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【つの版】邪馬台国への旅18・親魏倭王02

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

景初2年(238年)12月、魏の明帝曹叡は重病に罹り、翌景初3年(239年)正月元日に崩御します。幼い皇帝曹芳が即位し、翌年には改元されて正始元年(240年)となります。新皇帝即位の正月なので、遥か遠くから徳を慕い、また先帝の弔問として蛮夷が朝貢にやって来ます。

『晋書』宣帝紀(司馬懿伝)にこうあります。

正始元年春正月、東倭重譯納貢。焉耆、危須諸國、弱水以南、鮮卑名王、皆遣使來獻。天子歸美宰輔、又増帝封邑。
正始元年春正月、東倭が通訳を重ねて貢物を納めた。また焉耆や危須といった西域の国々や、弱水(エチナ川、甘粛・青海・内蒙古を流れる内陸河川)以南の鮮卑の名ある王たちが、みな使者を派遣して朝貢した。天子(曹芳)は「これは朕の美徳ではなく宰輔(宰相・輔佐、国事を司る司馬懿)のおかげだ(帰美)」といい、また帝(のち晋の宣帝と諡号を贈られた司馬懿)の封邑(領地)を増やした。

これは景初2年6月に帯方郡に来た使者と同じです。彼らは洛陽に1年余り留められ、魏の先進文明に触れさせられ、礼儀作法を仕込まれたのです。また倭地に関する様々な情報も、根掘り葉掘り聞き出されたでしょう。いよいよ倭使が天子に謁見する日が来ました。

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親魏倭王

其年十二月、詔書報倭女王曰、「制詔親魏倭王卑彌呼。帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利。奉汝所獻男生口四人、女生口六人、斑布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻。是汝之忠孝、我甚哀汝。今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授。汝其綏撫種人、勉爲孝順。汝來使難升米・牛利、渉遠道路勤勞。今以難升米爲率善中郎將、牛利爲率善校尉、假銀印青綬。引見勞賜遣還。今以絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹、答汝所獻貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠・鉛丹各五十斤。皆裝封付難升米、牛利、還到録受。悉可以示汝國中人、使知國家哀汝。故鄭重賜汝好物也」
その年(景初2年)の12月、詔書して倭女王に報せて言った、「親魏倭王の卑彌呼に制詔(みことのり)する。帯方太守の劉夏が(洛陽へ)使者を派遣し、あなたの大夫である難升米、次使(副使)の都市牛利を送り届けた。あなたの奉った献上品は、男の生口(奴隷)4人、女の生口6人、斑布二匹が二丈であり、無事到着した。あなたの居る所は遥かに遠いのに、使者を遣わして貢物を献上した。これはあなたの(天子の徳を慕う)忠孝の思いであり、わたしはあなたを甚だ哀れむ(いとしく思う)。今、あなたを「親魏倭王」とし、金印紫綬を授ける。これを箱に入れて封印し、帯方太守に託して、あなたに授けさせよう。あなたの種族の人々(倭人)をなだめ鎮めて、(天子への)孝行と従順につとめよ。あなたの使者である難升米と(都市)牛利は、遠路はるばるやって来て、大変な任務をよく勤めた。今、難升米を「率善中郎将」、牛利を「率善校尉」とし、銀印青綬を授ける。また(天子に)引き合わせてねぎらいの言葉をかけ、下賜品を与えて帰国させよう。今、絳地交龍錦(深紅の地に蛟龍を織り出した錦)五匹、絳地縐粟罽(深紅の地に細かい粟粒模様の薄布)十張、蒨絳(茜色の絹布)五十匹、紺青(紺色の絹布)五十匹をもって、あなたの献上品への代償(返礼)とする。さらに、特別にあなたに紺地句文錦(紺色の地に句の紋様を織り出した錦)三匹、細班華罽(細かい斑入りの華紋様を描いた薄布)五張、白絹五十匹、金八両、五尺の刀二口、銅鏡百枚真珠・鉛丹各五十斤を下賜する。みな箱に入れて封印し、難升米と牛利に託し、持ち帰って目録と共にあなたに受け取らせる。これらのことごとくは、あなたの国中の人にこれを示し、国家(国を治める家、天子)があなたを深く慈しんでいることを知らしめるためだ。ゆえに鄭重にあなたに好物(よいもの)を賜るのだ」

長々と書き連ねられています。景初二年十二月とあるものの、実際は正始元年春正月のことです(あるいは二回謁見したのでしょうか)。10歳にも満たない天子がこんな文章を自分では書きませんから、担当の役人が前もって作り、公卿が読み上げたものです。陳寿や魚豢は魏(晋)の文書館からこれを見つけ出し、史書に写して遺したのです。ひとつずつ見ていきましょう。

