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【つの版】邪馬台国への旅25・臺與遣使

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

いよいよ魏志倭人伝の記述も最後です。臺與が親魏倭王として承認された返礼として、彼女の名のもとに倭國から魏の天子へ朝貢が行われます。

◆東の◆

◆國から◆

臺與遣使

臺與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人、送政等還。因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。
臺與は、倭の大夫で率善中郎将の(伊聲耆)掖邪狗等二十人を派遣し、張政等が(帯方郡に)帰還するのを送った。それを因縁として臺(魏の朝廷)に詣で、男女の生口三十人、白珠(真珠)五千孔、青大句珠(青い大きな勾玉)二枚、異文雜錦(珍しい紋様をまじえた錦)二十匹を献上した。

難升米でも都市牛利でも載斯烏越でもなく、前に魏へ朝貢使節としてやって来て率善中郎将の印綬を受けた(伊聲耆)掖邪狗が再び使者となりました。これまでは二回以上同じ人物が使者になっていないので、二回目の使者となった掖邪狗は大役です。

またかつては8人ほどの使節団でしたが、今回は20人もおり、貢物も卑彌呼の時代とは異なり本格的です。難升米たちも使節団に参加していたかも知れませんが、政治的なパワーバランスを取るために正使や副使とはせず、なんらかの理由で掖邪狗が選ばれたとも推測はできます。

張政らは帯方郡に帰還した後、事情の説明や黄幢・詔書の返還などのため、この倭使に随行して洛陽に赴いたと考えてよいでしょう。彼が一番現場を知っています。時期はというと、正始8年(247年)にいろいろあったわけですから、それが落ち着いた正始9年(248年)かその翌年(249年)、とすればよさそうです。国内の混乱の後始末をし、貢物を集めて使者を決め、帯方郡へ戻るための南風を待てばそれぐらいはかかるでしょう。

張政の帰還と臺與の遣使を魏晋交替後の266年とする説がありますが、いくらなんでも遅すぎます。帯方郡の下っ端役人に過ぎない張政が、247年から18年もの間、倭地で何をしていたというのでしょうか。お雇い外国人として国政の指導にあたったと言っても、魏の役人のまま異国の国政にそこまで長らく関わることが可能でしょうか。魏にしろ司馬氏にしろ、遠隔地に公孫度めいた半自立政権を建てられては困ります。後漢末期のような混乱期でもないのですから、暗殺者が派遣されるでしょう。そして張政は「送政等還」、魏に帰還しています。倭國を乗っ取ろうという野心はありません。

ところで、この時の臺與の朝貢は斉王紀(曹芳伝)に記載がありません。240年の第一次朝貢も本紀にはありませんでしたから、なかったわけでもないでしょう。248年でもいいのですが、249年とした方がいろいろ辻褄は合います。というのも、249年初頭に魏の都・洛陽では大事件が起きていたからです。ではカメラ・ドローンを洛陽へ差し向けましょう。

◆◎◆

高平陵の変

正始5年(244年)、魏の大将軍の曹爽は、司馬懿に対抗して西方の軍権を得ようと蜀漢を攻撃し、失敗しました(興勢の役)。正始7年(246年)に孫呉の将軍・朱然が魏の国境地帯に侵攻すると、曹爽はこれを迎撃したものの大敗を喫します。また戦争によって難民化した現地の住民に対し、曹爽は「もとの土地に帰れ」と命令したため、難民たちは呉へ亡命しました。こうした失策から曹爽の威信は低下し、かえって司馬懿の声望は高まります。面白くない曹爽は朝廷の人事を側近の何晏に任せ、自分の党派を厚遇しました。

正始8年(247年)5月、司馬懿は70歳近い高齢と病気を理由に引退を申し出ます。曹爽は司馬懿への警戒を解かず、翌年(248年)冬に自派の李勝を見舞いに行かせて様子を見させます。病床の司馬懿はすっかり耄碌していて、李勝の言ったことを聞き間違え、お粥を食べようとして胸元へこぼし、「わしはもうこんな有様じゃ、後はよろしく頼む」と涙ながらに訴えて李勝を哀れがらせましたが、相手を油断させるための司馬懿の芝居だったといいます(出典が『魏末伝』という怪しい本なので真偽のほどは不明ですが)。

