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ニンゲン、いろんなカタチがあるはずなのに。『男女という制度7』(21世紀文学の創造)斎藤美奈子編


執筆者は9人。川上弘美さん、大塚ひかりさん、佐々木由香さん、藤野千夜さん、小倉千加子さん、小野俊太郎さん、横川寿美子さん、ひこ・田中さん、金井景子さん。そして、まとめ役は斎藤美奈子さん。文量は1人が20ページから40ページくらい。編者の斎藤さんの文章めあてに手に取った本ですが、他にもおもしろい文章がありました。

ジェンダーやエスニシティ、ナショナリティなんかの問題は、いつだって話題になっているし、学術関係の本も論文も増えています。でも、一般社会にはまだまだ浸透していません。それどころか、ジェンダーを研究しているはずの大学ですら、セクハラ問題が頻発していると、のっけから斎藤さんとばします。

ジェンダー批評の究極の目的が性差別の解消なら、論文や学術書が何万部出版されても現実は変わりません。学問の世界に閉じこめられつつあるジェンダー批評を、普通に働いて、学校に通い、読書をする、より広い読者と共有するルートを探すことが必要だと斎藤さんはいいます。この本は、そのための1冊でしょうか?

コンパクトにとまっているなと思ったのが、横川寿美子さんの「ポスト「少女小説」の現在ー女の子は男の子に何を求めているか」。かつてティーンエイジャーの女の子が読んでいた「居場所を求める」読み物が、現在までにどう変化してきたのかがよくわかります。そして、少女小説とBLの補完関係も、いわれてみれば納得です。

一番読み応えがあったのは小倉千加子さんの文章。有名なモンゴメリの小説『赤毛のアン』は、戦後アメリカの占領が終わった1952年に日本語訳が出版されました。訳したのは戦前、ラジオの「コドモ新聞」担当で、英語に堪能なキリスト教系文化人だった村岡花子。

終戦直後は、GHQも日本の政治家も彼女を起用して、東久邇宮稔彦の通訳も務めたそうです。マッカーサーにとって日本人は「異教徒」。だから、キリスト教伝道の任務をもつ白人によって支配されて当然の存在と考えていたそうです。そして、幼い頃から教会に通い、東洋英和女学校で英語教育を受けた村岡花子は、マッカーサーが考える「白人の責務」を忠実に実行する東洋人の女性でした。

余談ですが、東洋人を野蛮な「異教徒」と見なしていたのはマッカーサーだけじゃなかったようです。アメリカが日本とまだ戦争をしている最中の1942年から43年頃に、ルーズベルト大統領とその政府の高官たちは、日本の野蛮で異教徒的な軍国主義ファシスト勢力を、キリスト教に感化させて、民主化する政策を目標にして、活発な議論を交わしていたのだとか。

こんな内容で始まる「戦後日本と『赤毛のアン』」の文章は、かなり刺激的でした。戦前、天主様(=キリスト)を崇拝し、戦中は天皇を崇拝し、終戦直後は親米意見を擁護し、日本独立後は良妻賢母のお手本として活躍した村岡花子。その格好の素材になったのが、40年前にカナダで書かれたモンゴメリの『赤毛のアン』。この有名な小説が、とても保守的で、しかもアメリカ占領軍の<落とし子>だという指摘は、とても考えさせられます。

戦後の高度経済成長の時期に都合のよかった近代的な結婚制度。親が決めた相手ではなく、恋愛で選ぶロマンティックなものとして女性たちの意識に植えつけることに成功したのが『赤毛のアン』だったと横川さんはいいます。そして、現在の女性の晩婚化が進んでいるのは、女性が自立したからでも、結婚が魅力的でなくなったからでもなく、男性に対するロマンティックな願望がますます強まって、それに見合う男性を捜すのが困難になっているためだと。

この『男女という制度』は20年前の本なので、結婚をめぐる社会の状況はかなりかわっている部分もあるんじゃないかと思いますが、それでも『赤毛のアン』という小説を切り口に、戦後の女性の結婚観の変化をみる視点はおもしろかったです。

あと、印象に残ったのは、誰の文章にあったのか忘れましたが、「誰もがたったひとりのマイノリティな存在」(安達倭雅子『子供と性』三天書房)って言葉です。確かに、人はみな顔が違うし、顔が多少似てても、体格も性格もみんな違います。セックスの好みだって、恋人の好みだって違うはずなのに、なぜか世間ではステレオタイプな恋愛観やいい男、いい女基準があるんでしょうか。いわれてみれば、確かに不思議ですね。





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