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超越者の特徴;ありふれた超越者



分類と範疇と超越者;アリストテレスの分類とセム系一神教の神学

この世にあるありとあらゆる者には名前がある。かつ、およそ名前があるものはすべて何らかの分類の網にかかっている。例えば、御影石、ススキ、アザラシ、スペイン人、日本列島、ハプスブルク家、富士山、米国、株式投資、物理学、労働組合などの名前があり、これらはそれぞれ上位の分類を持っている。例えば、御影石は石(鉱物)の一種であり、アザラシは哺乳類(動物)の一種である。

分類の中でも最上位の分類、つまりそれ以上「~の一種である」と言えないような種類のことをカテゴリ(範疇、はんちゅう)と呼ぶことがある。例えば古代の哲学者のアリストテレスは実体や質や量など10個のカテゴリを彼の母語であるギリシア語の文法を分析して立てている。例えば、ソクラテスは実体の一種であり、ソクラテスの「白さ」は質の一種であり、3メートルは量の一種である、といった具合である。ソクラテスや白さや長さといった実体や特徴は相互に物理的にも関係しており、我々の生活実感にも馴染むものである。

古代ギリシアの哲学者であるアリストテレスはギリシア語を元に10個のカテゴリを立案した。

一方、中世キリスト教の神学者たちはイスラームを通じてアリストテレスのカテゴリを受け入れたのだが、イスラム教徒と同様に彼らにとっては唯一の創造神を存在の秩序の中のどこに位置づけるかが課題であった。しかし、アリストテレスのカテゴリ論やそれを発展させ、図式化したバージョンである「ポルフィリオスの樹」と呼ばれる分類図示においては、唯一神や創造神が占める位置は無かった。なぜならば、古代ギリシア人たちはキリスト教徒でもムスリムでもなかったからである。

そこで、セム系一神教の系譜であるイスラム教神学者(例えばアヴィセンナ)やキリスト教神学者(アクィナスやスコトゥス)は、カテゴリ論やポルピュリオスの樹で分類されるいかなる事物にも当てはまるような共通本性(きょうつうほんせい)を求めた。それはまずもって存在(ラテン語で ens )であった。なぜならば、ソクラテスもプラトンも白さも長さもゼウスも日本列島もすべて「存在する」と言えるからである。言い換えれば、カテゴリが異なったとしても「存在する」という点で万物は共通点を持っているということである。

だが、単に万物の共通本性を求めただけでは彼らは満足できない。共通本性が世俗の存在する事物に対して世俗の外から作用する、すなわち唯一の創造神の意志によって、創造神の知性の中から世界が生じるという構図に持っていきたいからである。言い換えれば、Godによる世界(mundus)の創造である。ここではGodと世界とが原因と結果の関係、すなわち外在的な関係におかれる。そもそも存在とはGodが持っていた特徴であり、この特徴を当初はGodの知性の中にのみあった事物に対して分け与えたことによって、それらの事物が現に存在するようになり、そして世界が創造された、すなわち、世界が存在するという事実はGodという存在が自分自身の特徴を世界とシェアした(分有した)という創造行為なのだというのが、一神教における創造のひとつの考え方である。

ただ、この世界創造の解釈についてはキリスト教神学内部でも大きな錯綜があるようである。ただ、どのような解釈を採用するにしても、Godは世界の外にあって世界を創造した世界に対して外在的な制作者であり、その意味で世界とその内部のあらゆる存在者から独立しており、超越していることは間違いなく、その一方で、いくら独立していて超越しているとはいえ、この制作者が何らかのかたちで世界全体や世界の内部の存在者と関わっている(例えばときにそれは「被造物を愛する」と表現されるかもしれない)と同時に言えなくてはならないことは要件となっている。

いろいろな超越者;理論的困難に対する救済者としての超越者

ここまではアリストテレスの分類とそれに対するセム系一神教の神学の態度を一瞥(いちべつ)した。超越者や創造神などというと、現代日本人である我々には大して縁のない話に思えるかもしれないし、実際そうかもしれない。個別の信仰であったり、思想の歴史上の特殊な解釈争いであって、上記の思想史の祖述などは既に誰も住まなくなった廃墟となった建物をうろついて詮索するようなものかもしれない。

一方、私が切実に関心があること、当事者として関心を持つのは、現実の世界の進行あるいは歴史において、それらをどのように解釈すべきか、あるいはどのような方針をもってこの現実世界を調整したり、個人として生き抜くか・実践するかということである。このこと自体はまったくありふれた関心であろうと想定している。

ところが、ただこの世界を一個人として生き抜くだけでも、この世界の「内側」についてだけ考えているわけにはいかない。別の言い方をすると、この世界の「内側」で現に観測できることだけ、自分の身体に接続されている感覚器官やそれの電子的な延長だけで認識できることだけで生きていくことはどうやらできないようだ。なぜならば、私や我々がつきあっているのは世界の内側とだけではなく、超越的な者ども(transcendentia, アクィナスの言い方)ともつきあっているからである。

では、私や我々がつきあわざるを得ない超越的な者どもとはいったい何なのか? それから前置きしたギリシア存在論に対する一神教の超越者とそれとは果たして関係づけ得るのか?ということが問題になってくる。

超越的な者どもについて、思いつく限り列挙してみよう。

  • 天皇陛下(人民を超越した存在者である君主、皇帝)

