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【つの版】日本建国02・日本国号

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

720年に完成した『日本書紀』は、「日本」の名を戴いています。国号は建国の初めから日本とされています。しかし日本列島の人々は古来「倭」と呼ばれ、その国は「倭国」と呼ばれていたはずです。「日本」という地名・国号は、いつから使用が始まったのでしょうか。それとも倭国と日本は別の国なのでしょうか。

◆日◆

◆本◆

倭国

喜田貞吉氏は(邪馬台国は筑後山門にあるとしましたが)、日本という国号の由来についても考察を発表しており、青空文庫に収録されています。参考にはなりますので読んでみましょう。

「倭」は古くから、遅くともチャイナの戦国時代には、日本列島を中心として住む人々を指しました。現北京付近を拠点とする燕国が朝鮮半島に勢力を伸ばし、その南部に住む真番や、海の彼方の倭について情報を得たのです。

燕国を併呑した秦は半島に関所を置いて交易路を抑えました。のち燕人の満が平壌に拠って朝鮮王国を建てると真番にも貢納させ、朝鮮を亡ぼした漢の武帝は半島に真番郡を設置し、内地の民を移住させ植民地としました。これが辰韓・弁辰の起源です。倭(倭人)はこれらチャイナの先進文明と交易によって長期間接触し、「文明化」して行ったに違い有りません。

真番(韓)の南部にも多くの倭が住み着いていましたが、あくまで倭が韓地にも住んでいるというだけで、韓=倭というわけではありません。両者には既に政治・文化・言語的差異が存在しました。壱岐や対馬は倭地ですが、金海(狗邪韓国)や巨済島や釜山は倭地とは呼ばれません。互いに人的交流があったとはいえ、海峡の彼岸と此岸は既に別だとみなされていたのです。

倭はにんべんに委ねると書き、従順なさまを表すといいますが、おそらくは彼らの自称にそれらしい漢字を当てはめたものです。古代倭語で「あ」は個人の自称、「わ」は本来は集団の自称(われわれ)でした。「倭奴國」は「わ(われわれ)のくに」が漢字で音写されたものでしょう。

ツシマ(津の島)やヤマト(山の麓・山の戸)のように地形によらず、住人の自称によって地域や民族や国が対外的に総称されるのは、世界的にもよくあることです。また呼称がツシマやヤマトでないのは、チャイナに認知された最初の日本列島側の政権の中枢が、ツシマやヤマトにはなかったことを意味します。倭奴を「ヤマト」と読むことは出来ませんし、倭面土は倭国王の誤記に過ぎません。考古学的にも最初の倭国王(漢委奴國王)は糸島か福岡におり、北部九州と朝鮮半島を結ぶ交易路を牛耳っていた事は明らかです。

しかし、倭奴國が弥生時代の倭地(日本列島)における唯一の王権だったわけではありません。山陰から北陸にかけてはイヅモ、山陽にはキビ、奈良盆地にはヤマト(邪馬臺國)という諸国連合・地域大国が存在しました。対外窓口である倭奴國からの影響はあったにせよ、各々は独自・対等の勢力であり、互いに交流したり争ったりしていました。

弥生時代の国々を過小評価して原始社会と見下すのも、過大評価して既に統一国家が存在したと持ち上げるのも誤りです。現実的に見るならば、少なくとも縄文時代から日本列島各地を結ぶ程度の交易網は存在しました。弥生時代には大量の青銅器が威信財として輸入され鋳直されており、環濠集落や大型の墳墓群を築造する程度には技術が存在しています。そういう社会です。

ヤマト

2世紀末から3世紀初めにかけて、北部九州の倭奴國はチャイナの内乱に伴う交易の中断によって衰え、東方のヤマト(邪馬臺國)を盟主とした、より広域の(日本列島規模の)倭国が形成されました。これについては「邪馬台国への旅」で見てきたとおりです。武力による征服というより、支配層同士の談合によって諸国が連合・同盟したものですが、ある程度の武力行使もあったでしょう。北部九州(伊都國)にはヤマトの代官として一大率が駐留し、内外に睨みをきかせました。

