【短編小説】『やまねこ座のそばで』葉桜ことり
昼下がりの霧雨が秋桜を濡らしている。
頬にあたる水滴は繊細で柔らかく、髪に、首すじに、唇にとあらゆるところに潤いを与えながら溶けていき、ゆっくりと私の乾いた心の奥へと流れて泉をつくる。
鮮やかな花びらはしっとりと水分を含み、やがてリズム的に左右に揺れはじめ、歓びのワルツを奏でる。
生きているものすべてに季節だけは平等に巡り、慌ただしい都会の真ん中でもこうして淡い記憶をみつけることができる。
いまだに提出できない離婚届けを筒状にして、窓越しに遠くの景色を眺める。
直径4センチの円形の世界には、お揃いの帽子のカップルが微笑みながら手を繋ぎあい、少し角度を上げれば建物の隙間を縫いながら渡り鳥が薄い雲を広げた空へと舞い上がる。
ぐんと角度を真下に落とすとぴったりと並ぶ焦茶色の革靴と真っ白なパンプスが半分ずつ見える。
「りさこ……」
愛する人がささやく優しい声。
午後4時。
二人が並んでやっと座れる窓際の小さなソファを選び、肩から足元まで絡め合うように腰掛ける。
後ろめたさの中にある甘い空間。
誰かを殺めたり、金品を盗んだりしたわけじゃないけれど、罪を背負いながら生きる人の気持ちが半分わかる。
後ろめたい関係は、活火山の麓のマグマのようにジリジリと燃えさかり、もはやどんな生命体が介入しようとも沈下できない状態へと流れていく。
知らない誰かと過ごしていた時間を取り戻すかのように、溶けるほどにお互いの愛を確かめ、会えない壁を壊すように肉体的にも精神的にも、どちらが自分かわからないくらいに重なりあう。
紙切れ一枚、時の経過と共に、それは罪を背負う重い十字架となる。
紙切れの先の丸い世界には、やがて夕焼け色の間接照明が射し込みはじめた。
何度も交差しあった二つの足元が夕焼け色に染まっている。しかし、そのすぐ先には光を吸いこんだ暗闇の世界が待ち構えている。
意識的に地面を踏まなければ足元を見失うかもしれない。
歩いたことのない淵に怖くなり、すべての重心を預けて胸の中に飛び込むと、優しい手のひらがゆっくりと曲線を描きながら背中をさすり、温めるように腕の先へと伸びてくる。
優しい手のひらが私の存在を証明してくれている。
バターのように溶けてしまいそうになる。
力がほどけて、ひらりと紙切れが舞う。
「お客様、お冷はいかがでしょうか?」
溶けていく身体を起こし、顔を上げると、きれいに髪を束ねた店員がすでにグラスに水を注ぎながら、優しい月のような笑みを浮かべ、テーブルのわずかな水滴をきれいに拭き取ると、軽く会釈をし隣のテーブルへと移動していった。
このカフェのウォーターピッチャーには、輪切りのレモンやローズマリーが浮かべられ、水一つでさえ味や香りにこだわりが見える。
数少ないメニューも厳選された素材が使用されている。
時々、顔を見せる片方だけエクボが出る髭のマスターのこだわりで、開業当時のままの桁はずれのリーズナブルな料金設定が地元の小冊子で季節が変わるたびに取り上げられている。
他にも掲載される理由はいくつもあり、ほとんどの客はおつりを受け取らず、レジ脇にあるアラジンポットの蓋を開けて笑顔でおつりを入れて帰る。
裕矢と私も、幸せな空間に感謝しながら気持ちを入れる。
コーヒーはナッツを挽いたような香りがしてホット、アイス、常温、という選択肢で季節を問わず常温が一番人気である。
人肌に温められた丸みを帯びたぷっくりとしたカップに36度前後のコーヒーが並々と入っている。
