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「小説8050」読了 引きこもりについて考える

8050問題。
ニュースやテレビでここ数年よく聞くようになった単語だ。

長年引きこもる子供とそれを支える親などの論点から2010年代以降の日本に発生している高年齢者の引きこもりに関する社会問題である。背景には在宅介護問題がある事が多い。高齢者と中年の引きこもりは親子依存もしくは扶養義務による事も多い。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/8050問題

若い頃から引きこもっていた子供が50代になった時、その親は80代。介護やら年金やら相続……。いろんな問題を乗り越えていかねばならない時、50代の子どもにはほとんど社会経験がない。
親は、50代の子どもを残して後悔なくこの世を去れるのか?

そんな社会問題に焦点を当てて書かれた小説、林真理子さんの「小説8050」。
本屋さんで見かけてタイトルにつられて買ってみた。でも、何となく読み出すのに根気がいるような気がして、積読してあった。それをこの度、読んでみた。

とてもおもしろかった。興味深かった。そして、恐怖した。

引きこもりは遠いどこかの話ではなく、身近にある些細なことから始まる恐怖だと感じた。ページをめくる手が止まらなく、わりとボリュームのある本だったが平日夜の2日間で読み切ってしまった。
それでも読了後の熱が冷めやらず、じゃあnoteに書いて感じたことをまとめてみようと思った。
ちょっと重い話題かもしれないが、興味や関心のある方の目に止まればいいと思っている。



私がピックアップする登場人物は3人。

▼大澤翔太 … 引きこもり当事者。7年間引きこもっている。20歳。
▼大澤正樹 … 父親。翔太をどうにかしようと奔走する。
▼大澤節子 … 母親。教育熱心だが翔太を甘やかしている。

翔太を医者にさせようと、両親が勉強を徹底させ私立中学に入学させるところから引きこもりのきっかけが始まる。教育虐待というらしいが、子どもに親の理想とする進路、学歴を与えようとキャパ以上の責務を負わせようとし、それが「子どもの負担になっている」という自覚がない節子。そして正樹。
翔太は親の期待に応えようと、必死に勉強をするために学校に通うが―――。

小説の中だから誇張して書かれている、とかではなくかなりリアリティのある描写がある。あの手この手で翔太を部屋から出そうと時間や金をかける両親に、引きこもりの翔太は全力で抵抗する。
その抵抗の手段が「暴力」となった時、正樹はついに口に出して、
「父さんと死のう。」
と言う。このひと言には複雑な感情をのせたため息が出た。この息子を置いてこの世を去れない、何とかしなければ、と父親の決意が伝わってきた。

小説内では、引きこもり当事者たちが引き起こした事件としていくつか実例があがっている。
さすがに具体的な名前は伏せてあるが、大きなニュースになった事件だから読者はすぐにピンとくる。(その実例をここにあげようと思ったが、やっぱりやめた。気になったら調べてみてほしい。)
私はその事件についても読了後に調べてみた。私や周りの人間がもし当事者だったらと思うと……やりきれない思いだ。何が正解だったかなんて誰にも分からない。



さて、小説の中で翔太の引きこもりの原因として語られていたきっかけは「いじめ」。
子どもの頃の遊びの延長だったのではないか、どこからがいじめなのかのボーダーラインだとか、細かい話は深堀りしたらいくらでも出てくる。
しかし、大人になった私の主観的だが、

大人になっても集団の中でのいじめ、ないしはそれに近しい行為はなくならない。

ということ。
これは、社会に身を置いて生活している限り、誰にでも今から引きこもりになる可能性があるということだ。
もちろん、私にも等しく可能性がある。
小説の中の翔太、そして大澤家は未来のあなた、もしくは近しい誰かになってしまうかもしれない。

2023年の推計として、日本国内の引きこもり総数は146万人とされている。総人口の1%以上、100人に1人は引きこもりというデータ。
自分の周りを思い返してみた。今のところ引きこもりの知り合いはいない。けれど、それは当たり前だ。引きこもっているのだから、周囲と繋がりがあるわけがない。
記憶の中にうっすらとある話したこともなかった同級生たちの中に、もしかしたら当事者がいるのだろうか。
「周りに引きこもりいないなぁ。」で、誰からも思い返してもらえない、数にカウントされない人がいる。きっと、身近に。



小説の中で翔太の姉、由依が節子に言った言葉が印象に残っている。

「家族ってそんなに有難がるものじゃないんじゃないの?」

グサッときた。
家族だから、というだけで自分を犠牲にして援助しなければならない理由はないんだ。むしろ離れてみて初めて「ああ、ありがたかったんだなあ。」なんて思うこともある。
距離が近すぎると当たり前になりすぎて気づけない。無理に助け合うことなんてないんだよ。

引きこもりとは違うけれど、私も中学3年生の時に1年間、登校拒否をしていたことがある。(いじめではなく、母への抗議だったが。)
私もそうだったが、引きこもりになった人に、「今日から引きこもるぞー!」と初日を思い出せる人はいるんだろうか。きっと、いない。いつの間にか自分の殻に閉じこもるうちに部屋にも閉じこもり続けることになっているのだと思う。
それは、中学生の時の私にも言えたのではないか?

あの時の私が引きこもり当事者になる可能性だって充分にあったはずだ。15年も前の自分を振り返って、怖くなった。小説の中の翔太は、今の私だったかもしれない。



「小説8050」
これから読む人へネタバレ防止のため結末には触れないが、少しずつ再生ヘと向かう引きこもり当事者家族の話だ。
いじめ加害者、被害者、傍観者……
様々な人の気持ちに触れながら、家族一人ひとりができることを探していくストーリー。

今の私は加害者にも被害者にもなりたくない。
会社、社会、家族……いろんな集団に身を置く以上は人間関係の摩擦に疲れる時もある。でもせめて、傍観者になりそうな自分がいるとき、この小説を思い出そうと思った。
傍観者が1人でも声を上げてくれれば、きっと賛同してくれる人が近くにいる。「いじめはダメだ」なんてみんな耳にタコができるほど聞いているはずなんだ。

小説の中の引きこもり当事者、翔太は少しずつ歩み出した。引きこもりから脱しようと前向きになった。しかし、社会復帰してからだっていじめという存在は人間界から消えない。
しかし、引きこもりから復帰した後の翔太は、自分との向き合い方を知っているはずだ。

偉そうなことを言える立場でもないし崇高な人間でもない私だが、辛いことから少しづつでも前を向いている人間は、立ち上がり方を知っている。
引きこもりから立ち直って、殻を破って社会に出てこようとしている人は、その時点で周りの人にはない強さを持っているはずだ。
社会に出て辛いことがあっても、他の人にはない自分だけのその経験をバネにしてきっとまた立ち直れる。人生ってそんな連続だと思う。

今はこんなに前向きに捉えられるけれど、私の心だって強くはない。いつかきっと破綻する。その時に今と同じ考え方はきっとできない。けれどその時は自分が書いたこのnoteを読み返そうと思う。

長くなってしまったけれど、「小説8050」を読みながら秋の夜長に考えた2日間だった。

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