この体制は紆余曲折を経ながらも継続し、ヤマトに都を置く倭王は倭国連合の盟主として権威と権力を集め、倭は「ヤマト」という倭語を当てて読まれるようになっていきます。倭王が本来のヤマト(奈良盆地東南部)の地を離れ、佐紀や河内、宇治や近江に宮を遷した場合でも、その政権は一続きのものと見なされました。712年に完成した『古事記』において、神武天皇は神伊波礼毘古(かむやまと・いわれびこ)命、ヤマトタケルは建(やまと・たける)命と表記され、倭と書いてヤマトと読ませています。倭・大倭は奈良盆地東南部を指すと共に、倭国全体を指す国号となってもいます。

しかし720年完成の『日本書紀』は、自ら「日本」の名を戴いています。国号は最初から「日本」とし、神日本磐余彦(かむやまと・いわれびこ)天皇や日本武(やまと・たける)尊、日本人(やまとのひと)のように、日本と書いて無理やり「やまと」と読ませています。も「やまと」と読ませてはいますが、奈良盆地やその東南部に対して用い、チャイナやコリアの史料を引用する時も極力「倭」を「日本」に置き換えています(置き換えていない場合でも、倭王を倭皇とするなど小細工を弄しています)。とすると古事記編纂時には日本の国号はなく、日本書紀編纂時に現れたのでしょうか。

日本

「国号を倭国から日本と改める」という勅令や法令は現存せず、いつからそうなったのか判然としません。では、チャイナの史料を確認しましょう。

945年成立の『旧唐書』では、倭国と日本を分けています。貞観22年(648年)、新羅の使者に随行して唐へ使者を派遣したのを最後に、倭国条は終わっています。それに続いてこうあります。

日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云、日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云、其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外即毛人之國。長安三年、其大臣朝臣真人來貢方物。
日本国は、倭国の別種である。その国は日の辺(そば)に在り、故に日本をもって名とした。或いはいわく、倭国は自らその名が雅(みやび)でないのを悪(にく)み、改めて日本とした。或いはいう、日本はもと小国で、倭国の地を併せた。その人で入朝する者は、多く自ら誇って大とし、実をもって対さない(本当のことを言わない)ので、中国では(本当かどうか)疑っている。またいうには、その国界(境)は東西南北が各々数千里、西と南の境はみな大海に至り、東と北の境は大山(奥羽山脈?)をもって限りとし、山の外はすなわち毛人(蝦夷)の国である。長安3年(703年)、その大臣の朝臣真人が来て、方物を貢いだ。

倭国と日本の関係について、複数の異説が併記されています。1つ目は日本国が倭国の別種で、もともと日に近い(東にある)からそのような名であったという説。2つ目は倭国が日本と改称したとする説。3つ目は、もともと小国であった日本が倭国を併合したとする説です。2つ目の説が定説となっていますが、他の説も検証してみましょう。

魏志倭人伝によれば、女王国(邪馬臺國)の東に海があり、千里渡った先に倭種の国があります。後漢書ではこれを拘奴国とみなしますが、魏志倭人伝では狗奴国とは別です。もし邪馬臺國・倭国が九州だけに存在したなら、東海の彼方の倭種の国とは西日本のどこか(中四国か畿内)になりますし、ヤマトにあったのなら伊勢湾の彼方、東海地方になります。それが倭国の東にあって「日本」と名乗り、倭国を征服したということになります。

九州王朝説はさておき、壬申の乱の経過を見るならば、大海人皇子は吉野から伊勢・尾張・美濃へ赴き、不破に宮を置いて近江朝廷を亡ぼしています。「倭国の別種である東の小国」が、倭国の王を倒して併呑したと言えなくもありません。天武は天智の弟ですから易姓革命が起きたわけではありませんが、東から倭国の大王を攻め亡ぼして都を遷した(戻した)こと、中央集権を進め律令制定や国史編纂を命じたことなどから、「新たな王朝」を建てるという気分があったとしても不思議ではありません。