初めて口にしたときは、キスをした気分になった。
その柔らかなキスの後に熱くもなくひやりともしない滑らかなほろ苦い液体が喉を撫でるように通っていく。
ケーキは濃厚なビターチョコとクリームチーズの2種類しかないこともあり午後4時を回るとたいてい完売になっている。
店内のBGMはその日の天候によって選曲がなされ、雨が降るといつもバッハのピアノ曲が流れている。
ここにいる客層は、優しい雨が似合う。
☆ ★
10年前の秋。
私は香織の誕生日に都内でオープンしたばかりのプラネタリウムに誘った。
当時、29歳だった。
香織とは高校の天文学部で知り合った。
色白で艶のある長い黒髪と凛とした眉の香織は同い年とは思えないほど大人びた学生だった。
流星群が見える季節には天体観測合宿があり、夜を通して私達は姉妹のように仲良くなった。
卒業後は、香織は仏文科の大学に進学し、私は洋菓子専攻の短大に進学した。
それぞれの進む道は違ったが、かえってそれがお互いの世界を広げ、会った日は、終電ぎりぎりまでお喋りに花が咲いた。
約束通り、プラネタリウム前で待ち合わせをし、混み合っている通路をすり抜けるように会場に入ると私が予約した二人分の席には裕矢と白髪の男性が座っていた。
それが最初の出会いだ。
勇気を出して、やっと声をかけた。しばらく首をかしげ、やがて間違いに気付いた時の裕矢の慌てぶりは、かえってこちらが申し訳なく思ってしまうくらいだった。
裕矢のチケットは昨日の日付だった。
それなのに隣の白髪の男性は一つも気にせずにぼんやりと薄暗い天井を眺めている、まだ星もないのに。
不思議に思い、目を凝らしよく見ると聴覚に不自由があるようで耳元には小さな補聴器があった。
裕矢は額をハンカチで抑えたあと、手話を交えて状況を男性に説明しようとしていたが、ここは私と香織が身を引くのが一番きれいに収まるような気がしたので、 Present for you!と笑顔で言いながら二人分のチケットを差し出し、香織と駆け足で会場を離れた。
香織は天文部の部長と生徒会を経験し、週末には通訳ボランティア、大学も首席で卒業し、現在は外資系企業に勤務している。
才色兼備の香織と違って、私は目立つ事が苦手で優柔不断だけど、この時は、不思議な力が湧いて私が判断した。
Present for you と日本人にしかも、初対面でいうのは一生でこれが最初で最後だと思った。
会場を出たら香織が私の両手を握りしめ
「Perfect!」
と褒めてくれた。
私は、申し訳なさで
「ごめんね、香織の誕生日なのに……」
と手を合わせた。
「謝らないで。むしろ素敵な誕生日よ。あの人、今頃、絶対にホッとしているわ!何か事情がありそうだったし、こういうのってちょっと運命的な気がする!」
と顔を紅くしながら髪を整えている。
裕矢は紺色のシャツと黒縁メガネが似合っていて、琉球ガラスのような透明感の中に海や空を彷彿させる雰囲気を放っていた。
まだ、髪を触りながら香織が
「ねぇ、あの人……」
どう思う?と共感を求めた表情でいう。
香織は学生時代、美術の先生に恋していたことがある。
その先生は、卒業式の翌日にクラスメイトと結婚式を挙げた。
もの静かでフランス映画に出てくるような先生で教室を歩くと窓から入る風でほのかに香水の匂いが漂い、大人の男性だと女の子たちを意識させた。
