[読書記録]読んでいない本について堂々と語る方法
教養ある人間ならば読書をしなければいけない、読書をするなら読み切らなければいけない、知らない本については語ることはできない。
言われてみれば当たり前に思っていた暗黙のルールを、そんなものは本当はない、読書と読書について語ることはもっと自由なのだと語っている本だった。
まずもって著者は本を完全に読んだという状態について語らない。その代わりに本書で引用される本に対して、どの程度読んだかを一つ一つ脚注を付けて記している。全く読んだことがない、流し読みしたことがある、人から聞いたことがある、読んだが忘れてしまった、という風に。
著者はこの時点で「読んだ」と「読んでいない」の境界を取っ払っている。どの項目も普通は「読んでいない」と言うのではないだろうか。
しかし著者はあくまで"どの程度読んだか"という指標として脚注を示す。本を読むという行為を根本から見つめ直しているのだ。
著者が考える読書というのは、本と本が関わる情報に読者が触れることで成立する。しかしこの読書ではその本を全て読む必要はない。断片的に触れた情報から想像したイメージでさえも読書であり、このことから読んでいない本についても語ることが出来るとしている。
同じように、流し読みしただけの本や忘れてしまって断片的にしか覚えていない本も、想像で補強したり関連する情報から忘れた部分を補ったりしながらその本について語ることが出来るのだと。
表紙を見るだけでも読書だという自由な感覚は、以前読んだこの記事を思い出させた。
いずれにしても、このように「読んだ」と「読んでいない」の境界を曖昧にすることは、より読書体験を自由にしてくれるように感じた心強い一冊だった。
これから読むであろう本たちが楽しみになる。
ただ一点注意してほしいのは、この本はフランスの哲学的な潮流の中で書かれたように思われるもので、実際に読むときには本気で流し読みすることをおすすめする。
脱-読書などという言葉がなんの注釈もなしに出てくるのに加え、テクストに描かれていることをテクストの表現で表すというデリダみたいなことを平気でしてくるので哲学に触れたことのない読者がまともに読もうとすると挫折することになる。
なのでこの本に敬意を表して、流し読みをするのが礼儀というものであることを覚えておいて欲しい。
分からない部分はなんとなくの想像で補ってかまわないのだ。
本書の訳者あとがきを読んでもらえると詳しく書かれているが、著者自身これを実践していて、本書で引用される本について著者自身も正確ではない紹介をしている。
それでも見事に自論を展開しているし、なんの支障もないことを自ら示しているのだから。