人はなぜ戦場に行ったのか『明治・大正・昭和軍隊マニュアル』一ノ瀬俊也
軍隊に入りたい人はいても、戦場に出たい人はいないと思います。もし、自分が死んだり怪我したりせず、必ず手柄をたてられるなら別ですが、そんな保証はどこにもありません。できれば避けたい軍隊、兵役。
でも、召集令状が家族に来たら「名誉なことです」と言わなければならなかったし、令状をうけとった本人も「お国のためにがんばります」といわないといけなかった時代。実は、この手の発言には、全部マニュアルがあったというから驚きです。
村の誰かに召集令状が届いたら、その人の出征を激励するための演説をしなければいけません。そして、送り出される青年も入隊に向けた心意気を、大勢の前で挨拶する必要があります。明治時代以降、『挨拶・識字文例集』や『手紙の書き方』は、季節の挨拶とか冠婚葬祭だけでなく、軍隊にいる家族や、村に残された家族に手紙を出す模範例文集が売られており、人々はそれをお手本に手紙を書いたのだとか。
それどころか、軍隊に入る前にはどういう準備が必要か、軍隊ではどうやって生活するのかといったマニュアル本まで多数出版されて、売られていたとのこと。兵隊を逃れる免役についてとか、万が一の場合の奥さんの財産相続への対応までマニュアルがあったそうで、本当に驚くことばかりです。著者の一ノ瀬先生によれば、これらのマニュアル本の内容は、ざっくり分けて3種類。
①入営した兵隊のための兵営事情案内・軍隊教科書
②軍隊・戦場にいる兵士と一般人がやりとりする手紙の例文集
③兵士の入営・凱旋・葬儀のときの式辞・挨拶模範
一般的な戦前の日本軍のイメージは、上官に理不尽ないじめを受けるとか、体罰や暴力が日常的だったというものですが、これは当時も同様だったようで、理不尽だが我慢してやり過ごせば出世できるとか、軍隊の経験は学校のように社会に復帰して役立つとか、そういう入隊前の人を安心(?)させるようなマニュアル本もあったとか。
つまり、村で農民をしていたとか、町で商売をしていた人のところに、ある日突然やってくる兵隊としての召集令状。そういうときに、自分を納得させて、なおかつなるべく軍隊で無難に努めを果たして、帰郷できるように、人々が買い求めたのがこれらのマニュアル本だったというわけです。
インターネットのある今なら、こういう古書集めも比較的ラクですが、ネットのない時代から軍隊マニュアル本を収集していた一ノ瀬先生の着眼点はすごいなと感心しますし、明治時代の日清戦争から日露戦争、そして第一次世界大戦から第二次世界大戦までの約70年分の兵隊関連のマニュアル本を収集、分析した労力には敬意しかありません。
一ノ瀬先生によれば、日清戦争の頃の兵隊マニュアル本は、日露戦争後に内容が変質していったそうで、特に大正デモクラシーの平和の時代に、実はその後の日中戦争や第二次世界大戦の頃の常套句として使われた精神論とか「玉砕」という言葉がマニュアル本に登場しているのだとか。
マニュアル本を読んだ人が、全てマニュアル通りに行動したかどうかはわかりません。でも、自分に理解できない軍隊での苦労や理不尽をマニュアル本の文言で納得させることはあったはず。ハガキや電報一通で、軍隊という「異世界」に放り込まれた人たちの戸惑いや、家族の無事を願う思いが、こういうマニュアル本の行間から伝わってくるような良書です。おすすめ。