憧れの先生がクラスメイトと静かに愛を育んでいたことも知らずに、香織は、毎日、昼休みになると熱心に教科書にも載ってない新しい技法を生み出してはパステル調の絵を描いていた。
先生を射止めたクラスメイトが、自分で前髪をざくざくと切るような男っ気のないタイプだったことも驚いた。
香織はしばらく先生を忘れられないままでいて、私もそんな香織を見るのが辛かった。
それから、半年も経たないうちに、二人に子どもが産まれた、いう噂が流れ、それもさらに衝撃が広がった。
「薬指見たでしょう? オシマイ」
と、返すと香織は頬をプクッと丸め、駄々をこねた子どものようにスタスタと歩き出した。
香織には傷つく恋はしてほしくなかった。
まっすぐ大通りを歩いた先の宮ノ下の交差点を右に曲がった帽子屋の前を通り過ぎ、その脇の本屋の前で、香織は急に立ち止まり、運命、とか、愛、とかいわゆる女子的タラレバばなしを始めた。
香織はまだ先生を忘れられてないのか、それともイケナイ恋を経験したのか、誕生日にそれはとてもきけなかった。
結局、その日は本屋からさらにまっすぐ15分は歩き、踏み切りを越えた先にある三角屋根のパスタ屋に入った。
二人とも空腹だった。
香織は好物のペペロンチーノを注文し、私はスープパスタ、そして、レジ脇のショーケースに並んでいるケーキを二つ、追加で注文した。
韓国ドラマの話をひとしきり聴いて、パスタとケーキと赤ワインをグラスで2杯飲みほし、おなかいっぱいになり陽気に店を出た。
高校時代に流行ったラブソングを二人でうたいながら歩いた。
楽しかった。
高校時代に戻った気分だった。
遠回りをして駅前の小さな花屋の前まで来ると、香織が一歩も動かなくなり
「私ね、花束がほしくなっちゃった」
と、ねだりながら さらに
「今日、私、誕生日でしょ、29歳の誕生日は一生に一度しかないのよ、女の子の29歳は特別だから、急に花束がほしくなっちゃった、このまま帰るなんて、ヤダ」
かわいいと思った。
香織が愛しくなった。
抱きしめたくなった。
一歩前に出て力を込めてギュッと恋人のように抱きしめた。
香織の長い髪は高校時代と変わらない甘い匂いがした。
閉店間際の店内に急いで入ると、そこらじゅうにあるすべての花の爽やかな香りが私達を一瞬で包みこんだ。
レジの隣には、ピンク、白、黄色の秋桜が花束となってブリキのバケツの中で幸せを象徴するブーケのように鮮やかに咲き誇っていた。
私達の視線はここで釘付けとなった。
「これ!」
香織と私の声が重なった。
銀色のリボンが巻かれている秋桜の花束を渡すと、さっきまで陽気に歌っていた香織が泣きそうになっていた。
秋風に吹かれながら私は香織を抱き寄せた。
★ ☆
1か月後、私は一人であのプラネタリウムに足を運んだ。
あの人がいるような気がして。
見覚えのある紺色のシャツ、黒縁メガネ、やっぱりいた。
今度は一人で。
香織の事がとても大切なのに、香織に秘密を作ってしまう自分に嫌気がさした。
香織の言葉や表情が浮かび、やっぱり裕矢には自分からは声を掛けられなかった。
だから、裕矢の方から気づいてもらえるようにと一つ前の席に座った。
すぐに折りたたみ式シートを閉じる音が聴こえ、次の瞬間、裕矢が背をかがめながら私の隣へと移動してきた。
私は驚いたふりをして振り返った。
裕矢は私と目が合うなり、あの日、隣にいた白髪の男性が、プラネタリウムを観てから一週間後に本当の星になってしまったと話し出し、次に深く息を吸うとお礼をしたいので、よければお食事に行けませんか?