パトロンの司馬懿がこんな状況ですから、曹爽が専権を振るう洛陽へ臺與の使者が訪れても、司馬懿派の地盤である東夷諸国に対していい感情を持たれるはずがありません。あるいは司馬懿を離れて曹爽につくよう言い含められるかも知れず、それを許せば倭國との外交を担当する帯方太守の王頎は「司馬懿派から離反した」とみなされかねません。従って、248年に倭使を洛陽へ向かわせるのは政治的に不都合なのです。倭國から帯方郡に「洛陽へ行きたい」と使者が来ても、「もう少し待て」と告げられたでしょう。

正始10年(249年)1月6日、皇帝曹芳は先帝の陵墓である洛陽郊外の高平陵に参詣し、曹爽とその弟・曹羲も付き従って洛陽を離れます。司馬懿はすぐさま宮中に駆けつけ、先帝の皇后であった郭太后に「専横を極める曹爽兄弟の地位を剥奪すべきです」と上奏。その許可と詔勅を取り付けると、自派の人々を各方面へ遣わして宮城を制圧し、曹爽兄弟の軍権を剥奪します。そして曹爽一派を逮捕して尽く誅殺し、司馬懿派が魏の実権を握りました。これを「正始政変」または「高平陵の変」といいます。

同年2月、司馬懿は丞相(総理大臣)に任命され、食邑を4県増やされて2万戸を領有する大諸侯となり、九錫の礼を加えられ、朝政において拝礼せぬことを許されました。司馬懿は丞相の位と九錫を固辞したものの、その権威と権勢は並ぶ者がなくなります。

さあ、今こそ倭使が朝貢する絶好の機会です。王頎は洛陽の状況を把握した上で、倭使を洛陽へ向かわせ、司馬懿が公孫淵を平定して蛮夷を朝貢させたあの功績を思い起こさせようとしたのです。もちろん、司馬懿の指示です。これぐらいの腹芸が使いこなせなければチャイナの政界で生き残れません。

青大句珠

獻上男女生口三十人、貢白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。
男女の生口三十人、白珠(真珠)五千孔、青大句珠(青い大きな勾玉)二枚、異文雜錦(珍しい紋様をまじえた錦)二十匹を献上した。

朝貢品も気合いが入っています。生口は30人に増え、織物も立派で、辰砂こそありませんが洛陽でも珍品とされた多数の白い真珠(孔とは穴を開けて数珠つなぎにしたものをいうのでしょう)、二つの青大句珠が献上されたとあります。句とは勾のことで「まがる」を意味し、青いバロックパールでなければ勾玉(まがたま)のことにほかなりません。

勾玉は縄文時代から存在する日本列島独特の装飾品で、弥生時代や古墳時代には大型化し、朝鮮半島にも輸出されたことがわかっています。滑石や瑪瑙の勾玉もありますが、最も珍重されたのが翡翠です。

翡翠は新潟県の糸魚川で縄文時代から採取・加工され、青森県の三内丸山遺跡や山梨県の天神遺跡など多くの遺跡から糸魚川産の翡翠加工品が出土しています。糸魚川から三内丸山遺跡までは600km以上離れており、非常に古くから広範囲に渡る翡翠の加工・流通ネットワークが存在したことが明らかです。鳥取・長崎・兵庫でも翡翠が産出はしますが、利用された形跡がありません(縄文時代以来、日本列島で利用された翡翠は全てが糸魚川産です)。弥生時代には佐賀県唐津市の宇木汲田遺跡で糸魚川産の翡翠製勾玉が出土しており、ここは魏志倭人伝にいう末盧國の中心部です。

弥生時代、山陰から北陸地方に勢力を伸ばしていたのが、四隅突出型墳丘墓を築造する文化圏、すなわち出雲(投馬國)です。北陸での四隅突出型墳丘墓の分布は、福井県福井市清水町の小羽山墳墓群(2世紀初頭)、福井市高柳町の高柳墳墓群、石川県白山市松任の旭墳墓群の他、富山県富山市内に10基が存在します。新潟県糸魚川市付近には今のところありませんが、探せば見つかるかも知れません。

