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女として生きるということ。『いっぱしの女』氷室冴子
ときどきやってくる氷室冴子読みたい症候群。今回は小説ではなく、エッセイの方を選んでみました。以前読んだ『氷室冴子とその時代』(嵯峨景子)に、私の知らないエッセイもちらほら見えたので。
『いっぱしの女』は大昔に読みました。そして、何度も読んでいます。でも、20代で読んだときと30代で読んだとき、そして今読むのでは随分と感想が違いました。
まず、学生時代では氷室さんが30代で直面していた悩みとかは全然理解できなくて、想像の範囲外のことだったので、大人の女の苦労ってこうなんだろうなんだなあと漠然と先輩を尊敬するような、そんな風に思った記憶があります。
ところが30代になると、それなりに氷室さんに共感できて、氷室さんと一緒に腹をたてたりできるようになりました。同時に、同じ女としての自分を顧みたりするような、ちょっとそれまでとは違う感覚を覚えたのを記憶しています。
そして、氷室冴子さんが『いっぱしの女』を書いた年齢を越えた今読むと、氷室さんが本当に言いたかったこと、書きたかったことが大体、わかるようになりました。つまり、行間も読めるようになったということです。
氷室さんが直接書かなかったことは、誰かに忖度したとか、そういうことじゃないです。文字にしてしまうとエッセイとして品位がなくなるというか、文学的じゃなくなるというか、分かる人にだけわかって欲しくて書かなかった部分が理解できる…みたいな感じというとわかっていただけるでしょうか?
本書の中で、氷室さんが読書をし、映画を書き、原稿を執筆しつつ、日々戦っていることへの理解や、毎日、目に見えない武装をしつつ、一方で、そばにいる女性が戦友に足るかどうか見極めようとしている視線、自分たちを取り巻く世の中についての言及も垣間見えます。その視線は現実的で、知的で、でも本当に氷室さんに独特のもの。
今年、『いっぱしの女』の新版がとてもかわいいイラストと一緒に出版されたことは、本当にうれしいです。昔からのファンは再読を、そして、未読の方はぜひ読んでみてください!