と少しずつ照明が暗くなる中、遠慮がちに誘ってきた。
私は白髪男性が星になったことへのふさわしい言葉が見つからないまま、上演を知らせるアナウンスにかき消されないように、裕矢の耳元で、あの日は親友の誕生日でかえって忘れられない思い出が出来たし、何よりも親友が嬉しそうだったからお礼など結構ですよ。と返した。
「わかりました。ではゆっくり冬の星座を観ましょうか」
裕矢は納得した瞳で館内が完全に暗くなったタイミングで眼鏡を外し小声で
「これは伊達メガネです」
そして、指輪も外し
「あ、これも、飾りです」
と付け足した。
宙に浮かんだ言葉がシャボン玉のように、膨らんだあと私の鼻の上でパチンと弾けたような気がした。
私は一瞬、肩をすくめる。
壮大な銀河系の映像に合わせたオーケストラの響きが鼓膜を震わせた。
無重力の宇宙の中で星を掬っては、指の間から小さな星屑がこぼれ落ちる感覚、夢なのか現実なのかどちらともわからない空間に包まれなが、めくるめく冬の星座を息をのんで眺めていた。
消えそうになっては、静かにゆらゆらと瞬く星の儚さが白髪の男性の面影と何度も何度も重なった。
裕矢の気持ちに思いを馳せると胸が何度も何度も締め付けらた。
知りあったばかりのアカの他人なのに。
フルートのビブラートの余韻と共に館内は夜明けのような光が射し次第に明るくなった。
私達はゆっくりと席を立つ。
「気になる星座はありましたか?」
裕矢がゆっくりと歩きながら質問した。
私もゆっくり歩きながら、一呼吸おいて質問に答えた。
「気になる星座ですか……。全部っていうのが正しいのか、それとも……。うーん。質問の答えにはならないかもしれませんが、真っ暗で境界線のない広い銀河系の中で瞬く星を一つでも見つけるとホッとするんです。ゆらゆらと瞬いているその儚さが好きなんです。
心がギュッと締め付けられそうな時に夜空を見ていると自然と涙が流れてしまい、星って癒されませんか。
私、でも、星座自体はよくわからなくて親友には、ほんとに同じ天文部出身なの、って笑われてます。人間って手の届かないきれいな儚い存在に憧れるんですよね」
「天文部だったのですか。あなたが星座をわからなくても、もしかしたら、星座の中の小さな星があなたを見つけて、あなたのために今夜も瞬いているかもしれませんよ。
僕は星を見ても涙は出ませんが、泣きたい気持ちになることはよくあります。
星座より星の一つ一つに魅力を感じるのは僕もおんなじです。
だから星座を覚えられないんですよね。
星座って目印として人が意味付けをして星たちを繋ぎ合わせて名前を付けたものだから星たちは自分自身に名前があるなんて知らないでしょうね、まぁ、星に感情なんてないでしょうけど。
あ、でも星に名前があることは素敵だと思うんですよね。
だって遠く離れた人に、例えば今夜はこの星座が見えてるよっていえば、具体的に同じ星を見つけることができるし、それって広い夜空を通して自分たちが繋がっている証だし、とてもロマンチックだと思うんですよね。だから、僕は今日、やまねこ座のことだけは覚えましたよ」
もっと話しが聴きたい、と思った。
足を止めて
「どうしてやまねこ座なのですか」
裕矢も足を止めた。
「好きだからです、猫が」
「私も好きです、猫が」
二人で顔を見合わせ目を丸くした。
そして、思わずクスッと笑ってしまった。
この人といると楽しい。
ありのままの自分でいられる。
心が澄んでいくのがわかる。