難升米都市牛利

上古音は *nˤar *s-təŋ *(C.)mˤ[e]jʔ と *tˤa *C.[d]əʔ *[ŋ]ʷə *C.ri[t]-s です。なんらかの倭語名の音写ですが、倭語でどう読むのかは不明です。「なんしょうまい」「つじぐり」と日本漢字音の呉音では読めますが、一般には「なしめ」「としごり」と読まれます。

難升米が正使、都市牛利が副使です。倭國王帥升も「帥升等」とあり、生口160人を率いて来たからには王だけ来るわけもありませんし(王は倭國にいて使者が来たのでしょうが)、何人かが連れ立って来るのが普通でしょう。

升は帥升の名にもあります。邪馬臺國の四官のところで升を「つ」と読んだことがありますから、「なめ」かもしれません。また奴國の中心部を日本書紀等で儺県(な・の・あがた)と呼びますから、「つ」が天神・国神の津のように「○○の」という意味であれば、「奴國の米(メ)」という名前を表す可能性があります。日本書紀には雄略天皇に仕えた物部目(もののべ・の・め)という人がいますし、「め」という個人名はあり得ます。神功紀では「難斗米」としていますが、升から斗に容量が増えています。

都市牛利は、あとの方で「牛利」と略称されています。難升米が「奴國のメ」という名前なら、都市牛利は「(伊)都國の牛利」という名前かも知れません。倭語では濁音が語頭に来ないので「クリ」や「コリ」でしょうか。

邪馬臺國は東方の奥地にあり、弁韓や楽浪郡・帯方郡との交渉ノウハウは、まだまだ北部九州の伊都國や奴國が握っていました。江戸時代でも朝鮮との交渉は対馬の宗氏がやっていたぐらいですから、帯方郡への使者に伊都國や奴國の人間が選ばれるのは自然なことです。韓語や漢語がある程度は話せ、文字の知識もあったに違いありません。危険な海を渡って外国へ赴くばかりか、チャイナの大国の天子に初めて謁見しようというのですから、胆力もあり、頭の回転も早い優秀な人物であったはずです。

彼らが日本書紀で誰にあたるかはわかりません。難升米を垂仁紀の田道間守(たじまもり)、都市牛利を『先代旧事本紀』の饒速日尊の子孫・出石心(いずしこころ)大臣にあてる説が古くからありますが、伊都國や奴國とは無関係で首肯しかねます。

生口と斑布

生口たち男女合計10人を除けば、貢物らしいものといえば斑布だけです。倭人の男の生口は黥面文身していて目立ったでしょうし、蛮夷っぽさの象徴として半裸を見せていたと思われます。海人なら浅黒く日焼けしていて、筋肉もムキムキでしょう。どう見ても立派な蛮族です。倭人の肉体そのものが朝貢品に相応しい野蛮性を備えていたのです。筋肉は全てを解決します。

斑布とはまだらに染めた布で、何らかの紋様を描いた織物です。匹は織物を数える単位で、『漢書』食貨志下に「布帛は横二尺二寸を幅(よこはば)とし、長さ四丈を匹とす」とあります。魏の1尺は24.1cm、1寸は2.41cm、1丈は241cmですから、横幅53cm、長さは9.64mとなりますが、倭人の斑布は二丈(4.82m)しかありません。魏の天子に献上するほど大したものではありませんが、むしろ「こんな粗末なものしか作れないほど未開野蛮な、黥面文身の、海の彼方の蛮夷までもが」と強調できて良いのかも知れません。一年も滞在していたならもう少しマシなものを調達できたような気もしますが。

親魏大月氏

後漢の光武帝が「漢倭奴國王」の称号を授けたのですから、魏から倭の君主には当然「倭王(倭國王)」の称号を授けねばなりません。しかし「魏倭國王」ではなく「親魏倭王」としたのは、魏と対等に近い大国であることを表しますが、これは西方の大国「大月氏」の王に贈られた「親魏大月氏王」と釣り合わせるためだ、という説が古来あります。おそらくそうでしょう。