1060年成立の『新唐書』を見てみると、こうです。

天智死、子天武立。死、子總持立。咸亨元年、遣使賀平高麗。後稍習夏音、惡倭名、更號日本。使者自言、國近日所出,以爲名。或云日本乃小國、爲倭所并、故冒其號。使者不以情、故疑焉。又妄誇其國都方數千里、南、西盡海、東、北限大山、其外即毛人云。長安元年、其王文武立、改元曰太寶、遣朝臣真人粟田貢方物。
天智が死に、子(弟)の天武が立った。(天武が)死に、子(妻)の総持(持統)が立った。咸亨元年(670年)、使者を遣わして高句麗を(唐が)平定したことを祝賀した。のち少しく夏音(中国語)を習い、倭の名を悪(にく)み、国号を更新して日本とした。その使者が自ら言うには、その国は日の出る所に近く、もって名としたと。或いはいう、日本はすなわち小国で、倭の併合する所となり、ゆえにその号を冒した(倭が日本を征服してその名を奪い、我がものとした)と。使者は詳しい情報を持たず、疑わしい。またみだりに誇っていうには、その国は都を中心として方数千里あり、南と西は海で尽き、東と北は大山を限りとし、その外は毛人であるという。長安元年(701年)、その王の文武が立ち、太宝(大宝)と改元し、朝臣真人粟田を遣わして方物を貢いだ。

情報が錯綜し混乱していますが、670年時点ではまだ倭国だったようです。『三国史記』ではこの年に日本と改めたとしますが早合点です。いつから日本と名乗るようになったかはっきりしませんが、『旧唐書』に日本国の使者が初めて来たのは長安3年(703年)とあり、これは『続日本紀』によれば文武天皇の大宝3年です。実際、この年には粟田真人が唐に遣わされており、記録もあります。ただしこの時、唐は存在しませんでした

唐周革命

弘道元年(683年)、唐の天皇・高宗は崩御し、太子の李顕が即位します(中宗)。彼の母は天后・武則天(武后)ですが、母の権力を制するため韋皇后の外戚に頼り、武后は即位後わずか55日で中宗を廃位し、その同母弟である李旦(睿宗)を擁立します。

唐の皇族は次々と挙兵しますが粛清されてしまい、載初2年(690年)には睿宗も廃位され、武后が自ら帝位について聖神皇帝と号し、国号を「」と改め、天授と改元します。チャイナ史上空前絶後の女帝です。睿宗は李姓に替えて武姓を与えられ、皇太子に格下げされました。この王朝は姫氏の周や宇文氏の周(北周)と区別するため、武氏を冠して「武周」と呼ばれます。

朝廷・宮中は混乱したものの、武后が実権を握ってきた時期は既に長く、有能な臣下が国政を担っていたため、易姓革命は平和裏になされました。国内外も意外と安定し、繁栄していたといいます。とはいえチャイナに女帝が出現し易姓革命したインパクトは大きく、倭国はこれを契機として「日本」と国号を改めたのかも知れません。

大宝元年と言えば、686年以来久しぶりに元号が定められ、大宝律令が完成した年です。おそらくこの律令において倭国は日本と改められ、また倭王は唐を真似て公的に天皇と名乗ったのでしょう。

考古学的には、明日香村飛鳥池遺跡北地区から「天皇聚露忽謹」と書かれた木簡が出土しています。伴出木簡には庚午(670年)・丙子(676年)・丁丑(677年)の干支が記載されており、天智末年から天武初年のものと思われますから、天皇号の使用は日本の国号より早かったようです。しかしこれが天武を指すものかどうか判然とせず、露を集めるのは道教の術法ですから、道教の天帝である天皇大帝を祭るものかも知れません。

日本はともかく天皇と名乗れば唐や周の反感を買うため、属国扱いの新羅や耽羅、国内向けの称号だとは思いますが。日本という国号もすぐには定着せず、唐からは倭国扱いですし、古事記ですら自国を倭国と表記しています。

801年に完成した唐の『通典』では「倭、一名日本。自云、國在日邊、故以爲稱。武太后長安二年、遣其大臣朝臣真人、方物」とし、異説を廃してすっきりしています。旧唐書で異説が増えたのは伝聞を収録したのでしょうか。