まだ一緒にいたい。
私達は、ゆっくりと歩きながらいろいろな話しをした。
でも、帰るまで伊達メガネや飾りです、と言った指輪の意味については、触れられなかった。
きいてはいけないと思った。
しばらく立ち話をしてから、また会う約束を交わし、次に会ったのは都心から電車で3時間はかかる湖のそばのプラネタリウムだった。
帰りには湖のほとりにあるパン屋に立ち寄り、ベーグルとコーヒーを買った。
ベンチに座って木漏れ日が湖面にキラキラと反射するのをみながらふっくらとしたベーグルをかじると、小鳥がベンチのまわりに降りてきた。
裕矢がベーグルをひとつまみ、足元に置くと、小鳥は急いでくちばしでベーグルを挟むとパタパタと小さな羽根を広げながら上空へと向かっていった。
すべてが優しく穏やかな気持ちになれた。
次にまた会う約束をして、5回目にはキス、7回目では初めて裸になり自分が女であることを歓べるようなセックスをした。
裕矢とのセックスは海中で戯れているようだった。
くちびるを重ねたまま、海の底まで二人でゆっくりと沈み、深海を這うように泳ぐ。
窒息する寸前まで深海で泳ぎ、お互いが離れてしまわないようにしっかりと指と指を絡め合い、そこからは一気に海面の揺らめきに向かって、強く抱き合いながら光を目指して浮上する。
浮上すると、また、押し寄せてくる波に呑まれ意識がなくなる寸前のぎりぎりのところまで勢いよく流される。
初夏のようなきらめく海。
しばらく強弱を繰り返す波と海流に身を任せていると、のみこんだ水分が流れ出し、ふっと力が抜けて軽くなる。
砂浜に打ち上げられた二人は海水を含んだ砂を掴み、優しくお互いの肌になじませる。
ゆっくりと身体を休めているとまた潮が満ちて窒息と呼吸を繰り返しながら私達は波の強弱と再び戯れる。
こんなに愛しあうのはうまれてはじめて。
親友の香織は、この10年で二人の男性と付き合い、最近また一人になったと正直に教えてくれたが、私は香織に対して、裕矢と溺れるようなセックスをしているなんてとても言えなかった。
★ ☆
ピピッピピッ。
テーブルに置かれていた裕矢の携帯電話のアラームがなり画面を見るとぴったり20時になっていた。
悲しい響き。
「そろそろ、帰ろうか。りさこ……。明日はもっとりさこを愛してる」
明日なんてなんの保証もないのに、裕矢は、帰り際には決まって未来形で愛の言葉をくれる。
裕矢との明日を何よりも望みながらも、私は、まだ決心のつかない気持ちをもて余し、気がつくとネガティブなことにとらわれている。
必要以上に自分を追い込んでもがいていることがある。
保証もない明日。
約束のない愛の言葉。
保証や約束では愛は測れない。
そんな結ばれ方もある。
愛してる。
愛されてる。
頭の中で言葉が巡る。
3週間に一度、私は夫に嘘をつく。
そして、今日も休日出勤だと嘘をついて帰宅した。
リビングをのぞくと夫がワイングラスを並べている。
「りさ、早く飲もうよ」
私が上着も脱がないうちに夫はワインを注ぎ始め、そそくさと立ち上がり、冷蔵庫からブルーチーズを取り出す。
そして、さっきまで裕矢と濃厚なキスをしていた私のくちびるを親指と人差し指でつまんで、パッと離してから自分のくちびるを重ねてきた。
私がギュッとくちびるを閉じると夫は不機嫌になり
「なんだよ、抵抗するのかよ」
と低い声でいう。
「ごめん。今日は頭痛がひどいからすぐに横になりたいの」
また嘘をついた。
「りさ、もしかして生理?