つのの邪馬台国の記事の基礎的なことは、だいたいこの本に拠っています。以下もこれの引用を膨らませたものです。わかりやすいので読んで下さい。

月氏は周や秦の時代からチャイナの北西辺境にいた遊牧民です。紀元前3世紀末から前2世紀にかけ、モンゴル高原に匈奴が興ると圧迫され、月氏は西へ逃れて小月氏と大月氏に分かれました。小月氏は青海省付近に落ち着き、大月氏はジュンガル地方(新疆ウイグル自治区北部のイリ地方からカザフスタン南東部のセミレチエ地方)に住み着きました。水も牧草も豊富で遊牧民にとって非常に暮らしやすく、交通の要衝でもあります。南のタリム盆地の都市国家群も古くから月氏の王族を戴いていたようです。土着していたサカ族(スキタイ)は駆逐されるか、大月氏に降って仲間になりました。

しかし匈奴に追われた別の部族集団・烏孫に攻め込まれ、大月氏は再び移動を開始します。キルギスの山々やフェルガナ盆地を越えて辿り着いたのは、トランスオクシアナ(ソグディアナ)でした。大月氏はこの地を征服すると南のバクトリア王国(アレクサンドロス大王が残したギリシア人の子孫)を滅ぼし、アフガニスタン北部からウズベキスタンに至る地を支配しました。漢の武帝の時、この地を張騫が訪れたことは有名です。

やがて大月氏の支配下にあったバクトリア東部のワハーン渓谷からクシャーナ(貴霜)族が勢力を伸ばし、西暦1世紀から3世紀にかけて、アフガニスタン・パキスタン・北インドにまたがる大帝国を築きました。これがクシャーナ朝ですが、『後漢書』や『魏略』ではこれも大月氏と呼んでいます。

クシャーナ朝はパミール高原の麓を潜ってタリム盆地にも勢力を広げ、後漢と衝突しましたが、後漢は2世紀初頭に西域都護を廃止し、タリム盆地はクシャーナ朝に服属しました。仏教やヒンドゥー教、ゾロアスター教などを崇拝し、仏教(浮屠教)をチャイナに伝えたのも月氏の僧侶だといいます。またパルティアを挟んでローマ帝国とも海路で盛んに交易していました。このように歴史の長い大帝国が大月氏です。

大月氏王波調遣使奉獻、以調爲親魏大月氏王。(明帝紀)

『三国志』魏志明帝紀によると太和3年(西暦229年)、大月氏王の波調が魏に使者を遣わして貢物を献上したので、彼を「親魏大月氏王」としました。この波調は、クシャーナ朝側の碑文やコインにおける「ヴァースデーヴァ」という王名の音写で、カニシュカ王の子孫にあたります。

魏と西域の関係を見てみましょう。曹丕が魏の皇帝になると、曹真を鎮西将軍・仮節・都督雍涼州諸軍事に任命し西方を任せました。南の蜀漢、西の羌族、北の匈奴等に睨みをきかせる大役です。彼は涼州刺史の張既と協力し、張郃・郭淮・楊秋・費曜を指揮して各地の反乱を平定、西域との交通を回復しました。黄初3年(223年)2月、鄯善(楼蘭)・亀茲(クチャ)・于闐(コータン)の王が各々使者を派遣し朝貢したので、戊己校尉を設置して涼州刺史に兼任させました。曹叡の即位後も曹真(や張既)は西域諸国と使者をやりとりし、魏の天子の正統性を喧伝しては通好を求めていました。その最大の成果が大月氏王波調の使者だったわけです。

大月氏國、居藍氏城。西接安息四十九日行、東去長史所居六千五百三十七里、去洛陽萬六千三百七十里。戸十萬、口四十萬、勝兵十餘萬人。

さて『後漢書』西域伝によれば、大月氏國の都である藍氏城(アフガニスタンの首都カーブルの北のバグラーム)までは「洛陽を去ること1万6370里(7104.58km)」といいます。洛陽から敦煌まで5000里(2170km)とありますから、計算上は敦煌から藍氏城まで1万1370里(4934.58km)です。

Google Mapsすれば、洛陽市から西安市・酒泉市・敦煌市に至り、タリム盆地北側・天山山脈南麓のオアシス都市を辿ってハミ、トルファン(高昌)、カラシャール(焉耆)、コルラ(渠犁)、ブグル(輪台、漢西域都護府)、クチャ(亀茲)、アクス(姑墨)、カシュガル(疏勒)と進み、パミール高原東麓のタシュクルガン(蒲犂)までが4389km。ここから谷沿いにワハーン渓谷を抜ければ780kmほどでバグラームですが、合計5169km、敦煌から3000kmほどしかありません。

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トルファンから天山山脈の北側を通れば、ウルムチを経てカザフスタン国境のコルガス(ホルゴス)まで洛陽から3544km。カザフスタン側のホルゴスからアルマトゥイ、タラズ、シムケント、ウズベキスタンに入ってタシュケント(石国・者舌)、サマルカンド(康国)を経てテルメズでアム川を渡り、アフガニスタンのバグラームまで2242km。合計5786kmで、やはり7000kmには及びません。途中で里数計算を間違えた(誤記した)のでしょうか。どこをどう通ったかはさておき、まあ現実の数字に近そうです。

