【つの版】日本建国21・神話創造
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
筑紫の日向を出発して7年後、辛酉年の正月元日、神武天皇は大倭国橿原宮で即位した、と『日本書紀』には書かれています。しかし辺境の日向へ天孫降臨してから苦労して東征せずとも、ヤマトへ直接天神の子が天降ったとすればよさそうなものです。なぜこのような構成になったのでしょうか。
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倭の起源
『日本書紀』編纂にあたって、倭人や倭国について書かれたチャイナやコリアの歴史書が参考にされなかったはずはありません。しかし、そこには神武天皇もアマテラスも、スサノオもオオナムチもニギハヤヒも出てきません。
後漢の建武中元2年丁巳(西暦57年)、光武帝が倭奴国王に金印紫綬を授けたこと、50年後の永初元年丁未(西暦107年)、安帝に倭国王帥升が朝貢したことは『後漢書』に書かれています。
また『論衡』に「周の成王の時(紀元前11世紀頃)、越裳が雉を献じ、倭人が鬯を貢いだ」とあり、『山海経』に「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。倭は燕に属す」と記され、『漢書』に「楽浪海中に倭人あり、分ちて百余国と為し、歳時をもって来たりて献見すという」とあります。
『論衡』の記述を鵜呑みにすれば、紀元前11世紀頃には既に倭人がおり、周に朝貢していたということになります。また『魏略』逸文等には「(倭は)自ら(呉の)太伯の裔という」とあり、太伯は周の文王(成王の祖父)の伯父とされますから、2つの記述をつなげるのは年代的にも問題ありません。
倭国・日本の君主が「呉の太伯の末裔である」と称すれば、当時の東アジア世界では充分な名門王族です。春秋時代に覇者となった呉王闔閭というビッグネームにも接続可能です(子の夫差は暗君でしたが)。チャイナの天子や文化人からも親しみと敬意を持たれ、友好的に接してくれるでしょう。
新羅の王の金氏は、碑文によれば「(匈奴出身で漢に仕えた)金日磾の後裔」と称していましたし、金官国の王族である金庾信は「五帝の一人である少昊金天氏の末裔」と名乗っていました。また『史記』にあるように、殷の紂王の叔父である箕子は、殷が周に滅ぼされたのちも周王に敬意を払われて臣下とされず、朝鮮侯に封じられたといいます。実際はどうあれ、チャイナの王族を系譜上の先祖として箔をつけることは広く行われていたのです。
匈奴の単于は夏の淳維の子孫とされ、鮮卑拓跋氏(北魏)は漢化の過程で自ら黄帝軒轅氏の末裔と名乗っています。チャイナの史書では鉄勒や突厥は匈奴の別種とされ、吐蕃王家も南涼の鮮卑禿髪部(拓跋部)の末裔とされています。唐室は漢人の隴西李氏を名乗っており、遡れば五帝のひとりで黄帝の孫・顓頊高陽氏であるとします。ほとんどの漢姓は黄帝か炎帝に遡ります。
しかし、それはチャイナの天子を中心とする世界秩序に組み込まれることであり、倭王が天子や天皇、治天下大王を称する妨げになります。そうしないためには、別の権威、別の天命が必要です。
別立天命
高句麗と百済の王家は先祖を朱蒙(鄒牟)としますが、彼は5世紀の『好太王碑文』によれば天帝の子で、河伯女郎を母として卵から生まれたとあります。また出自は北夫餘であって、南に川を渡って国を開いたとしています。
これは『論衡』にある夫余の建国神話を借用したものです。それによると北夷の槀離(たくり)国の王の侍女が、天から下った鶏卵の如き気を受けて妊娠し、男児を産みました。彼は東明と名付けられ、長じて勇猛となったので、王は恐れて殺そうとします。しかし彼は南に川を渡り、夫余を建国したというのです。チャイナの王族系譜を頼りとしない立派な建国神話ですが、日本のように天地開闢から語りだしたりはしません。
