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【つの版】邪馬台国への旅24・男王と臺與

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

正始7年(247年)頃、親魏倭王・卑彌呼は邪馬臺國で死にました。彼女のために巨大な墳墓が築かれ、埋葬されましたが、彼女には夫も婿もいません。当然息子も娘もいませんが、誰が跡を継いだのでしょうか。卑彌呼の死を誰も想定していないはずもなく、跡継ぎは生前に決まっていたはずです。

◆このロリ◆

◆コンどもめ◆

男王

更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。

新たに男の王が立ったが、國中が服属せず、互いに殺し合い、その時に千余人を殺した。

卑彌呼の死後、まず男の王が立ちました。これは一体誰だったのでしょう。魏志倭人伝やその他の文献史料からはわかりませんが、一応考えてみます。

有男弟佐治國。

姉の国政を輔佐していた、卑彌呼の弟です。弟であるからには男でしょう(わざわざ「男弟」と表記されていますが)。卑彌呼には夫も婿も息子も娘もいませんし、40年も国政を輔佐していた弟が王位につくのは順当にも思えます。しかし、彼は姉のように祭儀を司る巫女ではなく(神官ではあったかも知れません)、名前や称号すら伝わっていません。また弟が継いだならそう書かれるでしょうし、卑彌呼とあまり変わらぬ老齢のはずです。

唯有男子一人、給飲食、傳辭出入。

卑彌呼に子や孫はいませんが、飲食を給仕し言葉を伝える男子が一人いたといいます。彼が卑彌呼の死後に権力を握れるでしょうか。チャイナにも天子の側仕えとして宦官がいますが、天子が崩御したからって宦官が即位したりしません。また女ばかりの卑彌呼の宮殿に出入りできる男子となれば、間違いがあってはアレですから、年端も行かない少年が代替わりしてやっていたのでしょう。日本には幸い宦官の風習は入ってきませんでした。この男子が跡を継ぐとしたら、いかなる権威のもとに即位できるのでしょうか。

伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。

北部九州で伊都國王が独立したのでしょうか。しかし一大率や大官・副官がいますし、帯方郡の使者もいれば、周囲には狗奴國や奴國、末盧國もあります。邪馬臺國から離反したとして、東方から届く辰砂などの商品なしに弁韓や帯方郡や魏とこれまでのように取引できるでしょうか。

では、狗奴國王の卑彌弓呼(卑弓彌呼)が北部九州を征服し、あるいは邪馬臺國を打倒して王になったのでしょうか。いかに倭國連合が動揺していたとしても、つい最近まで戦争していた相手国の王を戴くとは思えません。まして帯方郡は親魏倭王の勢力を支援に来たのですから、そのような事態を認めるわけにはいきません。魏の天子と司馬懿のメンツに関わります。

魏の詔書・黄幢・檄文を持ち、人望もあるであろう難升米が王を名乗ればどうでしょう。伊都國王とだいたい同じ理由で無理があります。それに彼にも伊都國王にも狗奴國王にも、「親魏倭王」の金印紫綬がありません。帯方郡を介して魏に要求しようにも、金印紫綬は邪馬臺國にあります。

結局、「邪馬臺國で即位した男王」に対して、倭國連合諸国が従わなかったというだけではないでしょうか。それが男弟であったか、卑彌呼の他の一族であったかは、魏志倭人伝に書いていないのでわかりません。九州の他の國や王や権力者が立って倭王の位を要求したなら、そう書かれていてもよさそうです。帯方郡の使者は伊都國から先へは行きませんし、これらは卑彌呼の死やその冢と同じく伝聞なのでしょう。ともあれ、倭國は内乱状態に陥り多数の死傷者が出たようです。

崇神天皇と武埴安彦命

仮に卑彌呼=倭迹迹日百襲姫命とすると、彼女の男兄弟には孝元天皇、日子刺肩別命(古事記のみ)、彦五十狭芹彦命(大吉備津彦命、四道将軍の一人)、彦狭島命(針間牛鹿臣の祖)、稚武彦命(若日子建吉備津日子命)がいます。孝元天皇の男子には大彦命(四道将軍の一人)、少彦男心命、開化天皇、彦太忍信命(武内宿禰の祖父)、武埴安彦命がいます。開化天皇の男子には崇神天皇、彦湯産隅命、彦坐王(四道将軍の一人)、建豊波豆羅和気王(古事記のみ)がいます。

