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つのpedia

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いろいろな資料集です。ご自由に活用して下さい。
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2021年1月の記事一覧

【つの版】日本建国09・神産みと黄泉

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 高天原から地上に降臨したイザナギ・イザナミの両神の交合により、大八島国(日本列島)が誕生しました。チャイナやコリアから独立した小世界を舞台として、神々による不思議な物語が繰り広げられます。 ◆神◆ ◆話◆ 神産み既生國竟、更生神。(古事記) 『古事記』によると、国産みを終えたイザナギ・イザナミの両神は、次に神々を産み出しました。最初に産まれたのは大事忍男(おおごと・おしお)神です。忍…イクォール、ニンジャ…というわけではないよ

【つの版】日本建国08・日本誕生

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 記紀編纂に至る歴史を長々と見てきました。ここからは、天地開闢から神武東征に至る神話伝説をざっくり見ていきましょう。歴史的な事実ではなくても、なんらかの意図をもってそう書かれたには違いないからです。超古代文明のなんかとかニンジャ真実を見出そうという人はパルプでやって下さい。 ◆創◆ ◆聖◆ テキストテキストは下のものを用います。一応の成立年代を考慮して、古事記を先にして日本書紀を後にしますが、公的には日本書紀の方が正史です。 古

【つの版】日本建国07・日本書紀

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 712年に古事記、720年に日本書紀が完成しました。歴史を追うのはここまでとして、これらの歴史書はどのような意図で、どのような過程で編纂されたのでしょうか。まさにそれを探る新書もありますので、これを読めばだいたいわかります。Wikipediaの日本書紀の記事にも書かれています。 ◆歴◆

【つの版】日本建国06・平城遷都

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 701年に大宝律令が制定され、702年に粟田真人が遣唐(周)使としてチャイナに赴きます。彼は世界帝国の先進文明を学び、704年に帰国しました。この頃持統上皇は崩御しており、まもなく武則天も退位・崩御して唐が復活します。新時代の到来と共に、日本ではさらなる国政改革が進められます。 ◆慶雲◆ ◆機忍◆ 慶雲の改革当時の日本政界の主要メンバーを見てみましょう。持統上皇崩御後、大宝3年(703年)には天武天皇の子・忍壁皇子が「知太政官事

【つの版】日本建国05・大宝律令

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 697年、持統女帝は孫の珂瑠皇子(文武天皇)に皇位を譲り、太上天皇となりました。若き文武に娘を嫁がせたのが、鎌足の息子・藤原不比等です。 ◆鴉◆ ◆鮪◆ 役小角役小角 - Wikipediaja.wikipedia.org

【つの版】日本建国04・藤原宮

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 天武天皇の崩御後、皇位は天武の皇后にして天智の娘である鸕野讃良(うのの・さらら)皇女が継ぐことになりました。これが持統天皇で、推古・皇極/斉明に続く3人目の女帝です。どのような時代になることでしょうか。 ◆藤◆ ◆原◆ 持統天皇

【つの版】日本建国03・瀛真人

ドーモ、三宅つのです。前回(前々回)の続きです。 天武10年(681年)2月、天武天皇は律令制定と国史編纂を命じます。共に重大な国家事業です。特に国史編纂は、過去の歴史を現在の政権に都合よく解釈し書き換えて、後世や諸外国に伝える事ができます。その帰結となるのが720年に完成する『日本書紀』でした。 ◆津◆ ◆波◆ 日本書紀・日本語訳「第二十九巻 天武天皇 下」天武天皇 天淳中原瀛真人天皇 下全てのタイトルに戻る天武天皇即位二年春一月七日、酒を用意して群臣まえつきみに大

【つの版】日本建国・インデックス

ドーモ、三宅つのです。新たにインデックスを作りました。 つのの記事はつのに属しますが、ミームが広がるのは歓迎しますので、紹介したり感想を書いたりする程度はご自由にして下さい。You Tubeとか書籍とかでつのの記事に基づく仮説を披露しても構いませんが、その場合は出典を明記して下さい。つのも参考文献一覧を作りました。 ◆倭京新益編01.天武天皇壬申の乱に勝利した大海人皇子は、飛鳥で即位し天武天皇となります。 02.日本国号