『漢書』には高句麗侯・騶が現れ、王莽に従わなかったため西暦12年に殺されたとあります。朱蒙は彼を装飾して半神的英雄にしたものでしょう。
類似の神話は『史記』殷本紀にも見えます。五帝のひとり帝嚳の次妃である有娀氏の長女・簡狄が、玄鳥(燕)の落とした卵を飲んだところ妊娠して、殷の始祖である契を産んだといいます。戎狄・燕と揃っていますから、たぶん北京付近にあった燕国の始祖神話が後付で殷のものとされたのでしょう。燕の王は周の姫姓を名乗っていますが後付と思われます。鮮卑の檀石槐も殷や夫余と同様の誕生神話を持ち、北狄に広まっていたようです。
清朝の皇室アイシンギョロ(愛新覚羅)氏は、『賢行典例』などに記された伝説によると、始祖をブクリ・ヨンション(布庫里雍順)といいました。ブクリ山(長白山)にある池で三人の天女が沐浴していると、カササギが果実を銜えて来て落とし、末の妹フェクレン(佛庫倫)が飲んで妊娠しました。彼女の産んだのがブクリ・ヨンションだというのです。ただマンジュ族(満洲民族)古来の始祖伝説ではなく(マンジュ族が統合・形成されたのはヌルハチによります)、借りてきたものに過ぎません。
倭国は百済の友好国で、国内に多くの百済人もいましたから、その始祖神話を借用することは考えられたでしょう。しかし高句麗や百済の天命を受け継いだと称するのは問題があります。高句麗の天命は渤海国(震国)が受け継いだと称していますし、百済王族の一部は日本に渡来しているため、日本の天皇が彼らと同祖とすると、百済王族が皇位を狙う可能性もあります。
とすれば、倭王・天皇の始祖は倭地・日本列島に「天から降臨した」と設定しなければなりません。その天は地上のどこかでも海外の国でもなく、文字通りの大空の彼方、雲の上の天上世界でなければなりません。高天原(たかまがはら)です。海の彼方の常世から来たとすれば海外から来たと主張するようなものですし、地底の根の国から来たとすると天皇を名乗れません。
皇祖神話
こうして、まず「倭王・天皇の始祖は天からヤマトに降臨した」という神話ができます。アマクダリ、天子降臨です。繰り返し述べたように隋書倭国伝には「倭王は天を兄とし日を弟とする」とありますから、最初の遣隋使が送られた西暦600年頃には倭王を天の弟(の子孫)とする神話があったのでしょう。天の子だと隋の天子や高句麗王と同格だと思ってそうしたのでしょうか。あるいは推古が敏達・用明らの妹だからでしょうか。
この神話は、先述のようにニギハヤヒ降臨神話に借用されています。天帝に相当する高木神(高い木に依り着く天空神)が自らの子に天命を与え、地上のヤマトへ天降すわけです。そこは三輪山か、飛鳥の近くの天の香具山などに設定されたでしょう。彼は先住民(国津神)の娘を娶り、現在に至るまで連綿と王統が続いた…とすればいいわけです。
しかし、問題があります。倭国・日本にはヤマト以外にも多くの地域大国が存在し、それぞれの王や豪族は別々に始祖神話を持っていたはずです。そこでヤマト王権は彼らに伝わる神話を取捨選択し、「実は先祖はヤマトの王族だ」とか系譜を捏造してつなぎ合わせます。どうせ昔のことを詳しく憶えている人もいませんし、文字記録も少ない時代ですから、支配層同士が合意すれば黒いもんでも白くなります。かくて氏族の序列化が進められました。
さらなる問題は、チャイナの史書に倭国が「チャイナに朝貢していた」と明記されていることです。これに関しては、無視すれば済みます。日本国は天地開闢の初めからチャイナやコリアとは独立して存在し、堂々たる歴史を持つのだ!と臆面もなく言い切ってしまえば、あちらもまあ察してくれます。