  • 他人(自分自身の内観に対して超越した位置にある他者あるいは心)

  • 天才(手続きや方法論による説明を超越した貢献を発揮する能力)

  • 責任(目に見える謝罪 apology を超越する)

  • やる気(目に見える態度 attitude を超越する)

  • 努力(目に見える成果 outcome を超越する)

  • 仁(儀礼のみかけを超越したまごころであり、形式だけの儀礼には無いとされるもの、儒教)

  • 自然権(人間が生まれながらに持つと仮定される権利)

  • 理念(到達不能な状態)

  • 君子(儒教の理想)

  • 賢人(ストア派の理想)

  • 物自体(我々の認識に現れる性質=現象を超越した物それ自体)

  • 図形(図形は我々の直観に現れ、大きさを持つが決して実際に描くことができない)

  • 民意(民主主義国家の総意)

などが超越的なものどもである。私や我々はこれらの者どもと関わらずにただ眼の前のエサや求愛にだけかかずらっておられればそれでいいのかもしれないが、少しでも「人間」らしく生きようとすれば、生存でなく、生活をおこなっていこうとすればこれらの者どもと関わらないわけにはいかない。

日本国民に対する超越者としての天皇陛下・立憲君主;開かれた皇室のギャップ

例えば天皇が超越者であることの困難(アポリア)を挙げてみよう。天皇は個別の国民とは異なり、国民ではなく、また人権も担保されていない。少なくとも日本国憲法が日本国民に担保するような仕方で人権を担保されているわけではない。その意味で天皇は国民から隔絶した存在であり、資格を持っているといえる。では、単に天皇というのはよく言われるようにひとつの国家機関に過ぎないのであって、国民とはほとんど関わらない存在なのか? 例えば日本国には会計検査院という国家機関(憲法90条に規定)があって、これは国政における予算の使い方をチェックする部署であるが、国民が会計検査院に関わるということはほとんどないし、会計検査院があることすら知らないという国民も珍しくないだろう。一方、天皇についてはそうではない。天皇の代替わりは一世一元制の慣行にもとづいて元号の変更をも意味するし、天皇家は天皇家の安定した存続のために側室を置いたり、高齢などの理由で公務が継続できなくなった場合には摂政(せっしょう)を置くことができる。しかし、現行の天皇担当者、および前任の担当者はそうしてこなかった。なぜだろうか? 確かな答えを得ることは難しいが、それは天皇は国民の生活態度や国民の理想的な家族像に寄り添うものでなければ支持を得にくいと考えたからであろう。つまり、天皇は国民を超越して、「天皇の下の平等」(小室直樹に言わせれば天皇教)を実現するほど偉いお方でなければならない一方で、特に戦後日本においては、「開かれた皇室」であり、人間的あるいは国民に近い存在としての天皇でもなければならないという国民との親近感を稼ぎ続けなければならない存在だったのである。だから、天皇担当者は国民に近過ぎてもいけないし、国民から超越し過ぎてもいけない。

それでいて、相変わらず国体、すなわち、日本が日本であるという統一性、国民統合を可能にするというい役割(目的因)をキープしなければならないのが天皇である。

統計を超越する天才;平均値だけでは説明不能な外れ値

別の例を挙げる。例えば戦争に勝つためにどんな準備をすればいいか how to win については膨大な研究がなされている。また、ビジネスで成功する how to success にはどうしたらいいか、これまた多くの研究と蓄積がある。しかしながら、それらは事例集や統計にもとづくものであって、それらが教えてくれるのは、飽くまで多くの場合や平均的な場合、注目する条件以外が無視できるほど凡庸な場合だけである。

しかし、戦争であろうとビジネスであろうと、将軍や起業家は常にズバ抜けた成果を求めるものであって、最初から平均や人並みやそこそこを目指すような小物(こもの)に将軍や起業家は務まらないし、また誰もそのようなビジョンに欠けるリーダーについていきたいとは思わないであろう。戦争ならば決戦において勝利したり、敵軍を無力化して勝利を外交的な影響力へと変換したいと願うのが当然であるし、起業家は一代で大成功した大富豪や世界中で使われるイノベーションを巻き起こしたいと願うのが当然である。しかし、戦争術の研究にしても経営学にしても、それらを学ばないより学んだ方がいいには違いないが、そこから学べるのはむしろ大成功する方法というよりもむしろ失敗しない方法であり、人並みの成果からずり落ちない方法である。例えば金融工学は銭儲けをするためのエンジニアリングというよりも、市場における適正価格を見極めて相対的に損失を回避するための方法という側面が強い。しかし、そのような「常識」を学んでいるだけでは戦争に勝ったり、ビジネスで大成功することはどうやらできない。もしそれができるなら、MBAを取得した者が全員成功していなければおかしいからである。だから、ナポレオンやスティーブ・ジョブスのような存在は「天才」として説明せざるを得ない。なぜならば、そのような統計的な外れ値の人物の行動は後から見れば合理的に説明できるが、当事者としては到底なぜその瞬間にその行動を取れたのかまるでわからないシロモノだからである。

超越的なものについて、二つ手短な事例を挙げただけですっかり疲れた。今日はここで擱筆する。

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もの Res と 或る者 Aliquid

(4,577字、[2024年10月28日])

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