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【つの版】日本建国03・瀛真人
ドーモ、三宅つのです。前回(前々回)の続きです。
天武10年(681年)2月、天武天皇は律令制定と国史編纂を命じます。共に重大な国家事業です。特に国史編纂は、過去の歴史を現在の政権に都合よく解釈し書き換えて、後世や諸外国に伝える事ができます。その帰結となるのが720年に完成する『日本書紀』でした。
◆津◆
◆波◆
姓と冠位
天武天皇の行った事績は数多く、いちいち取り上げるのはめんどいのでしませんが、特筆するもののひとつが天武13年(684年)10月に「八色の姓(やくさのかばね)」を制定したことです。
詔曰、更改諸氏之族姓、作八色之姓、以混天下萬姓。一曰眞人、二曰朝臣、三曰宿禰、四曰忌寸、五曰道師、六曰臣、七曰連、八曰稻置。
姓(かばね)とは物部や蘇我といった姓氏ではなく、倭王に仕える人々がどのような職掌・地位を持つかを表示するための称号です。魏志倭人伝にあるヒコ、ヒナモリなどは原始的なカバネですが、次第に複雑化しました。地方豪族は国造・県主・稲置に分けられ、君(きみ)、臣(おみ)、連(むらじ)、直(あたい)、首(おびと)、史(ふひと)といったカバネを持ちました。臣と連のうち有力な中央豪族は大臣・大連となり、蘇我氏や物部氏のように権勢を振るいました。
天武がカバネを新たに定めたのは、これらの序列を整理し、中央豪族と地方豪族を分け、天皇・皇族の地位を固めるためです。八色とはいうものの実際に授けられたのは上位の四姓だけで、守山公ら13の公(きみ、近い皇族)に真人(まひと)、大三輪君・物部臣ら52氏に朝臣(あそみ)、大伴連など50氏に宿禰(すくね)、大和連など11氏に忌寸(いみき)を授けました。古来のカバネも残されましたが、臣は6番目、連は7番目、稲置は8番目と下位に置かれ、天武が授けたカバネがより高位とされたのです。
天武14年(685年)には冠位・位階制度を改革し、爵位の名を改めて階級を増加しました。推古天皇の時の冠位十二階は、大化の改新や天智天皇の改革で次々と増加し、26階にまで増えていました。天武はさらに増やして60階とし、上位12階を諸王以上とし、諸臣は48階に分け、朝服の色も定めました。また上位12階は4つの明位と8つの浄位に分け、皇太子の草壁皇子尊に浄広一位、大津皇子に浄大二位、高市皇子に浄広二位、河嶋・忍壁両皇子に浄大三位を授けました。念入りな序列の付け方です。
大地震
天武紀には妙に地震の記事が多く、特に2つの大地震が記録されています。ひとつは天武7年(679年)12月に発生した筑紫国の地震です。
十二月癸丑朔己卯、臘子鳥、弊天、自西南飛東北。是月、筑紫國大地動之、地裂廣二丈長三千餘丈、百姓舍屋毎村多仆壞。是時、百姓一家有岡上、當于地動夕以岡崩處遷、然家既全而無破壞、家人不知岡崩家避、但會明後知以大驚焉。
12月27日、臘子鳥(あとり)の群れが天を覆い、西南から東北へ飛び去った。この月、筑紫国で大地震があり、地面は幅2丈(6m)、長さ3000余丈(9km余)にわたって裂け、多数の民家が倒壊した。この時、丘の上にあったある民家が、地震のあった夜に丘が崩れ、家ごと移動した。しかし家屋は全く破壊されず、家人は夜が明けてからこれに気づいて大いに驚いた。
詳細な被害状況は不明ですが、地震の前兆現象、断層のズレ、山崩れなどが記されています。『豊後国風土記』によると、天武天皇の戊寅年(679年)に大地震があり、五馬山が崩れて温泉が噴き出したといいます。20世紀末の調査により、震源は福岡県久留米市の水縄(みのう)断層と特定され、断層上の益生田古墳群の円墳4基がこの地震によって倒壊しています。
そして天武13年(684年)10月、全国を揺るがす巨大地震が発生しました。白鳳地震、天武地震とも呼ばれます。