倭王改め日本の天皇は、唐や周の天子と「同格」の天子、独立国の君主と自らを定義しました。チャイナの南朝や唐の皇統を継いだとか、百済・高句麗の跡を継いだのではなく、チャイナとは別の天下で天命を受け天子となったのです。既に「治天下大王」の称号があり、「アメタラシヒコ・オホキミ」の称号があり、「日出処の天子」と称していましたから、一歩進めて唐風にしただけです。周が怒って遠征軍を送り込もうとしても、新羅が邪魔をしてくれますから、国内で勝手に名乗る程度なら大丈夫でしょう。後のベトナム(大越・越南)の国王も、国内では皇帝を称しています。

この100年ほど後、西ヨーロッパではフランク王カールが「ローマ皇帝」に即位しています。当時は正統なローマ皇帝である東ローマ皇帝がいたのですが、797年にローマ帝国初の女帝エイレーネーが立ったため「正統なローマ皇帝の位は絶え、空位になった」とローマ司教(教皇)が勝手に喧伝し、自らの庇護者として西ヨーロッパ最強国の王を皇帝に立てたのです。東ローマ帝国は抗議しますが、言ったもん勝ちです。この帝位が神聖ローマ皇帝へと繋がり、ローマ司教は教皇として西ヨーロッパの聖職者に君臨することになります。状況としては倭国の大王が天皇を号したのに似ていますが、日本は別に唐の帝位を継いだと自称したわけではありません。

禰軍墓誌銘

なお2011年、陝西省西安市で唐に仕えた百済人「禰軍」の墓誌が出土しましたが、その銘文中に「日夲」という文字がありました。彼は『日本書紀』天智紀にも登場し、664・665年に郭務悰・劉徳高らと共に倭国へ遣わされています。ついでに見ていきましょう。

大唐故右威衞將軍上柱國祢公墓誌銘
http://www.seisaku.bz/rekidai_waden/140_neikouboshi.html
公、諱軍、字温、熊津嵎夷人也。其先與華同祖、永嘉末、避亂適(遼)東、因遂家焉。若夫巍巍鯨山、跨清丘以東峙、淼淼熊水、臨丹渚以南流。浸烟雲以樆英、降之于蕩沃、照日月而榳惁、秀之于蔽虧、霊文逸文、高前芳于七子、汗馬雄武、擅後異于三韓、華構増輝、英材継響、綿圖不絶、奕代有聲。曽祖福、祖誉、父善、皆是本藩一品、官號佐平。併緝地義以光身、佩天爵而懃國。忠侔鉄石、操埒松筠。笵物者、道徳有成、則士者、文武不堅。公狼輝襲祉、鷰頷生姿。涯濬澄陂、裕光愛日、干牛斗之逸気、芒照星中、博羊角之英風、影征雲外。

禰軍の先祖は「華と同祖(中国人)」で、晋代に永嘉の乱を逃れて朝鮮半島に赴いたと書かれています。先祖代々百済に仕えました。問題は次です。

去顕慶五年、官軍平本藩日、見機識変、杖剣知帰、似由余之出戎、如金磾子之入漢。聖上嘉嘆、擢以榮班、授右武衛滻川府折沖都尉。于時日夲餘噍、拠扶桑以逋誅、風谷遺甿、負盤桃而阻固。
去る顕慶5年(660年)、官軍(唐軍)が本藩(百済)を平定した日、禰軍は機を見て意識を変え、剣を杖突いて帰るところを知り、(秦代に)由余が西戎を立ち去り、(匈奴の)金日磾が漢に入ったように、唐に降った。天子は喜び、彼を武官に任命した。時に日本の餘噍(「食べ残し」の意、残党)が扶桑に拠って誅を逃れ、風谷の遺甿(遺民)は盤桃を負って阻み固めた。

日本に対して扶桑、風谷に対して盤桃が出てきます。これは『山海経』などに見える東方の彼方の伝説の地名で、百済をなぞらえて雅称したものです。漢文ではよくこうした文飾を用います。660年にはまだ倭国は百済へ出兵していませんから、日本の餘噍・風谷の遺甿とは明らかに「百済の残党」を意味します。扶桑や盤桃は樹木ですから、国というか居城でしょうか。あるいは百済の残党が頼った倭国の雅称でしょうか。

