2度もDVで離婚って・・・?
私はバツ2のシングルマザー。
離婚の原因はいわゆる「DV」
しかも2度、同じ理由で離婚に至っています。
「へ!?どうして2度も?」
そう思いますよね~私も思います(笑
「懲りない人なんだねぇ」なんて思われるかもしれません(^◇^;)
でも、私自身にとっては、それなりの理由があるのです。
そして「DVとか、自分には関係のない遠い世界の話だな」
そんな風に思われる方にも、ちょっとだけ聞いて貰いたいのです。
そして、ちょっとだけ一緒に考えてみて欲しいのです。
時代背景
1度目の離婚は今からかれこれ20年程前の話になります。
(私の年齢は想像しないでね 笑)
今でこそ「DV」や「虐待」「トラウマ」という言葉は誰でも知っているものとなっていて、「言葉」が存在するということは「概念」が存在するということでもあります。
逆に言うと「概念」がないということは、その「事象そのもの」が存在しないということになります。
ちょっと小難しい表現をしましたが・・・
つまり20年以上前は「DV」などの言葉、概念は現在のように広く知られてはいませんでした。
なので「DV」という事象そのものが、ほとんど認知されていませんでした。
事実、当時の私はDVという言葉も知らなければ、それについての知識も一切ありませんでした。
そしてそれは私だけではなく、私の周囲も社会も同じでした。
私は自分の家庭と自分自身に何が起こっているのか全く分からずに、ただただ悩み、苦しんでいました。
今ならきっと「それDVだよ!」と言われるだろうなと思うことも、当時は「まぁ夫婦は色々あるからね」
「夫婦は良い時ばかりじゃないからね」
「確かに酷いけど、あなたにも何か原因があるんじゃないの」・・・云々
こんな言葉が返ってくるばかり。
人に相談すればするほど「全て自分が悪いのではないか」
「自分が良い妻じゃないからこんなことになっているのではないか」という罪悪感や劣等感、自己否定感が増していくばかりでした。
警察の対応も現在とは雲泥の差がありました。
「ちょっとやりすぎた夫婦喧嘩」くらいの対応しかありませんでした。
そして警察からの保護やサポートなども一切ありませんでした。
そんな時代背景もあり、私は離婚した後もこの時自分の身に起こっていたことが何だったのか理解しないままで過ごしていました。
これが「DV」だったと気付くのは、ここから約20年後。
2度目の離婚に直面した時だったのです。
誤った認識
皆さんは「DV」という言葉を聞いて何が思い浮かぶでしょうか。
「DV」=「身体的暴力」
おそらく、多くの方がこのような偏ったイメージを持たれているのではないかと思うのです。
もちろん身体的暴力は間違いなくDV行為のひとつです。
ですが身体的暴力がDVの「全て」ではありません。
実はDV被害者のうち、かなりの割合の方が「1度も身体的暴力を受けたことがない」というのが現実なのです。
「DV」という行為の先には目的があります。
それは「支配とコントール」です。
その目的を果たすための手段として、「性的DV」「経済的DV」など様々な「DV行為」があります。
それらを駆使して対象者を自分の支配とコントロール下におくのです。
そしてこの誤った認識に、さらに拍車をかける原因はメディアの影響が大きいと思っています。
私達が「DV」という言葉に触れる時、テレビをはじめとするメディアから発信される「ニュース」であることが多いかと思います。
そしてニュースになるということは、かなり重篤なケースであることがほとんどです。
このようにメディアの発信する情報から「DV」について偏ったイメージを持ってしまうのは、DVの被害に直面している方も同じです。
こうした思い込みから、当事者本人が自分自身のおかれている状況を正しく認識することを妨げてしまうケースも少なくないと思います。
そして誰もが「DV」なんていうものは「自分には無関係の遠い世界のこと」だと思っています。
無意識に、そう思っています。私もそうでした。
第三者から客観的に見れば分かることも、当事者にとっては理解することが難しいものなのです。
なぜなら当事者にとって、それは「日常」だからです。
その「異常な状況」はある日突然やってくるものではないのです。
当たり前の、いつも通りの日々の中で起こる小さな出来事、小さな違和感、ほんの些細な痛み・・・
その小さな小さな「変化」が長い時間をかけて大きくなり、気が付けば足下に大きな亀裂となっているのを、ある日、ある瞬間に知るのです。
