犯した過ちは過去と同じ基準で裁く、という責任
人間関係では、本当にたくさんの失敗をしてきた。
こじらせていたし、ここまでの道のりにいろいろあったから、周りが寛容なのに甘えて、人としてどうかということをたくさん言ってきた。
その一方で、相手の困ったちゃんに辟易することもあった。
そのとき、やはり未熟な私だから、感情的に反応してしまうことはもちろんあるけれど、
過去と今、同じ基準でそれぞれの過ちを捌くのだと肝に銘じる。
例えば。
前に誰かに自分が、ひどいことを言ってしまったとする。
そして、許してもらい、守ってもらったとする。
そうしたら、なるべくどんなことがあっても、そのあと誰かに逆に、ひどいことを言われたとしても、許し、守るようにする、少なくとも仕返ししたり、不幸を願ったりしない、
そう、在れたらいいなと思っている。
過去自分が裁かれた基準と、なるべく同じ基準で、相手を裁く。
基本的にそれは、感情的になりすぎることさえなければ、可能なことではあると思う。
ただ、これが難しいパターンが一つあって、それは、
自分自身が何か調子の波にうまく乗れていたり、
日々を重ねる中で成長したり、
客観視できるようになって「自分もあの頃は未熟だった」という自覚が持てるようになったタイミング
で、誰かからの被害を受けてしまった時だ。
確かに過去自分もそうした過ちをした。でも今となっては自分はそんなことがするはずがない、道理的にも許されない。加害側をとことんやってやる!
と思ってしまいそうになる。
悪事を良しとするのではないけれど、そこで怒りに舵を切らない。
例えば、忙しく、精神的に参っている相手から、八つ当たりされたとする。私もそういうことがあったから。
その時私は、どうやら
「どうしようもなくつらいから、せめてこれぐらい感情を吐き出せないと割に合わない、何も考えずぬるく生きている人より、苦労している自分は特別だから、周りが察して優しくしてほしい」
などと考えるきらいがあったのかもしれない。
けれどその時に周りはそのことを察して配慮してくれた。謝ったら、本当は起こっているはずなのに許してくれた。
そうしたら、誰かに八つ当たりされたら、あの時の私のように、何か背景があったのかもと相手の胸の内に心を巡らす。
それがある意味の義理であり、精神的に大人になることの覚悟であり、かつて傷つけた相手へ償い続けることだと、思っている。
要は、そうすることが、責任であり、生きていくことそのものなんだよね。
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