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東浩紀「訂正する力」書評と考察-「訂正」は共同体への体験創出の処方箋になりうるか?-

ひとは誤ったことを訂正しながら生きていく。
哲学の魅力を支える「時事」「理論」「実存」の三つの視点から、
現代日本で「誤る」こと、「訂正」することの意味を問い、
この国の自画像をアップデートする。
デビュー30周年を飾る集大成『訂正可能性の哲学』を実践する決定版!
聞き手・構成/辻田真佐憲 帯イラスト/ヨシタケシンスケ
保守とリベラルの対話、成熟した国のありかたや
老いの肯定、さらにはビジネスにおける組織論、
日本の思想や歴史理解にも役立つ、隠れた力を解き明かす。
それは過去との一貫性を主張しながら、実際には過去の解釈を変え、
現実に合わせて変化する力――過去と現在をつなげる力です。
持続する力であり、聞く力であり、記憶する力であり、
読み替える力であり、「正しさ」を変えていく力でもあります。
そして、分断とAIの時代にこそ、
ひとが固有の「生」を肯定的に生きるために必要な力でもあるのです。

以下は他媒体で書いた書評をそのまま移したものになります。個人的なメモですが、面白い気付きが1つでもあれば幸いと思い投稿した次第。

訂正する力とは

この本の主題「訂正する力」とは、いろんな説明がされているけれども、

 それは過去との一貫性を主張しながら、実際には過去の解釈を変え、現実に合わせて変化する力、過去と現在をつなげる力です。持続する力であり、聞く力であり、記憶する力であり、読み替える力であり、「正しさ」を変えていく力でもあります。

この部分がもっともわかりやすい。例としてはヨーロッパ仕草。再エネ、コロナ、オーバーツーリズム、移民、ブレグジットのように、「(一種の)ごまかしをすることで持続しつつ訂正していく」ことが、変化をもたらしている。
過去と現在を一定の論理でつなぎ合わせ、ルールチェンジを繰り返すことで、保守的でありながら同時に改革的な力をもたらしている。そしてこの力が、日本社会ではもっと必要だと看破している。


その上で、「訂正」できる土壌、完全な過去と現在との一貫を求め、「ブレない」ことが絶対の勝利条件である「論破」と対極にある、「相手が意見を変える可能性を互いに認め合う空間」を作り上げなければならないと。

さて、日本の例でひとつあげれば、「水」と「空気」の概念があった。「水を差す」という言葉があるが、実際の日本社会では、「水を差す」ことそのものが「空気」となる、つまり「そういう主張をする人があらわれた」という空気に内包されることで、空気を変える力がなくなっていると述べている。*1


そうした日本では、ものごとは「いつのまにか」変わることしかありえない。だから、「いつのまにか」をどう演出するのかが重要である。これこそが、「訂正する力」である。

さて、この「訂正」と対比的に描かれているのが、「リセット」の概念。今までの過去を否定して、全く新しいものとしてリスタートしようとする手法であるが、歴史を見れば、フランス革命ソ連、身近なところで言えば一念発起して始めた習慣など、失敗が多い。長く続いてきた慣習や文化を人間は突然変えることは出来ない。だから、表面だけ論理で固めてリセットしようとしたとしても、すぐに実態としては戻っていくのである。


 社会はリセットできない。人間は合理的には動かない。だから過去の記憶を訂正しながら、だましだまし改良していくしかない

というのが筆者の主張であり、自分もその通りだと思う。このスタンスは、今後どんなところにも活かせるんじゃなかろうか。

本ブログの習慣形成に対する理念を含め、「過去から地続きでないものは定着しない」一方で、「いまがクソだから将来を変えたい」という板挟みの絶望に対して、「過去を再解釈し、『実はもともと・・・だった』という論理をつくることで、続きながら、変えていく」という戦略を提示したという点で、本書は非常に面白い。ただし、これは個人ベースの話というより、対社会や対共同体に対する処方箋だと思ったほうがよいだろう。


総合的な体験の復古が価値提供の勝ち筋だ

個人ベースでもあり、ビジネス的文脈であげたいのはこの章段。

 つまりは、データばかり溢れているけれど、意外と総合的な体験は貧しいということです。いまはコンテンツは量的に溢れているけれど、本当のところ人々には欲求不満が溜まっている時代なのかもしれません。
 (中略)読書という行為も、本当はそういった体験とセットだったのです。読書はけっして孤独な行為ではない。本というコンテンツのデータを提供することと、「本を読む」という体験の提供は異なった行為です。 でもその違いに読者は気がつかない。本が読みたいと思って、たしかに本のデータは来たのだから、これでいいはずだと本人も思ってしまう。しかし実際はなにかが違うわけです。最近書店の減少が問題になっていますが、本当は書店はデータを提供する場所ではなく、体験を提供する場所だったのではないでしょうか。 (中略)目的のデータを検索してダウンロードしているだけでは、「そうか、じつはぼくはこれが好きだったのか」という趣味の訂正が行われないからです。