【つの版】日本建国02・日本国号

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 720年に完成した『日本書紀』は、「日本」の名を戴いています。国号は建国の初めから日本とされています。しかし日本列島の人々は古来「倭」と呼ばれ、その国は「倭国」と呼ばれていたはずです。「日本」という地名・国号は、いつから使用が始まったのでしょうか。それとも倭国と日本は別の国なのでしょうか。 ◆日◆ ◆本◆ 倭国 喜田貞吉氏は(邪馬台国は筑後山門にあるとしましたが)、日本という国号の由来についても考察を発表しており、青空文庫に収録

【つの版】日本建国01・天武天皇

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。第三部「倭国から日本へ」は壬申の乱で一区切りとし、今回から第四部「日本建国」とします。 新たにインデックスを作りました。 672年6月末から7月末にかけて、倭国は近江京の大友皇子と不破宮・倭京の大海人皇子の両派に分かれて争いましたが、大海人皇子が勝利を収めて皇位につきました。天武天皇です。 ◆天◆ ◆皇◆ 浄御原宮日本書紀・日本語訳「第二十八巻 天武天皇 上」天武天皇 天淳中原瀛真人天皇 上全てのタイトルに戻る大海人皇子、吉野人

【つの版】倭国から日本へ28・壬申の乱

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 672年壬申1月、天智天皇は近江で崩御しました。子の大友皇子が跡を継ぎますが、出家し吉野へ去った天智の弟・大海人皇子は虎視眈々と皇位を狙い、動き出します。「壬申の乱」の始まりです。 ◆虎◆ ◆視◆ 結果は有名ですからネタバレへの配慮はいいでしょう。大海人皇子は大友皇子の朝廷を打倒し、天武天皇となりました。天武紀は上下に分かれ、上の大部分が「壬申の乱」に当てられています。勝った側の記録ですから公平とは言えませんが、ざっくりと見てい

【つの版】倭国から日本へ27・天智天皇

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 663年8月末、白村江の戦いで唐軍に敗れた倭軍は半島から撤退し、各地に防衛施設を築いて厳戒態勢に入ります。唐はこの間に高句麗討伐を行い、668年にはついに高句麗を亡ぼしました。このような状況下で、中大兄皇子は皇太子のまま称制することをやめ、倭国の大王に即位します。天智天皇です。乙巳の変から20年以上権力の座にあり、40歳過ぎの壮年となっていました。 ◆天地◆ ◆無用◆ 天智天皇皇后は倭姫王といい、彼が粛清した古人大兄皇子の娘です

【つの版】倭国から日本へ26・白村江

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 661年7月、斉明天皇は筑紫朝倉宮で崩御します。中大兄皇子は長津宮(博多)に大本営を遷して百済復興運動を支援し、百済王子豊璋を援軍と共に派遣して王位につけます。これで唐と新羅を完全に敵に回しましたが、唐軍は北を高句麗、南を倭国と百済に脅かされ、潰滅も有り得る状況です。これを打破するためには、唐本国からの援軍が必要となります。 ◆火◆ ◆火◆ 白村江の戦い日本書紀巻第廿七 天命開別天皇 天智天皇 http://www.seisak

【つの版】倭国から日本へ25・朝倉宮

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 西暦660年7月、百済は唐と新羅の連合軍に挟み撃ちにされ、首都を突かれてたちまち滅亡しました。しかし百済の残党は各地で武装蜂起し、祖国復興を企てます。王や王族の多くは唐へ連れ去られたものの、幸い倭国には人質として長年暮らしていた百済の王子豊璋がいました。豊璋と援軍の派遣を要請する使者を迎えた倭国は、宗主国として百済救援を約束します。 ◆朝◆ ◆倉◆ 国際関係は錯綜してややこしいので、年表を参照して下さい。 斉明西征 日本書紀・