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犯した過ちは過去と同じ基準で裁く、という責任


#最近の学び

人間関係では、本当にたくさんの失敗をしてきた。

こじらせていたし、ここまでの道のりにいろいろあったから、周りが寛容なのに甘えて、人としてどうかということをたくさん言ってきた。

その一方で、相手の困ったちゃんに辟易することもあった。


そのとき、やはり未熟な私だから、感情的に反応してしまうことはもちろんあるけれど、


過去と今、同じ基準でそれぞれの過ちを捌くのだと肝に銘じる。



例えば。

前に誰かに自分が、ひどいことを言ってしまったとする。

そして、許してもらい、守ってもらったとする。


そうしたら、なるべくどんなことがあっても、そのあと誰かに逆に、ひどいことを言われたとしても、許し、守るようにする、少なくとも仕返ししたり、不幸を願ったりしない、

そう、在れたらいいなと思っている。


過去自分が裁かれた基準と、なるべく同じ基準で、相手を裁く。


基本的にそれは、感情的になりすぎることさえなければ、可能なことではあると思う。


ただ、これが難しいパターンが一つあって、それは、

自分自身が何か調子の波にうまく乗れていたり、

日々を重ねる中で成長したり、

客観視できるようになって「自分もあの頃は未熟だった」という自覚が持てるようになったタイミング

で、誰かからの被害を受けてしまった時だ。


確かに過去自分もそうした過ちをした。でも今となっては自分はそんなことがするはずがない、道理的にも許されない。加害側をとことんやってやる!

と思ってしまいそうになる。


悪事を良しとするのではないけれど、そこで怒りに舵を切らない。

例えば、忙しく、精神的に参っている相手から、八つ当たりされたとする。私もそういうことがあったから。

その時私は、どうやら

「どうしようもなくつらいから、せめてこれぐらい感情を吐き出せないと割に合わない、何も考えずぬるく生きている人より、苦労している自分は特別だから、周りが察して優しくしてほしい」

などと考えるきらいがあったのかもしれない。

けれどその時に周りはそのことを察して配慮してくれた。謝ったら、本当は起こっているはずなのに許してくれた。


そうしたら、誰かに八つ当たりされたら、あの時の私のように、何か背景があったのかもと相手の胸の内に心を巡らす。

それがある意味の義理であり、精神的に大人になることの覚悟であり、かつて傷つけた相手へ償い続けることだと、思っている。


要は、そうすることが、責任であり、生きていくことそのものなんだよね。

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