壬辰、逮于人定、大地震。舉國男女叫唱不知東西、則山崩河涌、諸國郡官舍及百姓倉屋、寺塔神社、破壞之類不可勝數。由是、人民及六畜、多死傷之。時、伊豫湯泉、沒而不出、土左國田菀五十餘萬頃、沒爲海。古老曰、若是地動、未曾有也。是夕、有鳴聲如鼓、聞于東方、有人曰「伊豆嶋西北二面、自然増益三百餘丈、更爲一嶋。則如鼓音者、神造是嶋響也。」…十一月…庚戌、土左國司言、大潮高騰、海水飄蕩、由是、運調船多放失焉。
10月14日、入定(亥の時、夜8時から10時)、大地震が発生した。国を挙げて男女が叫び合って逃げ惑い、山が崩れ河が溢れ、諸国の郡の官舎、民の家屋や倉庫、寺塔や神社の破壊されたものは数知れず、人民も家畜も多数死傷した。伊予の道後温泉は埋もれて湯が出なくなり、土佐国では田畑50余万頃(12平方km)が(地盤沈下で)海となった。古老は「こんな地震は未曾有のことだ」と言った。この夕方、鼓の鳴るような音が東方で聞こえた。ある人が「伊豆大島の西北が自然に300余丈(900m)も盛り上がり、もうひとつの島になった。鼓のような音は、神がこの島を造る響きであった」と言った。…11月3日、土佐の国司が「津波が押し寄せて、税を運ぶ船が多数流失しました」と報告した。
明らかに南海トラフ沿いの巨大地震です。頻発する地震記事や679年の筑紫地震は、この前兆に違いありません。天武14年(685年)には信濃国で灰(火山灰)が降り、紀伊国の牟婁の湯(白浜温泉)も湯が出なくなったと報告がありました。紀伊半島はもちろん伊豆諸島や信濃の火山にも影響を及ぼしたのです。地質調査からは東海道沖でも発生したようで、三連動型の巨大地震であった可能性があります。天皇は大震災の被害を受けた各地の租税や労役を免除し、大赦を行い、ブッダを祀らせて加護を祈願しました。
天武崩御
天武14年(685年)9月、天皇は大地震を気に病んでか病気になります。病気平癒を願って各地の寺院で祈祷が行われ、百済人の僧侶らを美濃へ遣わして白朮(おけら)という薬草を求めさせ、煎じ薬を作らせました。胃腸を整え脾臓を強壮にするとかで、胃潰瘍にでもなったのでしょうか。
10月には人を信濃へ遣わして行宮を作らせ、湯治に行こうとしました。しかしあまり遠いのでやめにし、健康長寿を祈る招魂(みたまふり)という術法を行っています。そこそこ元気にはなったようです。
天武15年(686年)5月、天皇の病気が重くなり、川原寺で薬師経を読誦させました。6月に占うと「草薙の剣の祟りである」と出たので、宮中にあった草薙の剣をすぐ尾張国の熱田神宮へ送って安置しました。また寺社に病気平癒・罪業消滅の祭を行わせ、神仏や僧侶に宝物を寄進し、大赦や恩赦や徳政令を行っています。7月20日には数十年ぶりに元号を復活させて「朱鳥」とし、宮を飛鳥浄御原宮と名付けています。いずれも病気平癒を願ってのことでしたが、ついに回復することなく、9月9日に崩御しました。631年生まれとすれば数え56歳です。皇族・群臣は服喪哭泣し、各々弔辞を述べて故人を哀悼しました。
天武天皇の和風諡号は「天渟中原瀛真人(あめのぬなはら・おきのまひと)天皇」です。諱の大海人(おおあま)は摂津国の凡海人氏が養育係(壬生)となったことによるものですが、諡号はこれを意識したものでしょう。瀛はチャイナにおいて東海の彼方にあるとされた蓬莱・方丈・瀛州の三神山のひとつで、真人とは八色の姓の最上位であると共に、三神山に住むという不老不死の神仙のことです。倭国・日本をそう意識していた様子が伺えますが、秦代に三神山を探したという徐福について記紀は何も語りません。
大津皇子の変
さて、天武は生前から草壁皇子を皇太子として指名していました。このままつつがなく彼が皇位を継承すると思いきや、そうではありません。まず天武の皇后にして天智の娘、草壁の母である鸕野讃良(うのの・さらら)皇女が称制(即位せず政務を執る)します。彼女は皇太子を除けば最も尊貴な人物で、27歳の皇太子が即位式を上げるまで皇位を預かる(あるいはそのまま女帝として即位する)という形になるでしょう。朱鳥の元号は廃止されます。