とはいえチャイナの史書を見ると、倭国の初期の王は筑紫にいたらしいことは推測できます。特に魏志倭人伝には、ヤマトっぽい邪馬臺國が筑紫めいた国々の遥か「南」にあると書かれており、事情を知らない後世の読者を困惑させたでしょう。そしてそこには卑彌呼という女王が君臨していたというのです。飛鳥時代の倭人や渡来帰化人は、これをどう解釈したでしょうか。
解決策はいくつかあります。まず全部無視すること。倭王ならぬ天皇は最初からヤマトにおり、筑紫にいた地方豪族が不届きにもチャイナやコリアと外交していた、と言外に示せばいいわけです。しかし「天皇とか名乗っていながら地方政権を従わせていなかった」ということになり、やや不都合です。第二は、卑彌呼や帥升らを倭国の正統政権と認定し、天皇はその子孫で後継者だとすることです。チャイナの文献との整合性はつきますが、倭国・日本の独立国としての沽券に関わります。
結果的に、金印や帥升や倭の五王は無視されましたが、卑彌呼や臺與に関しては年代を120年(干支二運)いじって斉明天皇と合体させ、神功皇后という伝説上の存在にして紛れ込ませました。推古・斉明・持統・元明・元正ら女帝が多かったため、「かつて女帝っぽい存在がいた」と架空の前例を作って正統性を主張したのかも知れません。
また持統天皇と草壁皇太子、文武天皇の関係を神話化して、皇祖母神アマテラス・皇太子オシホミミ・皇孫ニニギという三世代の皇祖神が作られます。ニニギにあたる文武の妻は藤原不比等の娘で、彼女が産んだ子が成人と即位を待ち望まれている首(おびと)皇子、のちの聖武天皇ですから、正統な皇位継承者として皇祖神話を用いて強調できます。現政権の有力者である藤原不比等、石上麻呂や天武・持統朝に仕えた群臣の先祖も、神格化されて神話に名を連ね、かくかくしかじかの功績があったとされます。
この過程で、秦氏や漢氏・百済王氏など4世紀以後の渡来帰化氏族は、建国神話から省かれました。彼らは「諸蕃」として別系の氏族神話(秦の始皇帝の末裔とか漢の霊帝の子孫とか)を持つため、倭王・天皇に繋がる家系とはならないよう慎重に区別され、皇后には立てるべきでない、とされました。(すぐに高野新笠という例外が現れましたが)
出雲神話
特に重要視されたのが出雲神話です。出雲は仮想敵国の新羅や筑紫・丹波・越国・東国の豪族たちとも繋がりが深く、ヤマトにも三輪山や葛城などに多くの出雲系の神々を祀っています。これらをヤマトを中心とする国家秩序に取り込むには、神話上で服属させる必要があります。
記紀編纂時の出雲国造は出雲果安(いずもの・はたやす)です。大宝律令によって出雲国司が中央政府から派遣されることになり、国造は統治権を失って地元の神々を祀る名誉職となりました。しかし筑紫宗形君と出雲国造は、神裔として現人神的な崇敬を集めており、無視出来ない存在であったため、大領(郡司)の官位を与えられて地方行政を担いました。出雲国造が授かった官職は、出雲国府がある意宇郡の大領です。
彼は衰退する国造の権威と権力を守るため、盛んに朝廷や豪族、地方の神社へ働きかけたようです。またヤマトには古くから豪族がおり、壬申の乱でヤマトの豪族たちが活躍したため、その先祖たちも神代から皇祖と繋がりがあるとされました。このようにして出雲大神は三輪の大物主神ら多くの地方神(国津神)と同一視され、「天孫降臨以前に地上(葦原中国)を統治していたが、平和裏に国を譲った偉大な神である」ということになりました。
出雲大神の直系はヤマトの有力豪族である三輪氏や葛城鴨氏ということになりましたが、出雲国造はアマテラスとスサノオの子で天孫の叔父である天神アメノホヒの子孫とされました。系譜上は極めて高貴であり、地元でも全国でも箔が付きます。他の豪族も彼を共通祖神とし、あるいはカミムスビなど出雲系っぽい天津神を祖神としました。