これらのうち誰が「男王」にあたるかと言えば、おそらくは崇神天皇でしょう。孝元・開化とは異なり「纒向に宮居した」と伝えられますし、他の皇子は天皇(大王)になったという伝承がありません。崇神は系譜上は倭迹迹日百襲姫命の甥(開化)の子になりますが、孝元・開化を省くか、一代省いて崇神を卑彌呼のとすればどうでしょう。弟の子世代ならば30代か40代で、次の時代を担う程度の年齢ではあります。

武埴安彦命は崇神天皇10年9月に妻の吾田媛(あがたひめ)と共に反乱を起こし、倭迹迹日百襲姫命がその反乱を予知しました。彼は北の山背(山城国、京都府南部)から、妻は西の大坂(奈良県香芝市逢坂)から兵を率いて奈良盆地へ攻め込みますが、大彦命と彦国葺(和珥臣祖)が武埴安彦命を、大吉備津彦命が吾田媛を討ち取り、乱を平定したといいます。大彦命はこのあと北陸へ、大吉備津彦命は吉備へ向かうので方向は合っています。「更相誅殺、當時殺千餘人」とはこの乱のことでしょうか。

臺與

復立卑彌呼宗女臺與年十三爲王、國中遂定。政等以檄告諭臺與。

卑彌呼の宗女である臺與は、年齢13歳であり、またこれを立てて王としたところ、國中が遂に定まった。張政らは檄文を以て臺與に告諭した。

01で触れましたが、魏志倭人伝を含む陳寿の正史『三国志』の刊本で「邪馬」「與」を「邪馬」「與」とするのは、後世の誤記に過ぎません。改めて確認しましょう。

詳しく上の記事を観て下さい。手元に刊本や原本がある方はご参照下さい。後漢書には(魏晋の頃に在位したので)臺與の名がありませんが、7世紀の梁書、隋書、北史、翰苑にみな「臺與」とあります。801年編纂の『通典』に「臺輿」とあり、與(与)が輿(車)と誤記されてはいますが、ではなくのままです。北宋の984年編纂『太平御覧』に引く魏志では「臺」で、與を(擧[挙の旧字体]の俗字)と誤記していますが、まだ臺です。

しかし同じ『太平御覧』の珍宝部に引く魏志では「與」となっており、三国志の原本が編纂されて700年近く経ってから初めて出現しました。同時期の『太平寰宇記』では『通典』から引用したと称して「邪為台」「一奥」と表記しますが、完全に誤記した上で雑な略字です。

現行の『三国志』刊本で「邪馬」「與」とするのは宋刊本にそう誤記されたせいで、これを用いた刊本はみな同じ誤ちを踏襲していますが、1013年の『冊府元亀』、1317年の『文献通考』、1458年の『大明一統志』では古本を用いて邪馬臺としている箇所もありますし、刊本から引いた上で略字化した邪馬一という表記も混ざっています。臺與も『冊府元亀』では一與、『文献通考』『大明一統志』では壹與とされますが、1161年の『通志』では邪馬臺・臺與とします。

邪馬臺・臺與を全て「原本にある邪馬壹・壹與の誤記」というのであれば、明確な証拠を提示して下さい。ただの憶測や思い込みでそう言われては困ります。「臺(台)は中央政府を指す神聖な文字だから、蛮夷の名に使うわけがない」と言っても、マンチュリアの夫余の王に「尉仇」がいます。また『三国志』魏志鄧艾伝にはこうあります。

使於緜竹築臺以為京觀、用彰戰功。士卒死事者、皆與蜀兵同共埋藏。

緜竹に(台)を築かせて京観とし、戦功の顕彰の用とした。士卒で戦死した者は、みな蜀兵と同じく共に埋蔵した。

京観とは、戦死者の屍を積み重ねて土で覆った戦勝記念塚です。『春秋左氏伝』に用例があり、既にあまり褒められたものではないと書かれています。司馬懿も公孫淵に勝利した時にやりましたが、あれは相手が逆賊なのでいいのでしょう。鄧艾は味方の戦死者まで一緒に埋めて戦功を誇ったとあり、地の文で有識者に嘲笑われていますが、彼は後に反逆罪で処刑されています(冤罪でしたが)。因果応報というつもりでしょうか。

ともあれ、そのような不吉なものにすら「臺」は使われています。都の高殿や役所を指す語にもなったとしても、原義は「土を高く積み上げた高台、見張り台」に過ぎないのです。しかも画数が多いので壹と間違えられやすく、後世には台(い)という別の字を借りて略字としたのです。台湾は繁体字で臺灣と表記しますが、その臺です(現地語の当て字です)。

