映画感想「ゼイリブ」(1988)
評論家のジジェク氏が引き合いに出していた映画「ゼイリブ」(1988)をみた。筋書きとしては、失業してホームレスとなり街に流れてきた若者の主人公(白人)がひょんなことから変なサングラスを手に入れ、それをかけると今までとは違った世界が見えて、それが世界の真相であり、実は宇宙人が地球人を家畜として支配していたというもの。
幾つか特徴を挙げる。
まず、話の作りがわかりやすく、単純な二項対立の蓄積でできている。例えば、白人と黒人、睡眠と覚醒、宇宙人と人間、金持ちと貧乏人、高層ビルとバラック、盲目と健眼、ウラのメッセージとオモテのメッセージ、メディアと体験などを組合せてあることはシンプルに伝わってくる。
次に、「宇宙人の支配者」という装置は出てくるものの、宇宙人は極めて人間くさい。というよりも典型的なアメリカ人ですらある。というのも、アメリカンドリームというイデオロギーを生産しているのが宇宙人であるという設定だからだろう。しかし、米国という超格差社会は常に競争を求め新しい機会を提供すると謳う一方、現実には大量の這い上がれない敗者が存在し、その中には一体全体、勝者と自分は何が違ったのか説明を与えられない者も大量に含まれる。そして説明を与えられようと与えられまいと彼ら彼女らは搾取され続ける。その説明の無いギャップあるいは欺瞞には何か詰め物が必要である。その詰め物は信仰かもしれないし、陰謀論かもしれない。この作品ではサングラスをかけたり、むしろ盲目であることによって真相がわかるようである。
そして、宇宙人が支配者ヅラしているという壮大?な話の割には作中で登場人物が口にする「第三次世界大戦」はショボいものである(実際、それは街のごく一部での武装警察による戦列歩兵のような突入と殺戮でしかない)。例えば、まるで政府が州兵や探偵を雇って労働組合の運動を鎮圧するかのようなイメージである。現実であれば、労働者の側も交渉する余地を探して団体交渉などをするところであるが、本作の主人公は宇宙人の面構えが気に食わないというだけで、どこで憶えたのか銃をぶっ放して街中で宇宙人を殺しまくっている。つまり、宇宙人=支配者層=エスタブリッシュメントは交渉の余地などあるはずもないクソみたいな連中で皆殺しにすべきだとも言えるし、反対に無職の主人公の、つまり人間の野蛮さが描写されているとも言える。
それにしても、サングラスをかけなくても東京の山手線などに乗れば、直球で「脱毛しろ」「痩せろ」「ジム行け」「転職しろ」「結婚しろ」「引越せ」「家買え」「家売れ」「塾行け」「英語やれ」「ゲームやれ」「本買え」「カネ貸すからカネ払え」などの広告ばかりである。なぜ、それが山手線の電車で張られていたり吊られていたり動画が流れていたりするのかというと、電車にそれだけたくさんの財布が乗っているからである。市場経済という仕組みでは、それらの財布にもっと稼がせ、もっと欲しがらせ、もっと買わせ、さらに働かせるような仕組みになっていて、市場は稼いでいる人の需要だけを満たし、かつその満たし方もさらに稼ぎたくなるようにさせるような満たし方である。だから、何かを欲望すること自体は悪いことではないのだが、広告の中にある欲望というのは偏っていて、人によってはそこに適応できないような、永遠に稼ぎ続け最終的満足(幸福)を描けなくさせるような欲望を惹起するだけなのである。
(1,410字、2024.02.10)
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