ちょっと、先月より5日は早いんじゃないか?」
「まだきてない。仕事のストレスかも」
早く会話を終わらせようと機械的に返答をしながら、私の生理周期まで事細かにチェックする夫の存在、そして、一方的にアルコールを勧めて酔わせて力づくでベッドに倒し、押さえつけて毎晩行為に及ぼうとする自分勝手な夫が嫌いで、裕矢に出会ってからは、ますます受け入れられなくなっていた。
どうしても力づくで押さえつけられてしまう時、私は感情を殺して人形になるしかなかった。
結婚当初はこんなに暴力的ではなかった。
独立をきっかけに夫は変わった。
高級なワインなんていらない。
夜景のみえる暮らしなんてなくていい。
広すぎる部屋はとても寂しい。
寝室に入ると、夫の手のひらが飛んできて、その乾いた音がこどものいない二人だけの静かな部屋に響き渡る。
夫はますます興奮し、ベルトを持ってきて高く振り上げ、太ももを4回叩いた。
やがて、じわじわと血がにじみ出し、あっという間に腫れていく。
夫の前では感情を失くした人形だから声も出さずに耐えるしかなかった。
でも、一度だけ、逃げ出したことがある。
翌日からますます夫の拘束は強くなり、太ももだけではなく、後ろを向けと命令され、背中に研磨された金属製のフォークを一ミリずつ刺して反応を見ては愉しんていた。
身体をよじれば、激しくなるから我慢するしかなく、抵抗する勇気もなかった。
香織が、夏には海やプール、秋には温泉、春には旅行に、と何度も誘ってくれたが、結婚してからは服を脱ぐ場所は絶対に行けなかった。
香織に打ち明ければ、助けてくれるはず。
香織はいつも正直なのに、私はいつも本当の事が伝えられない。
腫れ上がった太ももの傷は湯舟に浸かれないほどに痛み、クリームを塗りながら寝室で声も出さずに泣いた。
鏡越しに背中を見ると、幼い頃に母が手のひらで優しく撫でてくれた透き通るような皮膚は、どこにもなく、小さな斑点が無数に広がる悲しい背中に変貌している。
父親が会社で倒産してからの長い間、苦労の絶えなかった母の気持ちを想うと、幸せな夫婦を演じて安心させてあげるのが親孝行だと判断するしかなかった。
私は大泥棒より嘘つきだ。
裕矢に初めて肌を見せるのは勇気がいった。
それなのに、初めての日は昼間だった。
窓から射し込む光が私の傷を照らす中で
私は傷の事も忘れるほどに愛しあった。
日が落ちるまで愛しあい、やがて眠ってしまい、ふと目が覚めると裕矢の手は私の傷を優しくさすっていた。
涙が止まらなかった。
「10年以上前に出会いたかったよ」
なんと答えていいのか、わからなかった。
裕矢の厚い胸から鼓動がきこえる。
耳をあてると、ざーっと流れる血流とドクンドクンと響く心臓の音が伝わってくる。
あなたと生きていたいの、裕矢、夫から私を奪って連れ出して、と心の中で唱えた。
「愛してる……」
裕矢の声は泣いていた。
血がにじむでこぼこの肌、嘘つきのこのくちびるが私はキライ。
☆ ★
裕矢といるだけで味わったことのない幸せが訪れ、傷が再生していく。
満開の桜を見ようと川沿いを歩いた2回目の春。
花びらが落ちた先に裕矢がシロツメクサを見つけた。
その茎で小さな輪っかを作り、私の右の薬指に巻いてくれた。
私もお返しに輪っかを作り、裕矢の右の薬指に巻いた。
そして、二人で泣いた。
七夕祭りの帰りには、たった一杯のカクテルに酔ってしまい
「帰りたくない」
と、わがままを言ったら裕矢がコンビニで花火を買って来て、それから電車で海まで行って砂浜を歩いた。
波の音をききながら線香花火をしたのは初めてだった。
慌てて終電に乗り込み、街明かりが揺れる車窓を見ながら、また泣いた。
3回目の秋には二人で一つの林檎をかじった。
クリスマスは一緒に過ごせないから、と裕矢がチキンとシャンパンとケーキを買ってきて、黒沢通りのもみの木の下のベンチに座り1時間で平らげて、膨らんだおなかを見ながら二人で笑いあった。
