「計算機と自然 計算機の自然」
『人の手が加わらず、あるがままの状態を「自然」と言います。もしロボットが人の手を離れ自立的に、そして環境に合わせて協調的に活動をし始めたら、それは人口でしょうか?自然でしょうか?』
こんな問いかけから、僕の中での展示会は始まった。
もっとも自分の心に刺さって、かつ、深く考えさせられた一言であった。果たしてそれを自然と呼ぶのか、それは人工物なのだろうか。
「計算機と自然」
デジタルと融和した自然、浮遊した自然、デジタルが自然と共存して自立する自然。
今の状態が永続的な自然ではない。時代は代わり、イノベーションを起こすことで、今までの定義が再定義される。
つまり近代を脱却する、新たな自然の提唱なんだろう、落合陽一からそういうメッセージを受け取ったような気がした。
そう、先日僕が敬愛してやまない、落合陽一氏の展覧会を見に行くために、日本科学未来館に足を運んできた。
正直僕は、こういったものからは、もっとも疎い人間だった。数学や物理は心底嫌いで、生物学や地理なんかは全然得意でないど文系な人間なのだ。
そんな僕が、こういった領域に興味を持ち出したのは、落合陽一というメディアアーティストに出会えたことが大きかった。
本もひたすら読んだし、youtubeも穴があくほど見たし、彼が出演しているメディア「weekly ochiai」は毎週欠かさずリアルタイムで見ているぐらい、どっぷりと浸かっている。(落合陽一録の第2回)
しかし、展示会は一度も見たことがなかったので、見に行くことにした。
「計算機と自然 計算機の自然」そう大々的に書かれている、崩された荘厳的な字の看板と入り口から、その世界へと突入していった。
科学は僕には未知の世界だった。何にも前提知識がなければ、教養もあるわけでもない。
ただそんな自分が、この個展を回って一つ感じたことは、今の科学が自然と融合するデジタルネイチャー的社会は僕は好きなんだろうということだ。
「計算機の自然」
計算機が自然と融合することもあれば、計算機が自然を作り出すこともありうる。
私たちは今の自然が当たり前だと、そう思っているけれど。
その自然が、全て計算機が作り出したものであっても、計算機と融合したものであっても、生の自然であってもいいのではないか。
つまり、その自然が見分けがつかなくてもよくて、各々が自然と感じたものが自然なのだろう。
23歳になって、久しぶりにわくわくしたし、ゆっくり考える時間が取れたし、何よりここまで技術が進歩し、表現力の豊かさ、解像度の高さに感動した。
他にもいろんなところを回って、3時間ぐらいはいたのだろうか、いい一日だった。
あとはご自身の目と体で、体験してみてほしい。
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