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【つの版】倭国から日本へ26・白村江
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
661年7月、斉明天皇は筑紫朝倉宮で崩御します。中大兄皇子は長津宮(博多)に大本営を遷して百済復興運動を支援し、百済王子豊璋を援軍と共に派遣して王位につけます。これで唐と新羅を完全に敵に回しましたが、唐軍は北を高句麗、南を倭国と百済に脅かされ、潰滅も有り得る状況です。これを打破するためには、唐本国からの援軍が必要となります。
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白村江の戦い
日本書紀巻第廿七 天命開別天皇 天智天皇
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_27.html
まず日本書紀を見ていきます。太子称制/天智2年(663年)2月、新羅が百済南部の4州を焼き、徳安(忠清南道論山市)などの要地を奪いました。このため豊璋と鬼室福信は避城から州柔(周留、忠清南道瑞山市)へ戻ります。百済は倭国へ使者を遣わして状況を伝え、唐の捕虜・続守言らを送ります。彼は後に日本書紀を編纂することになりました。
3月、上毛野稚子、間人大蓋、巨勢神前訳語、三輪根麻呂、阿倍比羅夫、大宅鎌柄らを将軍とし、2万7000人を率いて新羅を討たせました。倭国にそれほどの出兵能力があるとも思えませんので、10分の1して2700人ほどでしょうか。彼らは6月に沙鼻・岐奴江の2城を奪いましたが、豊璋は讒言を信じて鬼室福信が謀反の心を抱いていると疑い、ついに斬ってしまいます。唐の工作員による分断作戦でしょう。豊璋は長年倭国でのほほんと暮らしており、戦地での行動に不慣れだったのかも知れませんが、致命的な失敗です。
8月13日、新羅は鬼室福信の死を知って州柔城へ攻め寄せます。豊璋は「倭国の援軍が来るから安心せよ。私は自ら出かけて白村江(錦江河口)で迎えよう」と諸将に告げます。17日に新羅軍が州柔を囲み、唐は軍船170艘を率いて白村江に陣取り、倭軍を迎え撃ちます。27日、倭の水軍の先発隊が唐の水軍と戦いますが、不利となって退き、唐は陣営を堅くして守ります。
28日、倭の将軍たちと百済の王は会見し、「我らが先を争って攻めれば、敵は自ずから退こう(我等爭先、彼應自退)」と楽観的な作戦を立てました。そして倭軍が隊列を乱しながら攻めかかると、唐軍は整然と左右に分かれて倭軍を挟み撃ちにし、たちまちのうちに揉み潰してしまいます。多くの倭兵が溺死し、倭船は船の舳先を巡らして撤退することも叶わず、倭の将軍・秦田来津は必死に戦って数十人を殺したものの戦死します。豊璋は倭国を見限り、数人と共に船に乗って高句麗へ亡命してしまいました。
更率日本亂伍中軍之卒、進打大唐堅陣之軍、大唐便自左右夾船繞戰。須臾之際官軍敗績、赴水溺死者衆、艫舳不得𢌞旋。朴市田來津、仰天而誓、切齒而嗔、殺數十人、於焉戰死。是時、百濟王豐璋、與數人乘船逃去高麗。
9月7日、州柔城は唐に降伏します。百済の遺民の一部は弖礼城へ逃亡し、倭国の水軍と百済軍の残党に合流して、倭国へ去っていきました。完膚なきまでの敗北です。ではチャイナ側の史料からも見てみましょう。
『旧唐書』等によれば、泗沘を守る熊津都督の劉仁願は唐へ援軍を要請し、唐は山東半島の諸州から兵7000人を集め、孫仁師を将軍に任じて熊津へ派遣しました。この頃、鬼室福信は兵権を専らにしていたので、扶餘豊(豊璋)は侮られていると感じて彼を疑い、殺してしまいました。豊は高句麗と倭国に援軍を求め、唐軍を防ごうとしましたが、孫仁師は高句麗の援軍を撃破して熊津に合流し、唐・新羅連合軍の士気は大いにあがります。