霊亀2年(716年)、果安は「出雲国造神賀詞」を奏上し、出雲大神の国譲り神話とアメノホヒの功績を説きました。そして出雲大神は和御魂である大物主を三輪(大神神社)、御子のアジスキタカヒコネを葛城鴨(高鴨神社)、事代主を宇奈提(橿原市の河俣神社)、カヤナルミを飛鳥(飛鳥坐神社)に鎮座させ、皇孫(天皇)の宮の守り神とした、とします。
これらの社は平城京を囲んでおらず、旧都・倭京を囲んでいるため、平城遷都以前から鎮座していたのでしょう。そしてあわよくば倭京へ都を戻すよう願ったのでしょう。三輪氏や鴨氏がこの運動に関わっていたであろうことは論を待ちませんし、倭京留守の石上麻呂も賛同したと思われます。
邪馬台国論争
では、天子ならぬ天孫がヤマトではなく、筑紫の日向に降臨することになった理由を推測しましょう。考えられる有力な理由は、熊襲・隼人らまつろわぬ蛮夷に対して「先祖が同じだから同じ国の民になろう」という共同幻想を創造し、他の地方豪族らと同じく日本国に取り込むためです。
また魏志倭人伝を読む限りでは、邪馬臺國は筑紫島の遥か南、沖縄か台湾あたりにあるように思えます。しかし名は明らかにヤマトです。
帥升の倭国(倭奴国)に代わり倭の女王となった卑彌呼の伝承は、おそらくヤマトにも朧げに残っており、それが倭迹迹日百襲姫命でしょう。彼女の死後、臺與を名目上の倭王として実権を握ったと思われるのが崇神天皇(ミマキイリヒコ・イニエ)で、まさに纏向に宮居した御肇国天皇(はつくにしらす・すめらみこと)と讃えられています。
しかし卑彌呼を実質上の初代倭国王とすると、それ以前はどうだったのか、という話になってきます。当時の倭国・日本でも「筑紫の南と書いてある」「邪馬臺國だからヤマトに決まっている」「帥升の倭国は筑紫にあったはずでは」とお定まりの論争が起き、容易に決着がつかなかったことは想像に難くありません。しかし、ひとつに決めねばストーリーになりません。
これを隼人問題と連動させて「天皇の先祖は筑紫あたりから遷って日向にいたが、ヤマトへ東遷した」という一連の神話が創られたのではないでしょうか。考古学も存在しない時代ですから、朝廷にそう言われれば蓋然性があるようには思えたでしょう。熊襲・隼人の祖は天孫の子とされ、皇室の先祖に服属したのだ、ということになります。つまり天孫降臨や神武東征は「邪馬台国論争」に対する解釈のひとつというわけです。司馬懿の与太話が巡り巡って日本神話の基礎になったと考えると、なんか面白いですね。
高天原は神話上の天上世界ですが、国譲りの話などから、ぼんやり筑紫や南韓にあったかのように読めるようにはなっています。編纂者側がぼんやりとそう推測しつつ、はっきりとは決められなかったのでしょう。
神武東征は実際に起きたことではないと思いますが、建国神話が「海外から渡って来てチャイナに承認された」とか「豪族たちが話し合って決めた」とかいう話では盛り上がりません。血湧き肉躍る征服戦争があり、悪党どもを懲らしめて正統に天下の主になったのだ、とした方が盛り上がるに決まっています。せっかく中央集権の律令制国家を建設しようと頑張っているのですから、ナショナル・アイデンティティを高めるためには必要なことです。
かくて机上で神話が生まれ、卑彌呼は高天原のアマテラス、ヤマトの倭迹迹日百襲姫命、筑紫に遠征した神功皇后などに分裂しました。その実態は神話と憶測に包まれてわからなくなり、今も人心を惑わせています。……というのもつのが勝手に思っているだけですから、あなたは自分で考えて下さい。よしんばそうだとしても、千年以上も信じられてすっかり根付き、国と民族のアイデンティティとなっているのですから、大したものだと思います。
◆Do the◆
◆Evolution◆
少々長くなりました。次回はエピローグとして、天皇(倭王)の系譜上の世代数から設定年代を推測してみましょう。これまでのまとめです。
【続く】
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