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つのpedia

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#卑弥呼

【つの版】日本建国21・神話創造

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 筑紫の日向を出発して7年後、辛酉年の正月元日、神武天皇は大倭国橿原宮で即位した、と『日本書紀』には書かれています。しかし辺境の日向へ天孫降臨してから苦労して東征せずとも、ヤマトへ直接天神の子が天降ったとすればよさそうなものです。なぜこのような構成になったのでしょうか。 ◆Black◆ ◆Plot◆ 倭の起源『日本書紀』編纂にあたって、倭人や倭国について書かれたチャイナやコリアの歴史書が参考にされなかったはずはありません。しかし、

【つの版】日本古代史・参考文献

ドーモ、三宅つのです。つのが日本古代史関係の記事を書く時に参考にしている文献集です。 つのは全くのド素人で、先行研究の上澄みを掬って浅瀬でチャプチャプしているだけです。インターネット上の記事や歴史読み物的な新書・文庫本などをつのなりに読み、図書館とかで調べて考えてはいますが、つのの書いていることを鵜呑みにはせず、あなたはあなたで調べて考えて下さい。 なお、つのは「面白いからこの方がいい」的な考え方をあまりとりません。やりたくばパルプ小説やマンガ、ゲーム、アニメなどフィクシ

【つの版】邪馬台国への旅25・臺與遣使

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 いよいよ魏志倭人伝の記述も最後です。臺與が親魏倭王として承認された返礼として、彼女の名のもとに倭國から魏の天子へ朝貢が行われます。 ◆東の◆ ◆國から◆ 臺與遣使 臺與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人、送政等還。因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。 臺與は、倭の大夫で率善中郎将の(伊聲耆)掖邪狗等二十人を派遣し、張政等が(帯方郡に)帰還するのを送った。それを因縁として臺(魏の朝廷)に詣で、男

【つの版】邪馬台国への旅24・男王と臺與

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 正始7年(247年)頃、親魏倭王・卑彌呼は邪馬臺國で死にました。彼女のために巨大な墳墓が築かれ、埋葬されましたが、彼女には夫も婿もいません。当然息子も娘もいませんが、誰が跡を継いだのでしょうか。卑彌呼の死を誰も想定していないはずもなく、跡継ぎは生前に決まっていたはずです。 ◆このロリ◆ ◆コンどもめ◆ 男王卑彌呼の死後、まず男の王が立ちました。これは一体誰だったのでしょう。魏志倭人伝やその他の文献史料からはわかりませんが、一応考

【つの版】邪馬台国への旅23・大作冢

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 九州で狗奴國と奴國・伊都國などが対立し、これを鎮めるため難升米が帯方郡から詔書、黄幢、檄文を授かった頃、東の彼方の邪馬臺國では女王卑彌呼がすでに死んでいました。一つの時代が終わりを告げたのです。今回は彼女の墳墓について見ていきます。 ◆墓◆ ◆葬らん◆ 大作冢 卑彌呼以死。大作冢。徑百餘歩、殉葬者奴碑百餘人。 卑彌呼はすでに死んでいた。大いに(卑彌呼の)冢(ちょう、塚・墳墓)を作った。その径は百余歩あり、殉葬者は奴婢百余人であ

【つの版】邪馬台国への旅22・卑彌呼の死

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 倭國と狗奴國との紛争に対して、帯方郡は難升米に詔書と黄幢と檄文を授けて告諭させます。その直後、衝撃的なニュースが飛び込んできました。 親魏倭王、倭の女王、邪馬臺國の女王である卑彌呼が死んだというのです。 ◆Rock is◆ ◆Deader than Dead◆ 以死 この「以」に関して議論があります。以は「㠯、厶(い)」とも書き、農具の耜(すき)を表す文字で、「持つ、用いる」が原義です。それで和訓は「もって」と言いますが、転じ

【つの版】邪馬台国への旅21・狗奴國と張政

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 魏が高句麗や濊を討伐したり、馬韓で反乱が起きて帯方太守が戦死したり、数年間にいろいろ起きました。倭地はまあまあ平穏だったようですが、ついに事件が生じます。狗奴國が倭國連合と戦闘状態に入ったというのです。 ◆闘◆ ◆争◆ 狗奴國 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和。遣倭載斯烏越等詣郡、説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等、因齎詔書・黄幢、拜假難升米、爲檄告諭之。 倭の女王卑彌呼と、狗奴國の男王卑彌弓呼(卑弓彌呼?)はもともと不和であ

