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【わかってきたぞ】属性に関する備忘録01【悟り・気づき】

おれだ。このコーナーも随分久しぶりだな。ジャンクヤードでやろうかと思ったが、たまにはここを動かしてやろうと思ってここにした。どっちかというと人名表とか度量衡比較に近い話だが気にするな。遥か昔、属性について記事を設けたいと書いたことをふと思い出した。なのでする。属性と言っても地水火風とか萌え属性だとかではない。善と悪、秩序と混沌、そういったアラインメントの話だ。おれは専門家ではないのでだらだらやる。

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▼善と悪(Good and Evil)

"蛇は女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」"ーー創世記3:4-5

聖書の創世記を紐解けば、エデンの園の神話が出て来る。人間は蛇にそそのかされ、「善悪を知る木の実」を食べてしまった。それを食べれば目が開け(啓蒙され)、神のように善悪を知る(自分で判断できる)ようになるのだが、神はそれを食べぬよう禁じておいた(が、手の届くところに置いておいた。試すためだ)。そしてその後は、知ってのとおりだ。人間は「おれがこれは善だと判断したんだ!」と言うようになり、楽園を失ってメキシコの荒野へ追放され、死のさだめを背負うことになった。なんで追放されたかというと神が定めた禁止事項を破ったからで、これは悪だ。人間は自分で判断して自由意志で行い、それが罪悪だと後から気づいてしまったのだ。神は定義上絶対的に善で正義なので、やつに逆らうのは悪とされる。おれたちが「そんな神は悪だぜ!」とかゆっても神は動じない。神だからだ。

おれは宣教師ではないので、何が善で何が悪だとか決めつけたくはない。業子力学的にはどうだか知らん。だが真の男の漫画である『ジョジョの奇妙な冒険』では、こう言われている。「悪とは、自分自身のためだけに、弱者を利用し踏みつけるやつのことだ」と。たとえそれが何か崇高な目的のためでもだ。こういう悪はそこらじゅうにおり、いちいちアクメツしていれば社会そのものが悪と定義されて大変なので、テロらない方がいいとおれは思う。悪人を全てスレイしなくとも、徐々にカイゼンしていけば済むことだ。

細かいことや現実世界の倫理道徳はともあれ、ゲーム海ではどうだろうか。D&Dでは端的に、善(Good)は利他的、悪(Evil)は利己的だとする。他者の尊厳に敬意を払い、他人を助けるのは善だ。逆に自己中心的で他者を助けず、虐待・殺害することに躊躇いを持たないのは悪とされる。近代アメリカ的価値観だが、そりゃまあそうだ。まあ天使だって敵を無慈悲に皆殺しにしたりするし、ニンジャスレイヤーはエゴによって邪悪なニンジャを皆殺しにしてるが、それはそれだ。社会的には善をロールプレイする方が得だ。少なくともそう見せかけておいた方が得するし、悪とみなされると囲んで棒で叩かれて不利益だとマキアヴェッリも言っている。悪人も善人の真似をすれば善人なのだ。それによって助かるやつもいるからだ。

では、人間を無差別に殺す戦闘ロボットや、本能で他者を殺して食らう動物は悪なのか? この場合、D&D的には「自己判断力がないやつは善でも悪でもなく中立だ」としている。倫理道徳的な判断を行う程の知性がない、善悪を知る木の実を食べる前のあほな連中、じゅすへるとかは悪ではないというのだ。ただゾンビーとかは知性がないが、作成方法が悪だから存在そのものが悪だともいう。カタツキ海には「狂」という属性もある。あの海では「自分が悪だと思えば悪」となっているらしい。おれは詳しくない。

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▼光と闇(Light and Dark)

"はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。"ーー創世記1:1-5

こういう「GOOD-EVIL」の二元論だといろいろ議論があってあれなので、真・女神転生以後のメガテン海では「LIGHT-DARK」となり、LAW-CHAOSの軸もD&Dから導入された。善属性の者が敵対者を殺すのは悪ではないのかと言われたら困るしな。これによって多少そのへんはマイルドになったが、その後のメガテンではこの軸もなくなってシジマやムスビになったり、いろいろ変遷を経て元に戻って来ている。深く考えすぎるとよくない。

メガテン的には以下のように定義される。これはおれが昔どこかのメガテン考察サイトだかで拾ったものに、メガテンの攻略本とかのあれを混ぜ込んでなんとなく考えてみたものだ。おれのオリジナルというわけでは別にない。陽キャと陰キャと考えればわかりやすいが、それだけでは割り切れない部分も多々あり、一概には言えない。