母が蘇我氏ではありますが、蘇我氏はとうに政権の中枢からは遠ざかっています。蘇我赤兄は近江朝の左大臣、果安は御史大夫で、壬申の乱により配流されたり自決したりしており、安麻呂は大海人側についたものの壬申の乱の後に早世しています。
同年10月2日、大津皇子の謀反が発覚し、逮捕されました。さらに八口音橿(やくちの・おとかし)、壱伎博徳(いきの・はかとこ)、中臣臣麻呂(なかとみの・おみまろ)、巨勢多益須(こせの・たやす)、新羅沙門行心(こうじん)、礪杵道作(ときの・みちつくり)ら30余人が一味として逮捕され、翌3日に大津皇子は死を賜りました。時に24歳。妃の山辺皇女は狂乱し、髪を乱し裸足で走り出て殉死したといいます。伊勢神宮の斎宮であった大来皇女は大津の同母姉であったため、連坐して斎宮の任を解かれました。
大津は天武の第三子で、有能で文才に富んだ人物でした。母の大田皇女は天智の娘で皇后の同母姉ですが、天武が即位する前に薨去しています。年齢的にも草壁と近く、権威や権力の上でも匹敵するため、皇后が冤罪によって死に追いやった可能性があります。逮捕された30余人は「大津に欺かれてやむを得なかった」としてほとんどが釈放され、礪杵道作が伊豆へ流刑、行心が飛騨国の寺へ遷されただけでした。政争の一環でしょう。
皇后称制元年(687年)、皇太子や公卿百官が天武の殯宮で慟哭し、儒教の礼儀にのっとって天子の大喪を行います。高句麗・新羅・耽羅・隼人・蝦夷らも弔問の使者を遣わします。称制2年(688年)も服喪期間で、11月にようやく棺を陵に葬りました。いわゆる「三年の喪」に服したわけです。
天武天皇の陵は檜隈大内陵で、明日香村の野口王墓(八角墳)に治定されています。八角墳は天智天皇の山科陵(御廟野古墳)と同じ形式であり、舒明天皇から大王陵は八角墳になっていたようです。
『明月記』『阿不之山陵記』によると、この陵は文暦2年(1235年)に盗掘に遭い、副葬品の大部分が盗まれました。また天武の棺は暴かれ遺骨や髪は散乱しましたが、その脛の骨は1尺6寸(48cm)、肘の骨は1尺4寸(42cm)あったといいます。推定身長は175cmで、当時としては長身です。
いよいよ草壁が即位するかと思えば、皇后は何も言い出しません。大津皇子を始末した事が群臣に反感を抱かせていたのでしょうか。称制3年(690年)4月13日、皇太子の草壁皇子は即位せぬまま27歳で薨去してしまいます。
草壁には妃の阿部皇女(天智の娘、皇后の異母姉妹)との間に珂瑠皇子がおり、氷高皇女・吉備内親王という皇女らもいますが、珂瑠皇子はまだ8歳でしかありません。鸕野皇后はこのまま称制するか中継ぎの女帝となり、珂瑠皇子が成長するまで待つことにします。幸い推古・皇極/斉明と女帝の前例はありますし、皇后にも権力への野心はあったと思われます。
持統天皇
称制4年(691年)元日、物部麻呂が大楯を立て、神祇伯の中臣大嶋が天神寿詞を読み上げた後、忌部色夫知が皇后に神璽の剣鏡を奉ります。皇后は皇位について天皇となり、公卿百官の拝礼拍手を受けました。持統天皇です。
7月、天皇は高市皇子を太政大臣、宣化天皇の玄孫で真人の姓を持つ多治比嶋(たじひの・しま)を右大臣に任じます。高市は天武の長男で、母は持統天皇ではなく、胸形氏の尼子娘という側室です。摂政や皇太子として全権を委任したわけではありませんが、大臣が置かれるのは壬申の乱の後に処刑された近江朝の右大臣・中臣金以来久しぶりです。
かくして天武天皇の崩御後、皇位は天智天皇の娘が継ぐことになりました。推古・皇極/斉明に続く3人目の女帝です。おりしも690年10月にはチャイナで唐周革命が起き、武則天が女帝に即位していますから、なんらかの影響があったことは推察されます。どのような時代になることでしょうか。
◆女◆
◆帝◆
【続く】
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