【つの版】邪馬台国への旅20・黄幢

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 正始元年(240年)に親魏倭王の金印紫綬や詔書・下賜品が倭國にもたらされてから、しばらく間を置いて、正始4年(243年)に再び倭國が魏に使者を派遣します。この間に何があり、倭國はなぜまた使者を送ったのでしょう。 ◆Raise your flag◆ ◆声の限り◆ 倭王復遣使 其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人上獻生口、倭錦、絳青縑、綿衣、帛布、丹木、𤝔(けものへんに付)、短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。 (正始)四年(

【つの版】邪馬台国への旅19・親魏倭王03

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 時々前のを見直して追記や訂正しています。では引き続き、親魏倭王卑彌呼に賜与された品物について見ていきます。まずは金印紫綬です。 ◆黒◆ ◆王◆ 金印紫綬 今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授。汝其綏撫種人、勉爲孝順。汝來使難升米・牛利、渉遠道路勤勞。今以難升米爲率善中郎將、牛利爲率善校尉、假銀印青綬。 今、あなたを「親魏倭王」とし、金印紫綬を授ける。これを箱に入れて(途中で悪さをされないよう)封印し、帯方太守に託し

【つの版】邪馬台国への旅18・親魏倭王02

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 景初2年(238年)12月、魏の明帝曹叡は重病に罹り、翌景初3年(239年)正月元日に崩御します。幼い皇帝曹芳が即位し、翌年には改元されて正始元年(240年)となります。新皇帝即位の正月なので、遥か遠くから徳を慕い、また先帝の弔問として蛮夷が朝貢にやって来ます。 『晋書』宣帝紀(司馬懿伝)にこうあります。 正始元年春正月、東倭重譯納貢。焉耆、危須諸國、弱水以南、鮮卑名王、皆遣使來獻。天子歸美宰輔、又増帝封邑。 正始元年春正月、東

【つの版】邪馬台国への旅17・親魏倭王01

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 倭奴國王が後ろ盾としていた後漢は滅び、女王卑彌呼を統合の象徴とする新生倭國のケツモチであった遼東公孫氏も魏に滅ぼされました。しかし、折よく倭の使者が公孫淵の滅亡直前に帯方郡に来ていました。倭がチャイナ本土の大国・魏と友好関係を結ぶチャンスが到来したのです。 ◆うぉーあいにー◆ ◆言えるかな◆ 難升米 景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏將送詣京都。 景初2年6月(西暦238年7月頃)、倭の女王が大

【つの版】邪馬台国への旅16・公孫淵

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 倭の女王卑彌呼が初めて魏と関係を持ったのは、景初2年6月(西暦238年)であると魏志倭人伝に書かれています。公孫康が帯方郡を置いてから30年の歳月が流れました。この間に何が起きたのか、ざっくり見ていきます。ここらへんはWikipediaとかにも書いてありますし、正史『三国志』を読めば理解りますので、知っている人や興味がない人は軽く読み飛ばしてもいいです。 なお、当時のチャイナの暦はユリウス暦・グレゴリオ暦など太陽暦(新暦)ではなく太

【つの版】邪馬台国への旅15・卑彌呼02

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 前回は卑彌呼がどのような女王か、鬼道とは何か、『日本書紀』で卑彌呼にあたるであろう女性は誰か、をざっくり推測しました。卑彌呼という名前についても考察しました。続いて彼女の住居について見て行きましょう。ただし何度も繰り返すように、帯方郡の使者は伊都國におり、卑彌呼に直接会ってはいません。伊都國での伝聞や倭國の使者の言葉を記録したものです。 ◆封◆ ◆神◆ 宮室樓觀 自爲王以來、少有見者。以婢千人自侍。唯有男子一人、給飲食、傳辭出入

【つの版】邪馬台国への旅14・卑彌呼01

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 ようやく卑彌呼について語ることができます。しかし彼女のひととなりについては魏志倭人伝からほとんど知ることができず、容貌や言葉さえ記録されていません。神秘のヴェールに包まれた彼女の妖術に惑わされることなく、現実に3世紀の倭國を治めた政治的存在として読み解いて行きましょう。 ◆鬼◆ ◆道◆ 卑彌呼卑彌呼の上古音は *pe * m-nə[r] *qʰˤa です。一般に「ヒミコ」と呼ばれますが、上古の倭語はハ行をパ行で発音するため「ピミ