「壹を臺としているのは後世の意図的な書き換えだ」というなら証拠を示して下さい。思いつきや憶測で断定されても困ります。それは学問ではなく、カルト宗教的な思考です。ニンジャはいません。物事に完璧もありません。つのの言うことも鵜呑みにしないで下さい。あなたが自分で調べ、よく考えて下さい。ニンジャはとても素早い生き物です。

臺壹臺壹臺壹臺壹臺壹臺壹臺壺壹臺壹臺壹臺壹臺壹臺壹

……なんでしたっけ。そうそう、臺與の話でした。そうしたわけで、臺與は壹與でも壱与でも台与でもなく、臺與です。略字を用いるのは惰弱です。

上古音は *lˤə *ɢ(r)aʔ-s です。邪馬臺をヤマタイと読むなら、臺與はタイヨと読むはずです。邪馬臺を「やまと(ヤマドゥイ)」と読むとすれば、臺與は当然「とよ(ドゥイヤ)」と読むことになります。よく「邪馬国の壱与」とする人がいますが、そんな表記は魏志倭人伝にも後世の文献にも、どの写本や刊本にもありません。「邪為台國の一奥」よりも違います。

宗女、年十三

彼女は卑彌呼の娘や孫ではなく、「宗女」でした。これは宗族宗室の女性の意です。宗族とは父系同族集団をいい、共通の祖霊を「家」で「祀る(示は祭壇、神霊)」ことから「宗(和訓は「おおもと」)」といいます。宗教とは本来は仏教用語で「根本の真理に関わる教え」をいいます。

要するに、卑彌呼と同じ父系同族集団に属する少女です。彼女はまだ13歳でしかなく、40年は在位したであろう卑彌呼ほどのカリスマ性もありません。倭人がロリコンだったから従ったわけではなく、諸国の豪族たちにとっては御しやすい少女が名目的に統合の象徴になったから、かえって好都合であると従ったのでしょう。体制としても卑彌呼の時代を踏襲すれば済みます。

また、ネパールには「クマリ」という生き女神が今もいます。彼女は占いや複雑な儀式によって選ばれ、初潮が来るまで現人神とみなされます。そして人々の願望を叶えるために祈祷を行い、その一挙手一投足が何事かの予兆だと解釈されます。卑彌呼や臺與も、あるいはこのような存在だったかも知れません。卑彌呼や臺與は初潮が来ても解任されなかったようですが。

豊鋤入姫命

では、日本書紀等に臺與に相当する女性はいるのでしょうか。纒向に宮が置かれた時代で、「とよ」の名を持つ皇族の巫女を探すと、崇神天皇の皇女に鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)がいます。

崇神紀6年条によれば、疫病などで国内が混乱した際、天照大神と倭大国魂神を同じ宮中に祀っているからだと考え、天照大神を豊鍬入姫命に託して倭笠縫邑に遷し祀らせ、そこに「磯堅城の神籬」を立てました。また倭大国魂神を別の皇女である渟名城入姫命につけて祀らせましたが、彼女は髪が抜け落ち体がやせ衰え、神を祀ることができませんでした。

それから62年経って崇神天皇は崩御し、子の垂仁天皇の25年といいますから87年も後のこと、天照大神の神籬は豊鍬入姫命から垂仁天皇の皇女である倭姫命に託されます。彼女は各地を放浪した末、伊勢に辿り着いて伊勢神宮を創建しました。また「一に云う」として、この時に大倭大神が自分を祀るよう神託したので、占いによって渟名城稚姫命に祀らせました。彼女は渟名城入姫命と同一人物とされます。そして穴磯邑(奈良県桜井市穴師)を神地とし、大市(桜井市芝付近)の長岡岬で祀りましたが、またしても体が痩せ細り祀ることが出来ませんでした。そこで大倭直祖の長尾市宿禰に祀らせることとした、といいます。

豊鍬入姫命も渟名城入姫命も古代にしては異常な長寿ですが、日本書紀の年代は非常に大雑把に引き伸ばしてあるためですし、これはもともと同じ話を分けて語ったに過ぎません。長尾市宿禰は崇神7年条に市磯長尾市として見えます。倭迹速神浅茅原目妙姫(倭迹迹日百襲姫命)・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君ら3人が同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にすると必ず天下太平になると夢告があったと天皇に奏上しました。そこで大田田根子と長尾市とに祀らせると、疫病は収まって国内は鎮まったといいます。