そしてこれは「DV」なんていう、ちょっと特異なケースだけに限った話ではないのです。
・いつの間にかパートナーとの関係が冷め切ったものになっていた
・仲の良い親子だったのに、今では口もきかない関係になってしまった
などなどなど・・・
私達の、当たり前のように過ぎていく日常の中に起きる小さな出来事が、気がつけば「どうして、こんな事になってしまったんだろう」という結果になってしまうことがあります。
後になって振り返ったときに初めて「あの時のあれが・・・」と気付くような小さな小さな異変です。
きっと誰にでもそんな経験があるのではないでしょうか。
だからこれは無関係でも、遠い世界の話でもないのです。
誰しもが、当事者になる可能性は持っているのです。
失う恐怖
こんな私は、カウンセリングを受けたことによって、やっと自分が「DV被害者」という立場にあることを理解することができました。
そしてそれと同時に気付いたことがありました。
それは「認めたくない」という思いが自分の中にあったことでした。
自分が直面している問題を「認めたくない」と、無意識のうちに現実から逃げていたことに気付いたのです。
本来であれば自分と家族を、愛情を持って大切にしてくれていたはずのパートナーが、自分を傷つけ、苦しみを与える「脅威」になってしまったという「哀しい現実」を、私は認めることができなかったのです。
そして「いつかは分かってくれるかもしれない」「変わってくれるかもしれない」という微かな願望と希望を捨てられず、そのせいで自分と子供達を苦しみの中に置き続けてしまいました。
私の作った家庭は、いつの間にか「苦しみと悲しみ」で満ちた場所になってしまいました。
でも、そこはかつては確かに自分の唯一の「居場所」であり、愛する人がいた場所だったのです。
それを「手放す」ということは「失う」ことでもあったのです。
たとえそれが今は自分を苦しめるものになっていたとしても、それを「失う」ことで生じる悲しみや喪失感、孤独感を背負うことのほうが、私にとっては恐ろしいものだったのです。
そして、その恐怖から逃れるために、私は自分を苦しめ続けてしまう環境に知らず知らずのうちに執着し、しがみついてしまいました。
あなたの課題は?
私が経験したことは特別なことではありません。
これは誰にでも起こっていることなのです。
「DV」という部分を他の何かに置き換えて考えてみて下さい。
・パートナーに浮気されたけど別れる決心がつかない
・今の友達といるのが苦痛だけど、付き合いをやめられない
・親との関係に問題があり悪影響があるのに離れられない
こんなふうに置き換えてみると、誰にでも何か思い当たることがあるのではないかと思います。
ちなみに私は上記に書いたこと全て経験があります(笑
自分で書いてみてビックリしてしまいましたが( ̄。 ̄;)
どれも客観的に考えてみれば、どう対処すればいいのか、そんなに難しい問題ではないのかもしれません。
でも、それが「できない」理由があるのです。
その「できない理由」こそが、真の「問題」であり、自分が向き合わなければならない課題なのです。
ところが人は、根本的な部分に迫れば迫るほど、恐怖を感じます。
そこには「痛み」があるからです。人は痛みを避けようとします。
そして、表面的な問題に意識を向けて解消しようとします。
でもそれでは根本的な解決にはなっていないので、また別の出来事を通して同じような経験を繰り返していきます。
「問題」とは言い換えれば「課題」です。
「課題」はクリアするまで何度でも、どこまでも追いかけてきます。
「パス」することはできないのです。
あなたが今抱えている「問題」は何ですか?
あなたにとっての「課題」は何ですか?
怖いかもしれないけど少し一緒に考えてみませんか?
誰でも「課題」を持っています。私にもあります。
課題を持たない人はいないのです。
課題とは、私達を成長させるためのものです。
怖いものでも、自分を苦しめるものでもありません。
課題は心と人生を豊かにする、大きな気付きと学びです。
そして私達は、その課題をクリアするために必要なものは全て持っています。答えは常に自分の中にあるのです。
自分自分の中にある宝物探しです。
その課題に向き合えた時、私達は自分自身という存在の素晴らしさに気付いていけるのです。
最後に・・・2度の離婚を経て、やっと向き合う覚悟ができた私の「課題」とは・・・・それは「母」でした。
母が私の人生の「ラスボス」なのでした。
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