ここにおいて孫仁師、劉仁願、新羅王の金法敏(文武王)は陸軍を率いて進み、劉仁軌と杜爽、百済の太子であった扶餘隆は水軍と糧船を率い、熊津江から白江(白村江)に進んで陸軍と合流し、周留城(州柔)を攻撃します。劉仁軌は豊らの軍と白江の河口で遭遇し、四回戦ってみな勝利をおさめ、その船400艘を焼きました。敵軍は大いに敗れ、豊は身一つで逃走します。
仁軌遇扶余豐之衆于白江之口、四戰皆捷。焚其舟四百艘、賊衆大潰、扶余豐脫身而走。
互いの兵の数は定かでありませんが、戦勝報告は敵側の被害を実数の10倍に誇張して書くのが古来のならわしですから、船400艘は40艘の誇張でしょうか。孫仁師の援軍が7000、日本書紀によれば唐の水軍170艘(17艘では少なすぎるのでたぶん実数)、倭の兵が5000+2700として7700。百済側の兵をあわせても2万近くはいたでしょうか。ともあれ、それほど大規模な戦闘でもなかったのではないかと思われます。
偽の(百済)王子の扶餘忠勝と忠志らは兵士や女、倭衆を率いて唐に降り、百済の諸城もみな再び帰順しました。そして孫仁師と劉仁願らは帰還し、唐は劉仁軌を代わって鎮守とし、兵を率いさせました。また扶餘隆を熊津都督に任じて百済の旧領を治めさせ、新羅と和親して旧百済の国民を集めさせることとしました。唐の直轄支配だと反発が起きるので、百済王族を名目的な統治者に据えて人心の安定を図ったわけです。
こうして白村江の戦いは終わり、百済復興運動は挫折しました。倭軍は唐軍に敗れて半島から去り、百済の遺民を率いて倭国へ戻りました。これにより多くの百済人が倭国に渡来帰化するに至りましたが、百済人の多くは旧百済領に居残り、唐の支配下に入ることとなります。百済人がひとり残らず倭国に移住したわけではありません。
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敗北の原因はなんでしょうか。まずもって百済が新羅を侵略し、高句麗と手を組んで唐に敵対したことです。いかに唐が海の彼方とはいえ、山東半島から黄海を渡って大軍を派遣することぐらいは可能ですから、位置的に友好関係を結んでおかねばいつかは滅ぼされます。百済復興運動が起きるのは当然としても、唐は大帝国として充分な軍事力を持ち、半島や列島で小競り合いしていた程度の百済や倭国がおいそれと勝てる相手ではありません。海の彼方に現代アメリカでもあれば話は別ですが、倭国では無理です。
厳戒態勢
さて、負けてしまったものは仕方ありません。また百済は滅び、復興運動は頓挫したものの、倭国そのものが侵略され征服されたわけではありません。ただ遠征軍が敗れただけです。とはいえこのままでは倭国は世界から孤立します。友好国といえるのは高句麗だけですが、百済も新羅も唐側ですから、そうそう手を組むわけにもいきません。皇太子はどうするのでしょう。
太子称制/天智3年(664年)2月、筑紫から畿内に戻っていた皇太子は、弟の大海人皇子と共に国政改革に乗り出します。冠位を増設し、氏族を整備して豪族たちの協力をとりつけ、挙国一致で国防にあたります。3月には百済王族の善光らを難波に住まわせ、百済からの難民を統率させました。
5月17日、唐の百済鎮将として再任した劉仁願は朝散大夫の郭務悰らを倭国へ遣わし、書状と品物を贈りました。書状の内容は伝わりませんが、百済を支援して唐に歯向かったことを問責し、百済からの亡命者を差し出すよう命じたものに違いありません。郭務悰らは倭国に饗応された後、12月に帰還しました。この頃、高句麗では大臣蓋金(淵蓋蘇文)が薨去します(666年とも)。指導者を失った高句麗は混乱し、唐は攻勢を強めました。
