【つの版】日本刀備忘録11:建武之乱
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
鎌倉幕府が滅んだ後、源氏重代の太刀「鬼切」と、北条氏重代の太刀「鬼丸」は、紆余曲折を経て新田義貞の手に渡った、と『太平記』は記します。しかし、義貞の命運も長くは続きませんでした。
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足利高氏
倒幕の主力となった足利氏は、新田氏と同じく源義国の子孫で、下野国足利庄(現栃木県足利市)を本拠地とする名門です。初代の義康は鳥羽院の北面武士となり、源義朝と同じく熱田神宮の大宮司の娘(頼朝の母の一族)を妻に迎えました。その子義兼は頼朝の挙兵に応じ、治承5年(1181年)には頼朝の妻・政子の妹の時子を妻に迎え、頼朝の義弟となっています。このため鎌倉幕府では、足利氏は源氏将軍と同族の「御門葉」とされました。
源氏将軍断絶後も、足利氏は北条氏(分家含む)から代々正室を迎えてその子を嫡子とし、偏諱を受けて一族同然の扱いを受けました。また足利氏の分家は各地に所領を獲得し、吉良・斯波・細川・仁木・桃井・一色・小俣・加古・石塔・畠山・今川・上野・戸崎など多くの庶流を生んでいます。
しかし高氏の母・清子は北条氏ではなく、藤原北家勧修寺流上杉氏出身の側室でした。上杉氏は氏祖・重房の時、足利頼氏に娘を側室として娶らせましたが、北条氏の正室が早世して嫡男を産まなかったため、側室の子の家時が跡を継いでいます。家時は北条氏の娘を正室として貞氏を儲け、貞氏も北条氏の娘を正室として嫡男高義を儲けましたが、彼が文保元年(1317年)に21歳で早世したため、側室の子の次男が家督を継いだのです。
元応元年(1319年)10月、彼は15歳で元服して「又太郎(再びの嫡男)」と名乗り、北条得宗家・高時の偏諱を賜って「高氏」と名乗りました。正室は得宗家に次ぐ家格の赤橋家から迎え、父・貞氏が元徳3年(1331年)に逝去すると、正式に家督を継承します。しかし同年に後醍醐天皇が笠置山で倒幕の兵を挙げたため、幕府は喪中の高氏に出陣を命じました。これは承久の乱以来、対外戦争では足利氏が大将を務めるのがならわしであったためですが、これを不満とした高氏は11月に無断で帰郷しました。
2年後の正慶2年/元弘3年(1333年)、後醍醐天皇は配流先の隠岐を脱出して伯耆に渡り、天下に倒幕を呼びかけます。高氏は再び幕府の命令を受け、名越高家とともに西国へ遠征しますが、上洛途中の三河国で腹心に幕府への謀反を打ち明け、同意を得ています。名越高家が戦死したのち、高氏は丹波で倒幕の兵を挙げ、取って返して六波羅探題を滅ぼしました。同じ頃、坂東では新田義貞が挙兵して鎌倉幕府を滅ぼしますが、これも坂東にいた足利氏の協力あってのことで、高氏の子・千寿丸(義詮)が名代として担がれています。早くから根回ししてあったのでしょう。後醍醐天皇は高氏に偏諱を授けて「尊氏」と改名させ、功績第一として官位や恩賞を与えます。
建武之乱
しかし、前述のように各地では北条氏の残党による反乱が頻発し、建武2年(1335年)には北条高時の子・時行が鎌倉を奪還します。尊氏はこれを討つため京都から出陣し、東海道を進んで20日余りで鎌倉を奪還します。彼はそのまま鎌倉にとどまって戦後処理を行いますが、朝廷から京都に戻るよう命じられても従わず、坂東に武家政権を再建する動きを見せました。やがて朝廷には直義らが鎌倉にいた護良親王を弑逆したとの情報が伝わり、怒った後醍醐天皇は尊氏らを逆賊と断定、同年11月に討伐軍を派遣しました。
新田義貞はこの頃京都にいましたが、尊氏は戦後処理のどさくさに紛れて義貞の所領や守護職を取り上げ、一門や部下に分配したため、これを恨んで朝廷側につきます。後醍醐天皇は子の尊良親王を上将軍(総大将)に任じ、その副官に義貞を抜擢して事実上の総大将に任じました。西国・東国から集まった軍勢は呼号10万余、東海道・東山道から鎌倉を目指します。同時に陸奥将軍府の義良親王・北畠親房・顕家も南下を開始しました。
逆賊・朝敵とされた足利側は官軍の勢いに押され、尊氏の弟・直義らは三河国矢作川、遠江国手越河原で連敗を喫し、箱根にまで迫られます。尊氏は怯えて自害か出家すると騒ぎますが、覚悟を決めて迎え撃ち、内部工作を行って敵軍の一部を寝返らせました。大軍ながら烏合の衆であった官軍はこれによって総崩れとなり、足利側は勢いに乗って追撃します。
建武3年(1336年)正月、尊氏らは京都に入りますが、まもなく奥州から鎌倉を経て北畠顕家らが駆けつけ、新田義貞・楠木正成と合流します。彼らの必死の反撃を受けた尊氏は京都を追われ、摂津・播磨を経て九州へ落ち延びます。顕家は功績により右衛門督・検非違使別当・鎮守府大将軍・権中納言に任じられますが、3月には東国の足利勢を掃討するため奥州へ帰還を開始しました。この隙に、尊氏は九州で勢力を立て直します。
重代骨食
