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全てのことに、意味を持たせようとしたって。

仕事も休みに入ったので、ここ最近は読書の日々を続けている。
普段の多忙な日々に身を任せていると、自分の気持ちを感じる心とか、直感とかが鈍くなって、本当にやりたいことをやらずに日々を過ごしてしまったりする。

ただそんなことを言っても、
本当にやりたいことなんて、実はあんまりないというのが最近の実感で、
好きな本を読んで、
好きなところに出かけて、
好きな人と好きなだけ話して、
好きなものを好きなときに食べながら生きていられたら、
そんな人生は悪くないなって思う。

いつからか、「もっともっと欲しい文化」である資本主義の中で、
世界は回っていて、もちろん資本主義自体は悪くないのだけれど、
人間はそんなに単純な生き物でもないので、もっともっとと言われても・・・と感じることも多いものだ

だから、ミニマリストとか、ものを減らそう、デジタルデトックスしよう!少ないことはいいことだみたいな風潮も出てきたりするのだと思う

前置きが長くなってしまったけれど、
そんなことをあれこれ考えながら、
吉本ばななさんの『体は全部知っている』を読んで、
頭の中がさっぱりしたので、特に好きだった文章を引用したい。

久しぶりに食べたオムレツは死ぬほど懐かしい味がして、
私は、久しぶりに、生きていることに意味があるような気がして、
ビールを飲み過ぎてしまった。だからドラマでも見て寝よう、と思った。
生きていることには本当に意味がたくさんあって、星の数ほど、もうおぼえきれないほどの美しいシーンが私の魂を埋めつくしているのだが、生きていることに意味をもたせようとするなんて、そんな貧しくてみにくいことは、もう一生よそう、と思った。

体は全部知っている (文春文庫) 吉本ばなな

生きていることに意味をもたせようとするなんて、そんな貧しくてみにくいことは、もう一生よそう、と思った。

この文章を読んだときに、なぜだがジーンときてしまった
何もかも意味があるとか、意味づけをして、自分を納得させようとしたことも多々あるけれど、やっぱりそんな考えはおこがましいと思った

生きている間に世の中が見せてくれている(自分が見ているという主体的な感覚ではなくて、見せてもらっているという受動的な感覚)が、実は本当は地に足のついた生活に根付いた考え方ではないのかと思ったりする。

生きていることは自分が選択しているように思えて、実は選べないことから、選べることを選んでいるだけだったりする。

この時代に生まれたことも
日本という国に生まれたことも
日本の中で東京に生まれたことも
自分の親のもとに命を与えられたことも

大きな枠組み、環境で人生を考えたときに
自分が選んでいないことの膨大な事柄に驚かされる

だから、ばななさんが本で書いてくれた通り
意味づけなんかしなくて、今目の前で起きている
奇跡のような瞬間をじっと見つめて、五感で感じていたい
いつの日か最後の日が来たときにも、人生を味わったと思いたい

そうするためには、絶え間ない地道な努力が必要なのだ
2023年の年末にそんなことを書いておきたい

2024年は、地道にベッドメイキングしたフカフカのお布団で
ゆっくりとお正月の朝を迎えたいと思う

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