「本人すらも気づかない」総合的な体験の不足に対して、「そうか、じつはぼくはこれが好きだったのか」という趣味の訂正を行う、これはどう考えても現代の価値提供の1つの勝ち筋だろう。

さらに考察を進めれば、この「総合的な体験」というのは、「本人が昔は体験していたけど、今は量的なコンテンツが先行していて実は欠乏しているもの」にほかならない。

最も大切なことは、「本人が昔は体験していた」ということである。今の子供の世代は本屋にそもそも行かない。だから、本屋の総合的な体験をどんな手段で実装したとしても、それは当人からしたら全く新たな読書体験、つまり「リセット」に過ぎない。だから、結局のところは広く定着しない。本書でも「復古」が必要だと述べているように、ターゲットとなる人間がそもそもその総合的な体験を持たなければ、世代間の救いのない価値観の押しつけで終わってしまう。


しかし、「本人が昔は体験していたけど、今は量的なコンテンツが先行していて実は欠乏しているもの」はきっと沢山ある。 ここに新たなアイデアの源泉がたくさん眠っているのではないだろうか? 単なる「情緒的価値」と「機能的価値」の二分法から解き放たれるチャンスである。


「量的に勝つ」ことが大資本にどうあがいても勝てない世界で、共同体や社会にダイレクトに届けるもので、それでもなお勝つ糸口になるかも、かもしれない。


「訂正」が織りなす両面戦略とVtuber

 正面から既存のルールを批判しても前述の通り力を持たない。だから、ルールを訂正しながらも、その新しさを全面に押し出さず、「いや、むしろこっちこそ本当のルールだったんですよ」と主張し、現在の状況に対応しながら過去との一貫性も守る。そういった両面戦略が不可欠となります。

この両面戦略に成功した例として、Vtuber評を試みることができる。最初はキズナアイやミライアカリなど、3Dの、「バーチャル空間で人間を仮想化する」という明示的なビジョンがあった。もちろん一定受け入れられたし、ファンも付いたが、結果的にもっと流行ったのは2次元絵を画面に貼り付けて、ゲーム実況を行うという「生主のゲーム実況」とほとんど変わらない姿であった。
キズナアイは「リセット」を試みたが、視聴者は元々の視聴習慣を変えることはなかった。結局は過去の記憶との一貫性を保ちながら(生配信、「中の人」性を隠しきらない、可愛い声)、実際にはルールチェンジを行う。立ち絵を動かして形だけでも「人間」っぽくすることで、声だけでなく顔やスタイルを含めたのキャラクターをより精巧に作り出し、顔を出さなくてもたまアリでライブをするようになる。しかし、実際には視聴者は「中の人」性を楽しんでいる側面が大いにある。今までは生主が実は40だった、と判明すれば「もっと若い子がいいよ」となるところが、Vtuberであれば「それはそれ」と訂正する観客がいるのである。「実はもともと・・・だった」という言葉にあてはめれば、「実はもともと生主は可愛くてスタイルが良くて歌が歌えて踊れる存在だった」となることだろう。すとぷりは、その過去の再解釈で物語の構成要素に入るかもしれない。その論理があるから、正確にはVtuberではないP丸様も恩恵を受けている。


「いい加減な観客」と「いい人」戦略

 論破力が基準の世界では、訂正する力は負けてしまいます。訂正した瞬間、相手から論破したと言われてしまうのですから。では、どうしたらよいでしょうか。
 (中略)ぼくはひろゆきさんほど観客はもっていませんが、似たことを考えていました。ただしぼくが想定する観客は、勝ち負けを判断するというより、話の本題とは別の感想を抱いてしまう「いい加減な観客」です。
 たとえば、「このひとの主張は弱い、議論には負けてる」と判断を下しつつも、「でも悪いやつじゃないな、話の続きを聞きたいな」と思ってしまうような観客です。そういう観客が多くいると、訂正する力が機能することがあります。話し手が意見を訂正したり、負けを認めたりしても、「それはそれ」で真意をつかんでくれるようになるからです。
 そういう価値転倒は、Twitterだと情報が少なすぎてあまり起きません。けれども動画では生じることがあります。ひろゆきさんも人気があるのは、じつは論理が強いからだけではなく、彼のしゃべりかたに特徴があって魅力的だからだと思います。人間はそういうところで動かされるものです。言葉だけを取り出して「このひとがこのひとを論破した」などと騒いでも、対話の本質をつかまえることはできません。

これはまさに岡田斗司夫が散々言う「いい人」戦略の話なのだと思う。人間性に興味を持たれる、魅力的に移るというのが、「論破」への対抗手段なのだと。そしてそれが伝わりやすいのが動画媒体だと。ショート動画が流行しているから動画も無力だという批判が他の書評であったが、単純接触回数が増えれば魅力的に映りやすくなるし、ショート動画とショート動画の間は視聴者側が埋めるわけで、より第一印象が大事になっていくのだろう。


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