建武3年改め延元元年3月、肥前国守護の少弐頼尚、宗像大社大宮司の宗像氏範に迎えられて九州に上陸した尊氏は、筑前国多々良浜で朝廷側(宮方)の大軍に囲まれます。これは肥後の菊池氏・阿蘇氏、筑前の秋月氏、筑後の蒲池氏・星野氏など九州の豪族の大半からなり、少弐氏の本拠地・大宰府を襲撃して陥落させていました。圧倒的な兵力差にまたも絶体絶命の危機となった尊氏でしたが、幸い敵側にも日和見勢が多く、多数が宮方を裏切って尊氏に味方し、宮方の軍勢は総崩れとなってしまいました。
南北朝時代に成立した軍記物語『梅松論』によると、この時尊氏は「御重代の骨食(古写本では『大ハミ』とも)」という剣を帯びていました。また室町時代後期に書かれた記録では、長享元年(1487年)に足利義尚が近江国坂本へ出陣した際、小者に「御長刀ほねかみと申す御重代をかつがせ」ていました。さらに江戸前期の『大友興廃記』によると、多々良浜の戦いに際して尊氏は豊後国大友氏に「重代の宝刀である吉光骨啄刀」を贈り、加勢させたといいます。のちこの刀は足利氏に返還されましたが、永禄の変で足利義輝が殺された際松永久秀の手に渡り、大友宗麟が「もとは我が家のものだ」と主張して買い戻したといいます。のち天正13年(1585年)に秀吉がこれを召し上げた時には大脇差に磨上げられており、大坂落城後に徳川家に回収され伝来することになった、と伝えられます。
梅松論は尊氏没後すぐに書かれていますから比較的信頼できますが、尊氏から大友氏に贈られたというのは怪しく、尊氏以来義輝までは足利氏の重代宝剣として伝来していたのでしょう。吉光とは鎌倉時代中期の粟田口吉光のことで、尊氏やその先祖が持っていたとしても不思議はありませんが、現在に伝わるものは明暦の大火で焼身になったものを焼き直したものです。本物かどうかはともかく、足利氏の重代宝刀ならば政権の箔付けには充分です。
湊川合戦
九州の諸豪族をまとめ上げて勢力を回復した尊氏は、4月に博多を出発して京都へ向かいます。5月には道中で後醍醐天皇と対立する持明院統の光厳上皇の使者から院宣を拝受し、西国の武士を急速に傘下におさめ、弟の直義を播磨へ派遣します。赤松円心を白旗城で包囲していた新田義貞はこれを聞いて摂津へ撤退し、楠木正成は「義貞を処分して尊氏を赦免し和睦するように」と密かに上奏しますが受け入れられませんでした。次いで正成は「天子を比叡山へ退避させ尊氏を京都に引き入れ、自分と義貞が挟み撃ちにする」という策を上奏しますが、これもメンツに関わるとして却下されます。
やむなく正成と義貞は、摂津兵庫の湊川(現兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で勢いに乗った足利軍を迎撃することになります。義貞は多数の兵を率いて海路の尊氏に、正成は手勢700余騎を率いて陸路の直義に対峙しましたが、足利側の別働隊が船を東進させて生田に上陸します。義貞の本隊は退路を断たれるのを恐れて東へ向かってしまい、敵中に孤立した正成たちは敵軍を食い止めるべく奮戦するも玉砕しました。
義貞率いる主力は取って返して尊氏・直義の連合軍と衝突し、双方に多数の死傷者が出ます。しかし兵力差に押されて宮方の不利となり、義貞はしんがりを努めて味方を京都へ逃がすべく奮戦します。『太平記』によれば、この時義貞は馬を射られて徒歩となり、左右の手に「鬼切」と「鬼丸」の太刀を持って鬼神の如くに戦い、降り注ぐ矢を16本も切り落としました。やがて義貞の家来・小山田高家が駆けつけ、自分の馬を与えて逃がし、自らは身代わりとなって討ち死にしたといいます。
南北朝乱
義貞は敗軍を率いて京都へ逃げ戻り、後醍醐天皇は三種の神器と光厳上皇を伴って比叡山へ逃げますが、上皇は偽って京都に戻り、尊氏は彼を奉じて6月に京都・東寺に入りました。義貞は近江国東坂本に陣を構え京都奪還を狙い、2ヶ月ほど抵抗しますが大勢は覆せず、頼みの綱の北畠顕家も足利勢の抵抗で奥州から動けず、後醍醐天皇はやむなく和議を受諾します。
しかし尊氏との講和交渉は義貞には知らされておらず、怒った義貞は軍勢を率いて天皇を取り囲みます。天皇は「和議は計略である」と弁明しますが義貞はおさまらず、「恒良親王・尊良親王を推戴して北国へ下向させて頂きたい」と申し出ます。天皇は承諾し、義貞らは僅かな手勢を率いて10月に比叡山を離れ、雪の中を敦賀へ向かいました。彼らは氣比神宮の裏手の金ヶ崎城に籠もって足利軍と戦い続け、北から京都を脅かすことになります。
京都に戻った後醍醐天皇は、光厳上皇の弟・光明天皇に神器を譲渡して太上天皇となり、花山院に幽閉されました。尊氏は功績により権大納言に任じられて「鎌倉殿」を称し、鎌倉幕府の後継者となります。ところが12月に後醍醐天皇は花山院を脱出して大和国吉野へ逃れ、「譲渡した神器は偽物だ、本物はここにある」と称して、天下に再び尊氏討伐を呼びかけます。奥州の北畠顕家らはこれに呼応し、京都へ向かって進軍を開始しました。これより半世紀以上に渡る大戦乱期、「南北朝時代」の幕開けです。
◆GO DIE◆
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