帰ろうと立ちあがると、プレゼントだよ。と言って、ふわふわのマフラーを巻いてくれた。
4回目の冬、私が誘って、初めて一緒に映画を観に行った。
年明けには肉まんを頬張りながら誰もいない公園で30年後の二人の夢をいっぱい語った。
裕矢が白髪のおじいちゃんになったら、私をお嫁さんにしてもらうこと。
ひなたぼっこしながらおそろいの湯呑みでお茶を飲むこと。
毎朝、海辺を散歩をすること。
庭でブルーベリーを育てること。
二人の好きな猫と暮らすこと。
夢はどこまでも広がった。
同じ時間が刻めるように、とおそろいの手帳も買った。
裕矢を知れば知るほどに、裕矢のいない世界が怖くなった。
裕矢にとっての幸せとは何か、と悩んだ。
自分からは連絡してはいけない、距離をとらなければ、と考えたこともあった。
それは裕矢にとっても同じことで、二人でまったく連絡をせずに4か月過ごしたこともある。
でも、それは心がしおれ、生きる意味を失うことだとわかった。
また、巡ってきた秋。
悲しい出来事が起きた。
裕矢が私との約束をすっぽかしたのだ。
待ち合わせの場所を決めたのは裕矢なのに、その日は初めて、姿を現さなかった。
裕矢には裕矢の事情がある。
裕矢には子どもがいる。
街で裕矢を見かけた事があった。
その時の裕矢は眼鏡をかけていて、奥さんらしき女性とリュックを背負った10歳くらいの男の子が一緒だった。
裕矢を見上げる瞳は愛おしい人を見る眼差しだった。
私には入れる隙はないと思った。
全部、わかりきっていたことで、温かな家庭を壊してはいけない、頭では理解できるのに、裕矢から離れることができなかった。
裕矢の幸せを願った、それは本当。
奥さんは玉子焼きが似合いそうな女性で、裕矢はそれなのにどうして私と一緒に過ごしたのか、あのかわいらしい男の子の存在も、裕矢はどんな重さで受け止めているのか。
裕矢からの連絡が途絶えて1か月が経った日曜日に私は香織に呼びだされた。
裕矢が来なかった理由をきかされた。
香織は気づいていたのだ、私と裕矢の事を。
仕事中の不慮の事故だった。
目の前が真っ暗になった。
私はこの1か月、何も知らずにぼんやりと生きていた。
裕矢がいないことに気がつかない、気がつける手段を持ち合わせていなかった現実に打ちのめされて足元から崩れ落ちた。
どんなに手を伸ばしても届かない遠い星になってしまった。
今度は裕矢が。
嘘だ、嘘だ、嘘だ、裕矢。
香織が今度は私を抱きしめてくれた。
一晩中、泣いていた。
朝になると、香織は私のために駆け回って調べたと裕矢の墓の場所を書いたメモを渡してくれた。
りさこの好きなように生きていいんだよ。
住所の裏に、香織の懐かしい文字があった。
次の日曜日に一人でいくことに決めた。
裕矢は、潮風が吹く街の小高い丘に眠っていた。
出会った頃に咲いていた薄桃色のコスモスの花束を抱えてバスに乗った。
墓地行きということもあり日曜日の夕方の車内は貸し切り状態で静まり返っていた。
人目を憚らなければいけない関係性を象徴しているかのようで、一番後ろの席で揺られながら、死ぬほど泣きたくなった。
車窓から見える景色は情熱的な裕矢の心を中を見ているような輝く海が広がっていた。
坂道を登りきり、バスが停まるとそこから歩いてわずかのところに、ひっそりと佇む新しい墓石を見つけた。
今朝、生けられたばかりのみずみずしい花が咲き誇っている。
このみずみずしい花を前にいかに裕矢が家族に愛されていたのかを想い知らずにはいられず、手持ちのコスモスをどう扱ってよいのかもわからないまま、その場で膝を落としてまた泣き崩れてしまった。
嫉妬でもなく、安堵でもなく、突きつけられた現実に、そしてこの言葉にならない感情に対して途方にくれるしかなく、裕矢がくれた「明日も愛してる」が消えていきそうになる。