皇太子は唐による倭国侵攻を警戒し、対馬・壱岐・筑紫に防人(さきもり)と烽(とぶひ、狼煙台)を設置しました。これらは645年の「大化の改新」で既に設置したと記されていますが、実際にはこの時からです。また筑紫に大きな堤を築いて水を貯え、水城(みずき)という防衛施設としました。
これは福岡県太宰府市・大野城市・春日市にまたがって築かれたもので、福岡平野と筑紫平野を結ぶ谷あいを城壁で遮断し、大宰府を大本営として国土防衛にあたるための施設です。東西に門が作られ、街道が通っていました。
称制4年(665年)2月、皇太子の妹の間人太后(孝徳天皇の皇后)が薨去し、翌月彼女のために330人を出家させました。また百済の官位の階級を検討して百済の遺民に冠位を授け、鬼室福信の子の集斯を小錦下としました。また近江国神崎郡に百済人の男女400人余りを住まわせ、田を与えました。
8月、百済の達率らを西国へ遣わし、長門国と筑紫国に城を築かせました。このうち筑紫に築かれたのが大野城と椽城(きいのき、基肄城)で、肥後国菊池郡の鞠智城(くくちのき)も考古学調査によればこの頃に築造されたようです。岡山県総社市の鬼ノ城や、北部九州から瀬戸内に存在する神籠石(こうごいし)と呼ばれる石垣遺跡も、みな白村江の戦以後に築造された防衛施設に他なりません。これらの城の築造は百済の遺民が行ったため、当時の百済の様式を残しています。同年、耽羅が使者を遣わしました。
これらの城(き)の由来は時代が経つにつれて忘れられ、中世には総社の城が鬼ノ城(きのじょう)と呼ばれています。そして「百済王子の温羅が築いた」「温羅は鬼で、吉備津彦に退治された」といった伝説が付け加えられ、桃太郎の鬼退治伝説に発展した…のかも知れません。
9月23日、唐が朝散大夫の劉徳高と郭務悰、百済人の禰軍ら254人もの使者を遣わして来ました。彼らは瀬戸内海を進んで難波津に入り、10月11日には宇治で閲兵式を観せられ(倭国の示威行動です)、11月13日に饗応を受けたのち、12月14日に下賜品を受け取り、送使を付けられて帰国しました。使者の目的は、倭国王を問責し、友好関係を結び、百済人の返還は無理としても対高句麗作戦の邪魔をするな、と告げに来たに違いありません。倭国側にはもはや出兵の意志もなく、返答使を送って詫びを入れたようです。
称制5年(666年)正月、高句麗と耽羅が使者を遣わし朝貢しました。高句麗は10月にも使者を遣わして来ており、新羅や百済への出兵を願ったものと思われます。この年、百済人の男女2000余人を東国へ遷し、3年間国費によって食糧を支給しました。畿内や西国に置いておくと百済復興を諦めきれない人々が騒動を起こすやも知れず、フロンティアである東国へ送って新天地を開拓させたのでしょう。半島情勢に下手に介入しては危険です。
称制6年(667年)2月、斉明天皇と間人太后を小市岡上陵に合葬し、皇太子の娘で大海人皇子の妃である大田皇女をその陵の前の墓に葬りました。高句麗・百済・新羅の使者は哀悼を捧げ、皇太子は群臣に対して「万民を憐れむために石槨の役(石室墳墓造営の労役)を起こさない。願わくば永代にわたり手本とするよう」と告げました。古墳の時代は終わりを告げたのです。
3月19日、都を飛鳥(倭京)から遥か北、近江国大津(滋賀県大津市)に遷しました。天下の人民は喜ばず不平不満の声を上げ、夜昼となく出火(放火)事件が起きるなど騒然としました。皇太子は6月に山背国葛野郡(京都盆地)から白燕を奉らせたり、7月に耽羅から朝貢使を迎えたりして鎮めようとしますがうまくいかず、8月には飛鳥に戻っています。
