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新人教育のむずかしさ

職場の新人教育に関して、誰もが一度は似たような現象に遭遇したことがあるだろう。新人が入ると、周囲の人々は善意から、あるいはその場の習慣として、同じようなことを繰り返し教えるものだ。それは道具の使い方であれ、職場の独自の文化や名物であれ、誰かの性格に関するちょっとした注意点であれ、重複が避けられない。しかし、それを目の当たりにするたびに、私はいつも一抹の違和感を覚える。

私自身が新人として働き始めたときのことだ。何人もの先輩や上司が、同じ内容を繰り返して教えてくれた。そのたびに「これは何かの試練なのだろうか?」と自問した。ある先輩が「この道具はこう使うといいよ」と言えば、数時間後には別の同僚が「いや、それよりもこうした方が効率的だ」と助言する。そして最後には上長が「結局、基本に忠実にやるのが一番だよ」と締めくくる。善意なのは分かっているが、受け手としては混乱するばかりだ。

特に私の場合、障害者雇用での就労であり、入社時の面接で「指示系統は一本化してほしい」とわざわざ要望していた。そのため、複数の経路から情報が入ってくる状況に対して、なおさらストレスを感じた。単に情報が重複するだけならまだしも、教えられる内容が微妙に異なっている場合はさらに厄介だ。どれが「正解」なのか、どれに従えば良いのか、悩む羽目になる。

そんな経験があったせいか、私が次に新人を迎え入れる立場になったときは、「自分だけは無闇に情報を押し付けないようにしよう」と心に決めた。ただ、そこで問題が発生する。新人に何を教えるべきか、どこまで干渉するべきか、その線引きが難しいのだ。どれほど親切心で教えたつもりでも、それが相手にとって助けになるかどうかは分からない。むしろ、負担を増やしてしまうことすらある。

教育係という役割が制度としてあれば、少しは状況が改善されるかもしれない。しかし、実際には教育係自体が特別な訓練を受けていないことが多い。だからこそ、私は新人教育を考えるとき、単に情報を伝えるだけでなく、その伝え方や量にも配慮する必要があると感じる。

新人が新しい環境に馴染むためには、適切な知識とサポートが不可欠だ。ただし、それを提供する側もまた、自分たちが与える情報がどのように受け取られるのか、もう少し想像力を働かせる必要があるだろう。善意は時に余計なお節介となり、混乱を生むこともある。新人への配慮とは、情報の正確性だけでなく、その受け手が安心して選択できる余地を残してあげることではないだろうか。

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