音楽のアレンジャーという仕事。『音楽と契約した男』瀬尾一三
私が中島みゆきさんが好きだったのは、中学生から高校生にかけて。(写真はなけなしのお小遣いで買った初めてのアルバム)。その後はあんまり聴いていなかったのですが、大人になってから、ときどきプチブームがやってくるので、不定期で聴いています。
今回は、年末年始に映画館の音響の良いスクリーンで、中島さんのコンサートの劇場版を上映していたのがきっかけ。その後、中国の歌番組でミーシャが中島みゆきさんの「銀の龍の背に乗って」を歌って評判になりました。というのも、中華圏では中国語でカバーされていて、元の曲が日本の歌だと知らない人が多かったから。
余談ですが、中国語でカバーされると、歌詞が恋愛の歌に変わってしまうものがわりと多いです。喜納昌吉の「花」とか、Kiroroの「未来へ」とか。
その後、ネットを検索していたら、中国の動画サイトで「日本の国民的歌手中島美雪」「華語歌謡界を三〇年育てた恩人」みたいなキャッチコピーがついた、中島さんの曲を中華系歌手がカバーした動画のまとめを見つけて二度びっくり。ミーシャが原曲を歌って、番組がちゃんと本来の歌を中国語に訳して字幕つけたのが、やっぱり大きかった模様。
そんなわけで、以来、少しづつ中島さんの情報チェックをしていたら、30年間中島さんと一緒に仕事をしているプロデューサーでアレンジャー(編曲者)の瀬尾一三さんが本を出されたとのこと。音楽のことは全くわからない私ですが、いい機会だと思って手にとってみました。
そもそも、アレンジとか編曲っていわれてもよくわからなかったのですが、本書では「カラオケでみんなが歌う部分は作曲者がつくるもの。それ以外の鳴っている音は全て編曲者がつくったもの」と教えてくれています。なるほど。0からメロディをつくる作曲者がアーティストなら、それ以外の部分を全部つくる編曲者は職人さんのよう。映画『はじまりのうた』のキーラ・ナイトレイが中島さんで、アダム・ラファロが瀬尾さんですね。
瀬尾さんは1947年生まれ。戦後第一次ベビーブームの世代。ラジオから聞こえる音楽や、父方の祖父の家にあった長唄や浄瑠璃、浪曲のSPレコードが原点。一方で母方の祖父は劇場を持っていて、映画も上映されていたとか。山口の岩国基地から流れる米軍のラジオ局(FEN)と出会い、ポップスに目覚めてギターをひきはじめ、大学時代はフォークソングにのめりこみ、アルバイトして高い洋楽の輸入レコードを集めたそうです。
大学卒業後、瀬尾さんは上京し、有名な作曲家でプロデューサーの村井邦彦さんの下で働いて、現場で経験をつみます。その後は、独立して吉田拓郎や長渕剛、CHAGE&ASKA、徳永英明などなど、いろんな人の音楽を手掛け、1980年代に中島みゆきさんと出会い、それ以来ずっと仕事をするようになったとのこと。
中島さんは3年計画で動く方で、いつも3年先のスケジュールが決まっているそうです。だから、いつも他の人よりも先に瀬尾さんを予約できる。そして、アルバム制作、コンサート、そして夜会というミュージカル的な舞台をずっとコンスタントに続けているので、結果として1年のうちの9ヶ月を瀬尾さんとお仕事しているのだとか。
瀬尾さん曰く、中島さんは不器用だけど、だからこそ「自分」がある。学校で勉強したわけでもないし、流行りのものに自分を寄せたりしない。いつも自分のやりたいことをマイペースでやり続ける。だから、どの曲をいつ聴いても、あまり古く感じないとか。確かに、定期的に過去の曲が注目されて、カバーされたりしてる気がします。
中島さんと仕事を始めたとき、瀬尾さんは、中島さんがずっと歌い続けられるようにボイストレーニングを勧めたのだそうです。あとは、海外でのレコーディングに誘ったり。いい仕事は、信頼できる協力者がいてこそなんですね。個人的には、あの伝説の吉田拓郎さんのコンサートへのピンポイント出演の裏話が聞けてうれしかったです。
中島さんのコンサートとか夜会とか、いつか行ってみたいと思っていたけど、昨年はチケットが比較的簡単に手に入るライブやコンサートすら全て中止。ましてや中島さんのコンサートとか、「いつかそのうち」なんて言ってると、永遠に来ないかもしれないので、まずは手始めに劇場版のコンサートや夜会に行ってきます。