また福島県会津盆地の喜多方市塩川町に2基ありますが、これは新潟県北部から阿賀野川(福島県側からは阿賀川)を遡って到来した勢力で、弥生終末期から古墳時代初期、まさに魏志倭人伝の時代です。崇神天皇の時代、四道将軍の大彦命は北陸道(越国、高志道)へ派遣され、東海道に派遣された息子の武渟川別命と会津(相津)で出会ったといいますから、この道を通ったのでしょう。途中では糸魚川も通っているはずです。塩川町には会知という地名もありますし、4世紀末に会津若松市に築造された会津大塚山古墳からは倭製の三角縁神獣鏡が出土しています。同時期には会津坂下町に亀ヶ森古墳と鎮守森古墳が築造されました。

ともかく、東北・北陸から山陰に及ぶ日本海沿岸には広範囲の翡翠の流通網が存在し、北部九州とも交易があったわけです。記紀や風土記に語られる出雲神話においても、出雲は高志(越国、北陸)と盛んな交流がありました。

素戔嗚命が退治した八岐大蛇は「高志の」八岐大蛇と呼ばれましたし、大国主神は古志(高志)の八口を討伐したと出雲国風土記にあり、また高志の沼河比売(ぬなかわひめ)に求婚して子を儲けたと伝えられます。

沼河の沼(ぬ)とは、天の沼矛の沼(ぬ)や八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の瓊(に)と同じく、翡翠を指します。沼河とは翡翠の川、現在の糸魚川市を流れる姫川のことなのです。姫川の河原では上流部から流されてきた翡翠の原石が見つかり、人々はこれを拾い集めて加工流通させました。

『先代旧事本紀』によれば、沼河比売と大国主神の間には建御名方神が生まれました。彼は出雲の国譲りに際して建御雷神と戦い、出雲から諏訪へ逃げ延びて「ここから出ない」と誓ったことで知られています。日本海を船で逃げ、母の故郷である高志からも追われ、姫川を遡って安曇野を南下し、諏訪湖のほとりまで逃げ込んだということになります。

このように、青大句珠とは遠く北陸の地から魏の都洛陽まで運ばれた立派な朝貢品でした。翡翠はチャイナで玉(ぎょく)として非常に尊ばれ、皇帝の印璽を玉璽、皇帝の体を玉体というぐらいです。ただ玉は山で産出し、珠は川や海で産出するという違いがありますが、糸魚川の翡翠はまさしく姫川の河原で産出するものですし、磨かれて勾玉になっているのですから「句珠」という表記は正確なのです。4世紀から6世紀前半まで、朝鮮半島からは糸魚川産の翡翠製勾玉が多数出土しており、明らかに倭國からの輸出品です。

◆碧奇魂◆

◆BLUE SEED◆

さて、魏志東夷伝はここで唐突に終わっています。魏志の最後である烏丸鮮卑東夷伝もここで終わり、「評」と称してこのような文章があります。

評曰。史漢著朝鮮・兩越、東京撰錄西羌。魏世匈奴遂衰、更有烏丸、鮮卑、爰及東夷、使譯時通。記述隨事、豈常也哉。
評にいう。『史記』や『漢書』は朝鮮や両越(東越/東甌と閩越)のことを著し、『東京(後漢の史書である「東観漢記」か)』には西羌のことが撰録されている。魏の世には匈奴がついに衰え、代わって烏丸・鮮卑(が有力となり)、さらには東夷がやって来て、使者や通訳が時々通じた。思うに歴史の記述とは、その時代に起きた事にしたがって記録するものであり、常に扱う対象が同じではないことだなあ。

これは前にも言いましたが、「だから烏丸・鮮卑・東夷の伝を立てますが、西域ほかについては扱いませんよ。お察しください」というほのめかしです。大月氏など西域諸国について詳しく語る伝を立てると、司馬懿の政敵の曹爽の父・曹真の功績を褒め称えることに繋がりますし、蜀漢が西域と結ぼうとした形跡もあります。鮮卑が北狄と西戎を兼ねているとすればいいでしょう。南蛮については孫呉や蜀漢があって魏は手出しできません。東夷伝にありつつ「会稽東冶の東」などと南蛮っぽく装った倭人のついでに、侏儒國や裸國や黒齒國を並べ立ててお茶を濁しています。その程度のことです。

魏志倭人伝の記述は終わりましたが、倭國が断絶したわけではありません。魏はこの十数年後、司馬懿の孫である晋王司馬炎に禅譲して滅び、司馬氏を皇帝とするとなります。そして倭に関しても『晋書』に記録があります。あまり知られない歴史の続きを見ていきましょう。

【続く】

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三宅つの
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