混乱困惑狼狽と被害者意識
被害者意識というのは、どこかに加害者がいて、悪意をもって自分に危害を与えているという枠組みで、自分自身へのダメージを捉えることである。しかし、もちろん自分がダメージを受けている状態、外傷があったり、混乱していたり、困惑していたり、周章狼狽していたり、悲しかったり怒っていたり、イライラしたり、痛みを感じていたりするからといって、どこかに悪意を持った「加害者」がいるとは限らない。あるいは誰かが意図的に苦しむ自分のことを放置して意地悪しているとも限らない。
例えば、ペンギンのピングーがやかんのお湯が沸騰したと同時に電話のベルが鳴って、彼はお母さんが出産で留守中で元々不安である上に、どちらに一人で対応したらいいかわからなくてどちらにも対応できず、泣き出してしまうシーンがある。私たちはピングーの頭の中を想像してみることができるだろう。彼は不安で一杯な上に複数の方面から一度に要求を出されて、自分が何をしていて何をすべきで何ができるのか、すべてわからなくなってしまっているのである。そして無力で責め立てられるばかりの自分自身を憐れむ気持ちも湧いてきたのかもしれない。
ピングーがここで誰かを非難するような、言わば八つ当たり的な反応を示しているわけではないが、人によっては自分が「誰か」に非力を責め立てられているような気分になって、八つ当たりするかもしれない。私ならカンシャクを起こしていてもおかしくはない。例えば、障害者として複数の支援機関や支援者の間で連絡を取っていたとき、私は非常に孤独だった。「なぜ、私は自分の障害、つまり社会性の障害者が一番ニガテなことをやって、本来私を助けてくれる人たちの間を取り持たなければならないのだろう? むしろ私の支援者たちの間をつないで私を助けてくれることこそ私が最も求めている助けであるのに……。支援者ひとりひとりには誰も悪気はないんだろうけれど、結局支援者さんはただ職業的にやっているだけで、当事者を全人格的、生活全体的にはみてくれないんだ……」と思ったりして悲しくなった。
或る意味では「普通の人」、すなわち健常者であるとか定型発達と呼ばれる人たちはこうした諸連絡をそんなに負担を感じずにこなせるか、そのように発育しているのだ。それなのに私だけずっと未熟なままで、転んでも大人なのに情けないと笑われるだけで……と考えてしまうと、健常者が憎いとか支援者が助けてくれないと文句をたくさん言う障害者になってしまう。実際、そういう障害者の人もよくみかける。その文句はもしかすると妥当なのかもしれない(つまり、実際に意地悪な誰かがいた可能性もある)。ただ、ピングーや私に限っては誰かが悪いのではなくて、ただ、与えられた状況に過剰反応してしまって、何もできずにダウンしてしまっていたのである。そこで誰かを恨んだり、元凶だとみなしてみても何も始まらない。感情が掻き立てられてますます情緒不安定になるばかりである。
ピングーの場合は、お父さんがやって来て、やかんを火から話し、電話に短く答えて切り、ピングーをなでて不安を鎮めてくれた。ピングーのお父さんはやかん、電話、ピングーの不安それぞれに対してひとつずつ対応して片付けたのである。というのも、やかんも電話もピングーの不安も「偶然」同時に起こっただけで、誰かが意図したわけではない(むしろ偶然同時に起こるものとして演出されている)からである。
生活の中では何がどんな順番で起こるのか、何と何とが同時に起こり得るのかわからない。数え上げてはいられない。ただ、たいていの場合、どんなことが起こっても、実はひとつずつ対処する余裕がある。「なかったら? こんな場合は? あんな場合は?」と杞憂に走る必要もないというか、そんなすべてのレアケースを網羅している間に生活が終わってしまうだろう。犯人探しや被害者意識、杞憂も我々が混乱でいっぱいいっぱいのときには発生しがちな気持ちであるが、もしそれが解決解消可能な問題であるならば必ず解決解消されるのだと決め込んででも、自分の手綱をしっかりと握っていたい。言い換えれば、大人になりたいものである。
(1,698字、2024.06.30)
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