光(LIGHT)は、いわゆる「善」であり、内面的な強さの具現である。寛容、救済、恩恵、加護、愛、喜び、献身、理解、情熱、勤勉、神聖など、ポジティブ(陽)な精神を表す。他の生命の存在を認めて敬意を払い、いたわりと慈しみをもって彼らに安らぎを与え、その成長と繁栄を守る。信仰や芸術、愛、創造などによって生じる喜び、前向きなエネルギーを良しとし、自分を犠牲にしてまで人々を救済し、教え導くことを好む。また決断力と行動力を備え、物事を正面からとらえ理解する強い意志の力を持っている。他者が自分のようにポジティブとなることは彼らの喜びである。しかし怠惰や堕落を嫌い、さらなる進歩と発展を望むため割と暑苦しく、周囲に苛酷な試練をもたらすことも多々ある。悪に対しては容赦しない。
闇(DARK)は、いわゆる「悪」だが、それは内面的な弱さの現れである。憎悪、呪い、破滅、堕落、怠惰、盲目、無知、喪失感、劣等感、利己心、醜穢などネガティブ(陰)な精神を表す。多くは虚無的・破滅的な性格で、自分の殻の中に閉じこもり、醜く弱い本当の自分の姿を認めて傷つくことを恐れている。視点が内面に向かっているため、自分以外の者が傷つくことには鈍感で、他者への理解や慈悲、生命の尊厳に対する敬意、良心を持たない。ゆえに他者を奴隷のように支配するか、逆に自分が奴隷となって虐待され服従するような、歪んだ形でしか関係が築けない。彼らにとって、他者を傷つけ・苦しめ・殺すことはむしろ喜びであり、他者がネガティブな感情に捕らわれることは楽しみである。特に自分に無いもの(生命、美、幸福、善意)を持つ他者を嫌い、それを奪って自分と同じ境遇にし、自分と同じ存在を増やそうとする。意志を持たぬゾンビや殺戮機械もDARKである。

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▼陰と陽(Yin and Yang)

"古天地未剖,陰陽不分,渾沌如鷄子,溟涬而含牙。及其清陽者薄靡而爲天,重濁者淹滯而爲地,精妙之合搏易,重濁之凝竭難。故天先成而地後定。然後神聖生其中焉。"ーー日本書紀巻第一神代上

東洋には陰陽思想がある。陽が善で陰が悪というわけではない。天地日月、火水男女、どちらも必要な要素であり、変化して極まりがない。両者のバランスが崩れることの方が問題で、これは宇宙の法則(道)だ。

央華封神では陰陽思想をアレンジして善と悪に割り振っており、実際の陰陽思想とは異なるが参考にはなる。善を行えば清徳を積んだことになり、悪を行えば濁業となるが、どちらもカルマのパワであり、極めれば不老不死の仙人になれる。PCは基本的に清徳側なので、濁業を積みすぎると邪仙化してロストしてしまうが、ニンジャスレイヤーTRPGではPCが邪悪なニンジャなので、DKK(ダークカラテカルマ)を稼げばカルマロンダリングしてパワとすることが出来る。ニンジャは仙人と似ているし、キンカクは封神台のようなものだとおれは理解しているので、納得はいく。

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▼中立(Neutral)

善と悪、光と闇のどちらともつかない属性を「中立(NEUTRAL)」という。カタツキ海では秩序と混沌の中間にあるのを中立とし、善悪の中間にあるのを中庸と呼ぶが、メガテンでは一緒くたに中立だ。NEUTRALはneither、どちらでもない(not-either)と同語源だ。NORMALと呼ぶこともあるが、こちらは語源的には秩序(gnomon,norma)と同じで「標準」「普通」をいい、それから外れたらab-normal(異常)となるのでNEUTRALでいいと思う。

中庸は本来儒教の言葉だ。仏教では中道といい、アリストテレスはMesotesという。両極端に寄らず偏りみないことをいうが、善悪のどちらにも寄らないわけではなく、中庸の徳を収めることが善だとされる。どちらかというと秩序と混沌の中間に対して中庸と言う方がいいのかも知れん。おれは哲学者ではないので適当に考えろ。誰もが基本的には中立であるはずだが、いつもそうあるのは難しく、常に左右に揺れ動いている。人間タンポポだ。

◆The ink is black, the page is white◆

◆Together we'll learn to read and write◆

▼参考

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今回は以上だ。次回は秩序と混沌についてだらだらやる。

続く

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