つまり豊鍬入姫命が天照大神を祀った頃、まだ倭迹迹日百襲姫命がいたことになるのですが、垂仁天皇の頃にはもういません。渟名城入姫命=渟名城稚姫命が祭祀に失敗したのは、「現在(日本書紀編纂時)」の大和神社の祭主が長尾市の子孫の大倭氏であることを正統化する縁起譚です。倭迹迹日百襲姫命が異常な死に方をしたというのも、「現在」の大神(おおみわ)神社の祭主が大田田根子の子孫の大神氏だからです。豊鍬入姫命が成功したのは、彼女に始まる斎宮(天照大神に仕え生涯結婚しない皇女)の系譜が「現在」まで連綿と続いていたからです。

卑彌呼や臺與から数百年を経て、その口伝もおぼろげになり、文書も焼かれたり書き換えられたりして実態がわからなくなったでしょう。また後から設定した建国の年代的にも、卑彌呼の頃に第10代の崇神天皇が在位していたとなると辻褄が合わず、都合が悪かったのでしょう。日本書紀の年代は後からどんどん雑に継ぎ足して伸ばされ、あるいは朝貢の件を隠すためにざっくり削られた形跡があります。ある程度のことは推測できても、干支や物事の前後関係も含め、あまり信頼のおける史書ではありません。かと言って全部が嘘とは言い切れないため利用が難しく、安易にチャイナの史書や考古学に当てはめると危険ではあります。

要は、臺與は日本書紀における豊鍬入姫命に相当するのではないか、と言える程度です。彼女もまた神を祀って生涯を過ごし、結婚して子を産むこともありませんでした。卑彌呼が居住していたと思しき纒向の宮殿は、3世紀中頃に取り壊され、柱も抜き去られたことが考古学調査でわかっています。死の穢れを避け、新たに宮を建てた(遷した)のでしょう。

豊鍬入姫命が住まった倭笠縫邑の位置は諸説ありますが、いずれも三輪山の麓の桜井市内か、「なかて」である田原本町です。三輪山の神と天照大神の居場所を引き離すのですから、田原本町の方がいいかも知れません。

では、卑彌呼の死後に即位した男王はどうしたのでしょうか。崇神天皇は日本書紀で120歳、古事記で168歳と超長生きしていますが、垂仁天皇は「先代は神祇を丁寧に祀らなかったから短命であった」と言っています。卑彌呼死後の混乱によって戦死か病死でもしたのでしょうか。あるいは王位についたものの反発が強く、無力で幼い臺與を名目上の女王に据えて纒向の外へ追いやり、実権を握る方へシフトしたのかも知れません。よくあることです。董卓や曹操や司馬懿も、夫余の大使である位居もやっていますね。

なお、伊勢神宮内宮には天照大神が、外宮には豊受大神が祀られています。臺與/豊鍬入姫命とは無関係だと思いますが、なんかを感じます。

政等以檄告諭

張政にとっては、遠く邪馬臺國で起きたゴタゴタについては伝聞でしかわかりません。詳しく書き記すほどの情報も入らず、伊都國でうろうろしているうちに、卑彌呼の宗女である13歳の少女が王になり、事態は収まったようだと連絡が入りました。なんだかよくわかりませんが、倭人がそうしたのなら卑彌呼と同じように彼女を親魏倭王として承認すればいいわけです。彼女のもとには金印紫綬があり、勝手に回収しに行くわけにもいきません。

張政らは事情を帯方郡に伝達し、帯方郡は幽州や洛陽に伝達して、「わかった。臺與を親魏倭王として承認する」という返事が半年ぐらいで届きます。張政らは檄文(触れ文)を作成して「魏は臺與を親魏倭王と承認する。倭人たちはみな彼女に従え」と告知・説諭し、倭地の混乱は一応鎮まります。

卑彌呼は子を遺すことなく死にましたが、彼女が長生きしたことで邪馬臺國を盟主とする倭國連合体制は一世代分以上持続しました。システムが継続してそれなりに利益があがるとなれば、後はこのシステムを維持し、次世代に受け継いで行けばいいわけです。日本列島規模の大国「倭國」はこのようにして形成され、紆余曲折ありながら現代まで続いて来たのです。これこそが親魏倭王・卑彌呼の最大の功績であり遺産と言えるでしょう。

◆I'm Back in Black◆

◆Yes I'm Back in Black◆

さあ、返書と返礼品を携えた倭使を連れて帯方郡へ帰りましょう。おそらくまた洛陽へ行くことになりますね。まだまだ任務は続きます。

……えっ、倭地に残る? まさか、あなたは魏に、帯方郡に、司馬氏に反旗を翻す気ですか? ならば死ぬしかありません。ZAPZAPZAP!

【続く】

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三宅つの
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