訪れることのなかった二人の未来。
潮風が墓石を撫で、その風が私の髪を揺らした。
柔らかなくちびるもザラザラの顎も大きな背中も強く抱きしめてくれる腕も甘咬みできる肩ももう触れることができない。
視線を先に伸ばすと海面には、沈んでいく夕陽が反射している。
そして墓石にオレンジ色を放つ。
夕陽のオレンジに包まれながら、私は墓石を抱きしめ、くちびるをあてて、裕矢を感じた。
滑らかでひんやりとした硬い感触は、かつて愛し合っていた裕矢とはまるで違うものだったけれど、私は夕陽が沈みきるまで繰り返し何度も何度もキスを続けた。
そうせずにはいられなかった。
夕方の風が吹き抜ける。
傷つける場所には、もう戻らない。
愛する人といたい。
裕矢に会いたい。
会いたい。
鼓動を感じたい。
私も星になりたい。
墓石の前でそう願うと、一粒の雨が私の肩に落ちたかと思うと、ぽたぽたと雨足が強まり私は全身一気にずぶ濡れになった。
体温が急降下で冷えていくのがわかった。
ますます雨は激しさを増し、急激な震えから息が止まりそうになるのを感じながら、裕矢の名前を強く叫んだ。
私も星になりたい。
震えながら裕矢を想い、さらに願った。
同じ空で繋がり合う星になりたい。
その日は今年で一番寒い11月だった。
一週間、食事をとれなかったこともあり、体力の限界で裕矢の墓石にもたれて意識を失ってしまった。
夜が明けた頃、いつか見た玉子焼きの似合う女性が私の身体をさすり、私は意識が朦朧とする中でぼんやりと目をあけた。
「あなたがりさこさん?」
女性は続けた。
「裕矢を愛しているのでしょう?裕矢の遺品となった手帳にはりさこさんの名前が毎日、書いてあるわ。裕矢も同じ気持ちよ。最後までりさこさんを想っていたから、私が変わりに本当のことを話すわ。
裕矢の妻は流産をきっかけに自死したの。悲しい死だった。
10年以上前の話よ。だからもうこの世界にはいないのよ誰も。二つの命を続けて失って裕矢は抜け殻のようになり星ばかり眺めていてね。妻がとても気にかけていたたったひとりの身内だった父親が亡くなったそのときは、りさこさんの存在に救われたのよ。
裕矢は、りさこさんと出会ってからまるで息を吹き返したように輝いて、むかしの明るい裕矢に戻っていったの。
でも、裕矢は悩んでいたみたい。最後まで守り抜く難しさを誰よりも知っていたから。だけどね、私は裕矢の姉として、りさこさんには感謝をしています。突然の死は悲しいけど明るさを取り戻した裕矢に会えて本当にうれしかった。りさこさん、ありがとう……」
お姉さんの遠くをみつめる瞳が裕矢に似ていると思った瞬間、とめどなく涙が溢れた。
勇気を出して裕矢にきけばよかった。
そして、私も隠さず話せばよかった。
後悔が残った。
もう、生きている意味がないと思った。
夢の中で裕矢と湖畔を歩いた。
持ち物はなにもない。
なにもないのに裕矢が隣にいるだけで幸せがあり、裕矢と私は指を絡めあい、シロツメクサの輪っかをお互いの薬指に結び、一つのリングにした。
いろいろな場所に二人で行ったね。
裕矢と出会えた人生でよかった。生まれ変わっても裕矢と出会いたい。裕矢、これからもずっと愛してるから。裕矢のすべてが私の身体中を巡っていくのを感じたその瞬間、呼吸が完全に停止し、すーっと身体が宙に浮くように軽くなり、裕矢の墓の前で倒れている自分自身をみつけた。
空気のように、どんどん身体が軽くなり、真っ暗な世界の中央で優しく弾けて、私は夜空の星になった。
二人で話したやまねこ座は銀河系ではとてもひっそりしている星なのに、間近で見ると壮大でとても眩しい。
そのとなりには、まだ名前がない星が二つある。
裕矢と私。
そのまたとなりには、裕矢の奥さんと小さな赤ちゃんの星もある。
愛する人との時間をたいせつに。
それが名もなき星のメッセージ。
☆★