他人軸がしゃしゃり出てくるのですよね。
我が子を、つい他の子と比べて一喜一憂してしまう。
良い母親だと思われたい。
成功した子供を持つ親になりたい。
世間にどう思われるか気になる。
よかれと思って、というのも、「よかれ=善くあれ(かし)」って、あら命令形。
よい、って何のための、誰にとっての「よい」なんでしょうね?この「よかれ」も、子が望まない限り親から子への(善意の)押しつけになってしまうの?
よくわからない「ちゃんと」や「よかれ」「世間」「固定観念」の呪縛に囚われて、ますますしんどくなる子育て……。
オカンもつらいが息子もつらい
ずっと優等生でやってきて、大学に進学し希望していた大手上場企業に就職した正太郎。円の自慢の息子でした。8年前、25歳の正太郎が会社を辞めて実家に帰ってくるまでは。
充電期間。大人の夏休み。
言葉を変えて言い訳しても、実態は引きこもって家から出ない生活をしている正太郎。そんな正太郎の存在をひた隠しにして話したがらない母の円に対しても、周りの人達は気にしつつも腫れ物に触るように接していました。隠すことで円はますます自分も正太郎も追い込んでいるような気がしますが、円は誰にも相談することができず、きっとひとり苦しんでいたのでしょうね。
円に相談できる人が傍にいたら。
悩みがすぐに解決しなくても、解決の糸口が見つかったかもしれません。気持ちが少しでも楽になったかもしれません。悩んでいるのはわたし一人ではないと安心できたかもしれません。誰かに相談をすることや助けを求めることも、生きていく上では必要なスキルだと思います。……とは言え、田舎の村のこと、狭いコミュニティーの中では実際のところ相談もままならないかもしれませんね。
余談ですが、キャリアコンサルタントであるわたしが目指しているのは「相談できない人、相談することがリスクだと思っているような人にこそ、安心して相談できる場をつくる」ことです。明子のように感情を発散できるタイプではなく、内向的で責任感の強さから全部一人で抱えてしまうような円だからこそ、安心して思いを話すことができる相手が(キャリコンではなくても)いたり、思いを打ち明けられる場があったらよかったのになぁと思いました。
円のセリフで印象的なものがありました。
どんな人にも、その人を産み育てた人(産むと育てるは必ずしも同じ人によらなくてもいいけれど)が存在して。
子育てって結果がすべてなんでしょうか。子が立派になれば、育てた親が賞賛され、子が道を外れれば、育てた親はその責任を問われるのでしょうか。
親も子育てに迷い悩みますが、子もまた迷い悩むのですよね。
「自分が何をしたいのか」「どう生きたいのか」わからなくなってしまうこと、あります。(もちろん、親だって、自分の人生に迷い、悩みますよね。)にんげんだもの。
心優しいからこそ親の期待や親の思いをひしひしと感じて、期待通りに生きて辛くなってしまう子もいれば、期待に応えられない自分に苦しむ子もいる。
親の言うなりに生きてきたけれど、これでよかったのか、これからもこのままでいいのか。
親に反発してばかりだったけれど、自分は一体何がしたかったのか、これから何がしたいのか。などなど。
正太郎と雄大。
おとなしい元優等生と、やんちゃなアウトロー。母親に従順な息子と、母親に反抗的な息子。母の元に戻りひきこもりを続ける息子と、母の元を離れ自堕落な生活を続ける息子。
一見全然違うふたりに見えるかもしれませんが、わたしには正太郎と雄大は同じように見えました。ふたりとも、人生を模索しながら進もうとして袋小路に迷い込んで、そこからどうにかして抜け出そうともがいている……。そんな、苦しそうな、悩み深いふたりの子供に見えました。
円だけではなく、正太郎にも(もちろん明子にも、雄大にも!)悩みを打ち明けられる相手や場があればよかったなぁ……と心から思います。
正解もない間違いもない
小説の中で終盤、正太郎のある行動がきっかけとなり(ネタバレ回避)円と正太郎親子は無理心中を図ろうとして救助されます(とここで盛大なネタバレ←)。
この話を明子から聞いた雄大は「死ぬ時までおかんがついてこようとするなんて」正太郎が可哀想だと言います。明子は、そこまで追い詰められていた円が不憫だと思っていたので、雄大との間に改めて大きな隔たりを感じるのです。
わたしは勝手に「円が(死ぬ気のない)正太郎を道連れにして死のうとした」と読んでいた(つまり明子よりの見方をしていた)ので、雄大の発言にハッとしました。
子にとっては母の存在が重荷でしかない(時がある)。
迷惑なオカンだな。いい加減にせいや。雄大からそう言い捨てられた気がして、明子の心情に重ねて読んでいたわたしまでこのくだりでは胸が苦しくなりました。こんなにも母が疎まれるなんて、大切に育ててきた我が子にこんな言葉の矢を放たれるなんて悲しすぎやしませんか。(矢が刺さって心から血がびゅーびゅー吹き出しそうです涙)
子育ての果てに断崖絶壁に立たされてしまった二組の親子。明子は、追い詰められていた円のことを思い、こう語ります。
明子の心の叫びは、世の母親の心の叫びでもあります。レペゼン母の叫び!
何のために、なんて考えたら辛くなります。
途方もなく広大な迷路……迷いながら手探りで子育てをしている人なら、この喩えに大きく頷いてしまいますよね。子育てに限定しなくても、人生を迷いながら手探りで進んでいる全ての人にとって、この文章は身につまされるのではないでしょうか。レペゼン全人類!
子育てに正解も間違いもなければ、成功も失敗もありません。自分育てにも、人生にも。そんな二択の決めつけは無意味なくらい、子育ての時間は短く、そして人生は長いのです。
闇であり、光であり
人生は試行錯誤の連続。
前途洋々、順風満帆に思えても、思わぬ障壁が現れたり、波瀾万丈、浮き沈みがあったり、転覆したり、流されたり、助けられたり助けたり。一寸先は闇であったり、光であったりします。だから悲観し続けるのも楽観し続けるのも違うような。闇も光も感じながら道を進んでいくのですよね。
先の見えない人生然り、子育て然り、どんなときも、自分の足でしっかり歩いていけるようになること、これが大事なことかもしれません。
自分軸の子育て。自分軸の人生。親も、子も、それぞれが自分自身の人生(ライフキャリア)を謳歌する。他人の人生を勝手にジャッジしない。悩んだらひとりだけで抱え込まない。
……どれもこれも、その通り、そうした方がいい、とはわかっているんです、誰しも。でも自分ごとになるとなかなかそうできない。わたしもそうです。言うは易し行うは難し。
まずは「ちゃんと」と「よかれ」の呪縛から解放されることから始めてみましょうか。見える景色が少しだけ変わるかもしれません。
最後に、岡本太郎さんの遺した言葉で、この記事を締めくくりたいと思います。
迷いや悩みすら、生きる原動力にする。無限の迷路のように思える人生も、こんなふうにポジティブに捉えたら、迷路を進む活力が湧いてくる……かな?
最後まで読んでくださってありがとうございました^^