萬騎亘野、與蓋馬以驚塵、千艘横波、援原虵而縦濔。以公格謨海左、亀鏡瀛東、特在簡帝往尸招慰。公侚臣節而投命、歌皇華以載馳。飛汎海之蒼鷹、翥凌山之赤雀。決河眦而天呉静、鑑風隧而雲路通。驚鳧失侶、済不終夕、遂能説暢天威、喩以禍福千秋。僭帝一旦称臣、仍領大首望数十人将入朝謁、特蒙恩詔授左戎衛郎将。少選遷右領軍衛中郎将兼検校熊津都督府司馬。
万騎が野を埋め尽くし、軍馬が塵をまきあげ、千艘の軍船が波を横切って、原虵(蛇、賊徒)を援け、ほしいままに満ち溢れた。公(禰軍)は海左・瀛東(唐から見て大海の東、百済)を鑑みて謀をめぐらし、云々。

ごちゃごちゃしていますが、百済の残党が倭国と組んで唐に逆らったのを平定するのに功績があり、熊津都督府の司馬になったことを記しています。一旦称臣した「僭帝」とは倭国の王ではなく、新羅の王をいうのでしょうか。

材光千里之足、仁副百城之心。挙燭霊臺、器標于芃棫、懸月神府、芳掩于桂符。衣錦昼行、富貴無革。雚蒲夜寝、字育有方。去咸享三年十一月廿一日詔授右威衛将軍。局影彤闕、飾恭紫陛。亟蒙榮晋、驟暦便繁。方謂克壮清猷、永綏多祐。豈啚曦馳易往、霜凋馬陵之樹、川閲難留、風驚惊龍驤之水。以儀鳳三年歳在戊寅二月朔戊子十九日景午遘疾、薨于雍州長安県之延寿里第。春秋六十有六。

咸享3年は672年、壬申の乱の年です。儀鳳3年(678年)に66歳で逝去したとあり、これも天武天皇の頃にあたります。確かに「日本」の文字は出て来ますが、百済を遠回しに言ったものに過ぎず、倭国を指すものではなさそうです。ただ日本・扶桑といった表現が唐から見て大海の東、朝鮮半島やその向こうの倭国を指すようになっていたかも、という程度です。

遣隋使は「日出処の天子」云々の国書を煬帝に献じており、倭国がチャイナや半島から見て東の国だと自認していたのは確かでしょう。百済人・韓人・秦人・漢人も大勢渡来帰化していますから、彼らが倭国を(あるいは倭国の東部地域を)「日本」と呼んだ可能性はあります。「ひのもと」は日本という漢語に倭訓をそのまま当てた呼び方に過ぎないでしょう。

禰軍と同じく唐に仕えた百済人では黒歯常之がいます。彼は唐の将軍として吐蕃や突厥と戦い大功を建てましたが、689年に冤罪により殺されました。唐は突厥・靺鞨・契丹・高句麗など他国出身の人物も積極的に活用しており、非常に国際的な帝国でした。これは安史の乱の原因でもあります。

こうして見ていくと、確実に「日本」の国号が現れる(チャイナに記録される)のは703年です。そして701年の大宝律令によって定められた可能性が高く、同時に君主号も倭王から「天皇」に改められたと見てよいでしょう。天武や持統の時代にはあったとしても定着せず、720年の『日本書紀』をもって定義が完成したと考えられます。

天皇には「すめらみこと(須明樂美御德)」の倭訓があてられましたが、これは「統べる尊」の意…ではないようです。皇極/斉明が盛んに須弥山(su-meru)の模型を造っていましたから、これと関係があるとも(真面目に)言いますが、現在に至るまで判明していません。

次回は、天武の晩年に戻ります。以後、日本書紀完成までで一区切りとし、最後に記紀神話の構成と神武東征について考察します。

◆日◆

◆本◆

【続く】

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