11月9日、劉仁願は司馬法聡らを遣わして倭の返答使を筑紫都督府(筑紫大宰府)へ送りますが、唐使は畿内へ向かうことなく13日に帰国し、倭はまた送使をつけています。倭国はヤマトに高安城、讃岐に屋島城、対馬に金田城を築いて警戒し、また耽羅使に多くの品物を下賜しました。
高句麗滅亡
倭国が出兵することなく防備を固めている間に、唐はいよいよ高句麗討伐にとりかかります。百済滅亡を記念して664年に元号を麟徳と改め、新たな暦(麟徳暦)も制定したのち、666年には乾封と改元します。
この頃高句麗では長年国を支えてきた淵蓋蘇文が薨去し、その子ら(男生・男建・男産)は権力を巡り争う有様でした。乾封元年(666年)に王の高藏(宝蔵王)は子を唐に入朝させていますが、実権はありません。
男生は弟らに敗れて国内城(吉林省集安)に逃げ、靺鞨・契丹と手を結び、唐へ子の献誠を送って助けを求めました。喜んだ唐は契苾何力・龐同善を派遣して救出させます。男生は唐に亡命すると特進・遼東大都督・平壌道安撫大使に任命され、玄菟郡公に封じられました。11月、高宗は隋末以来の老将李勣を遼東道行軍大総管に任命し、高句麗討伐を命じます。
乾封2年(667年)2月、李勣は遼河を渡って高句麗領に入り、西境の要地である新城の南西に陣営を構え、じわじわと攻撃します。城内が逼迫して降伏者が出るようになってから攻め取ると、王の高藏と男産は使者を遣わして降伏しますが、男建は降伏を承知せずに王や男産らを捉え、平壌に籠城して抵抗しました。そこで高宗は薛仁貴を派遣して李勣の麾下に入らせ、薛仁貴は高句麗軍を各地で破ります。新羅や熊津都督府(旧百済領)からも援軍が派遣され、高句麗を挟み撃ちにします。
乾封3年(668年)3月、唐は総章と改元します。9月に李勣は平壌の南に陣営を遷し、男建は抗戦しますが勝てず、ついに僧の信誠が裏切って唐に城門を開きます。唐兵は一挙に突入し、平壌は火の海となり、男建はもはやこれまでと剣で自決しますが死ねず、王と共に生け捕りにされました。ここに高句麗は建国以来700年あまりの歴史に幕をおろしたのです。
12月、捕虜たちは長安へ送られます。男建は抵抗した罪により黔州(重慶)へ流刑にされますが、王の高藏は政権を奪われていたことから許され、男産と共に名誉職を与えられます。男生は唐に協力したことから最も評価され、右衛大将軍の官位を授かり、汴国公に封じられました。なお『資治通鑑』では豊璋もこの時に捕らえられ嶺南(広東)へ流されたとしますが、新旧唐書では高句麗へ逃げたあと行方不明のままです。
高句麗の旧領は5部に分けられ、176城があり、戸数は69万7000でした。1戸5人とすると348.5万人で、百済とは違い大国ですから実数と思われます。唐はこの地に安東都護府を置き、9つの都督府と41の州、100の県を設置して、旧高句麗の貴族らを都督や刺史に任命します。都護には魏哲、次いで薛仁貴が任命されています。李勣は高句麗平定の翌年に76歳で薨去しました。
なお663年4月、唐は新羅に鶏林都督府を置き、新羅王を都督に任じているため、名目上ですが朝鮮半島における独立国はなくなり、全て唐の版図になりました。倭国は大唐帝国と海峡を挟んで接することになったのです。
日本書紀によれば称制7年(669年)正月、あるいは6年(668年)3月に、中大兄皇子は称制をやめ、天皇(倭国の大王)に即位しました。これが天智天皇です。タイミングからして百済と高句麗の滅亡が関係しているに違いありません。この多難な国際状況下で、彼はどのようにするのでしょうか。
◆戦◆
◆飽◆
【続く】
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