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対する邪馬臺國は「帯方郡から1万2000余里」とされますが、『後漢書』によると洛陽から楽浪郡までは5000里。楽浪郡(平壌)から帯方郡(ソウル)までは240kmほど、550里ぐらいはありますから、洛陽から邪馬臺國までは1万2000+5550=1万7550里で、洛陽から藍氏城までの距離に匹敵するばかりかちょっと多くなります。しかしこれまで見てきたように、帯方郡から邪馬臺國までの実際の距離はせいぜい1720km(4000里弱)。4000+5550里ではぎりぎり1万里には届きません。そこで帯方郡から先は距離を5倍に誇張したり、渡海の里数を適当に伸ばしたりして増やしたのです。

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東夷伝の距離が5倍に誇張されているのも、この地域を平定した司馬懿の功績を讃えるためです。『三国志』は晋の時代に編纂されましたから、旧敵国たる蜀漢出身で立場の弱い陳寿が、晋の祖である司馬懿を悪く書くわけにはいきません。たとえ史料を鑑みて誇張だと理解しても、ぐっと飲み込んでそのままにしないと、周囲に何を言われるかわかりません。察して下さい。

しかし不彌國から先は(5倍誇張した)日数で書かれ、距離がぼやかされています。帯方郡から1万700里の不彌國から邪馬臺國までは1300里余りということになりますが、1300里を5倍誇張すると6500里で、帯方郡から1万7200里。洛陽からの5500里を足せば2万2700里で、洛陽から藍氏城までよりは6330里も遠くなります。これはこれで海の彼方のすごい大国ということになっていいと思いますが、牽制相手とする孫呉からは遠くなりすぎます(1万7550里としても南太平洋の彼方のパプアニューギニアあたりですが)。

それに「親魏大月氏王」の使者を魏に招いた曹真は、司馬懿の潜在的な政敵である曹爽の父親です。あまり誇張しすぎると曹真に、ひいては曹爽とその派閥に失礼になりますし、かといってバカ正直に「洛陽から1万里ほどの、それなりの島国が東海の彼方にあります」と報告すれば、曹爽派が「もっと遠くの歴史ある大国から使者をお招きなさった方がおられますなあ」とか嫌味ったらしくマウント取ってきて、なんかムカつきます。

そうした微妙なバランスを調整した結果、不彌國から先を日数表記にして5倍誇張し、かつ東を南に捻じ曲げ、「孫呉を牽制しつつ曹真に配慮し、大月氏國より少し遠いが遠くもなりすぎない」という絶妙な距離と方角の記述になったのです。また邪馬臺國は7万戸、藍氏城は10万戸なので、「エッそんな大都市が東海の彼方に?」とか勘違いして驚かれるでしょう。その程度のことです。どうせほとんどの人は倭なんて知りません。倭人が「呉の太伯の子孫で」とか始祖伝説を語っても孫呉が「じゃあおれのとこだな」とか言い出しかねませんので削除されます(魏略にはありますが)。

不思議なことに、『三国志』には外国については烏丸鮮卑東夷伝があるだけで、西域諸国について何も書かれていません。烏丸鮮卑東夷伝の最後では「記述隨事、豈常也哉(事に従って記述するもので、常に同じではない)」と妙な言い訳をしており、後から裴松之が『魏略』西戎伝をくっつけて補完しています。大月氏とかを記録してもよさそうなのにしていないのは、それを書くと曹真の手柄話になり、司馬懿や晋の皇帝に対して失礼になるからです。魏志曹真伝には大月氏のことなど少しも触れられていません。

そんなこんなで、魏志倭人伝を「素直に」読むと、邪馬臺國には辿り着けません。裏の事情をほじくり返し、考古学や文献学で先に邪馬臺國っぽい場所の見当をつけ、そこへ魏志倭人伝の経路を修正しつつ当てはめていくというアクロバティックな裏技が必要となるのです。大概の人はそんなことめんどくさくてやりませんから、怪しげな本や視聴率稼ぎのマスメディアや、胡乱なwebサイトを鵜呑みにして思考停止しているだけです。つの自身もこれが絶対とか言いません。あなたは自分で考えて下さい。

◆勝敗を 分けるのは◆

◆執念さ◆

今回はここまでです。次回は魏からの下賜品について見ていきます。

【続く】

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三宅つの
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