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村上春樹/鼠三部作 ① ~風の歌を聴け(1979)


作家・村上春樹 (1947- ) のデビュー作。1979年発表。いわゆる「鼠三部作」の最初の1冊でもある。ただ、僕が読んだ最初の村上作品ではない―初読が何だったかは覚えていない。

大概読んだ村上作品の中で、何故か再読が多いのが「鼠三部作」+ダンス・ダンス・ダンスであり、最近また読み始めたのが本作である。「処女作には作家の全てが内包される」―というが、表現や内容が近年の作品を連想させるものもあって楽しめたし、また読み直したりもした。ある意味時代を経ても読後感がさほど変わらないのは、作家の描く世界観が普遍的なものだからなのか (あるいは単に「そのまま」なだけなのか)、僕が成長していないからなのか…。ただ、特にこれといった出来事が起こるわけじゃない「18日間+α」を描いた言葉の「何か」が読む度にひしひしと感じられたり、気づいたらリンクした自分の思い出に耽っていたりするのである―。

以前読んだ「宮城谷昌光/クラシック 私だけの名曲1001曲」の中でも、宮城谷氏が選んだ多くの曲が「第1番」であったのを思い出す―後年の円熟した筆致を期待でなくとも、無謀なまでの勢いと初々しさ (=不器用さ) が感じられるのが「処女作」の醍醐味であり、ある意味では当人ですら超えることができない領域に属するものなのかもしれないとも感じる。一旦生み出してしまえば、二度と同じものは生まれ得ない。何も処女作に限ったことではないかもしれないが―。

ブラームス/交響曲第1番~第1楽章。プレッシャーがそのまま音楽に表されているかのような重々しさ―着想から21年後に完成された。宮城谷氏が挙げていたベイヌム/ACO盤より―。

上記の内容が当てはまらないのがモーツァルト。彼の交響曲第1番を何とグールドが指揮した1957年の放送音源。早くも「ジュピター」を思わせるフレーズが聞こえる。老いを知らない既に完成された作曲家であった。ちなみに宮城谷氏は「享楽的」という理由で1曲も取り上げていない。


村上氏がこの小説を書くに至ったいきさつは、本人へのインタビューで語られているし、ウィキペディアにも示されているが、本の当初のタイトルは「Happy Birthday and White Christmas」だったという―主人公の「僕」の誕生日が12月24日であり、「鼠」が書く小説の原稿の冒頭にいつも記されている文言だった。現タイトルはカポーティの小説からとられ、「僕」の年齢は村上氏と同じく設定されている。人気作家であるためか (本作も15ヶ国語で翻訳されている) 、あるいはその独自の文体や構成、扱われるテーマのためか考察本も多く、多くの分析やツッコミがなされてたりするので今更の感は拭えないのだが、僕なりの視点で少し語ってみたいと思う―。

大森一樹監督作品(1981)。本作にも登場するビーチボーイズ/カリフォルニア・ガールズが主題歌で用いられている。

「映画にするならこれを―」と村上氏自身コメントしていたが、上記の映画では使用されなかった。



完璧な文章などといったものは存在しない。
完璧な絶望が存在しないようにね。

全40章+αからなるこの小説は上記の印象的な一文で始まるが、作家自身のアイデンティティに関わるほどの「大変お気に入り」な文章なのだそうだ―読者やリスナーにとっての「忘れられないフレーズ」のようなものなのかもしれない。静かに心に寄り添い、あたため、気づいたら前進する力が再び湧き上がっている、そんなポジティブな帰着点を持つ存在―。

面白いのは、二重三重の設定―「僕」が回想して書く文章、引用される作家 (実は架空の人物) の文章、友人の「鼠」の「誰一人死なない」小説の文章、そして本編を執筆する村上氏自身の文章 (あとがきで登場) ―である。そして (ささやかながら) 僕がnoteを通して文章を書いている、まるで「合わせ鏡」のようだ―あるいはシェイクスピアの時代から用いられてきた「劇中劇」のようなものか。

アルヴォ・ペルト/「鏡の中の鏡」。珍しいアルト・フルート&ピアノ版で―。


誰しもが普通に送っている日常のシーンが扱われるが、徐々に不思議な侵食が生じてくる―というのが村上氏の作品から受ける僕の印象だ。きっと読者のほとんどは、「自分の日常」が小説化されることに困惑すると思う―読まれるに値しないし、そもそも平凡すぎて面白くない―、たとえそれがフィクションであってもだ。それでも村上氏の描く「日常」は日常のふりをしているように感じられてならない (描かれる女性はきまって「普通」の容姿であり、名前も覚えていないほど平凡なものなのに…) 。必ずといっていいほど歪なものが侵入してくるのである。それは超自然的なかたちをとるものもあれば、「欠陥 (欠損)」「不均衡」という仕方で―本作では片手が4本指の女性が現れる―、あるいは「1Q84」のように「カルト団体」「権力」という姿で示されてゆく―。そして登場人物たちによって語られる言葉の背後には虚無感が漂っているのである―たぶん僕は、一見気の利いたキザなフレーズや描写に空気のように纏わりついてるこの雰囲気に惹かれているのだと思う。不可解な「侵食」が否定できないほど明確化し、対処せざるを得なくなった時点で物語は (それとわかるくらい) 進行を早めてゆく。終盤では (一応表面的な決着がつく?) 普段の日常に戻ってゆくのだが、最終的な判断は読み手に委ねられているように感じることがほとんどだ。

本作ではそこまでの進展はみられない―あくまでも普段の日常が保たれている。ただ、40章それぞれは入れ子式に時系列が (意図的に) シャッフルされており、断片的な印象が強い。筋を追うことに慣れているなら読みづらく思うだろうが (以前知り合った子は「相関図」を作るのが好きで、彼女が森見登美彦氏の本を僕に勧めてくれた) 、特にこだわらず、展開に身を委ね、各シーンに接するとき自らのうちに生じるリアクションを楽しんだり懐かしんだりする僕にとっては、かえって面白く感じてしまう。


これから改めて読んだ本作の、僕が感じた印象深いフレーズやシーンをいくつか取り上げたいと思う―。

「僕」と「鼠」とのやりとりが物語のメインであることは間違いないと思う―大学1年の時、「僕」と意気投合した彼がどうして「鼠」と呼ばれているのかは説明されていない。5章で「おそろしく本を読まない」鼠が理想の小説について語るのだが―誰も死なず、セックスシーンがない小説―、31章では小説を書こうと思ってることを「僕」に告げる―ただこの時点では何も書けない状況だった。「鼠」は福音書の言葉「汝らは地の塩なり。塩もし効力を失わば、何をもてか之に塩すべき」を引用する―。この31章は鼠にとって核心に迫るシーンだと思う。それまでの一週間、明らかに彼の様子がおかしかったのだが、これを機に「僕」がその話題に触れるのだ。ほんの少しだけ事情を話す鼠に対して、(どこか達観した雰囲気を持つ)「僕」はこのように言う―。

条件はみんな同じなんだ。人並外れた強さを持ったやつなんて誰もいないんだ。みんな同じさ。何か持ってるやつは失くすることを恐れ、持ってないやつは永遠に何も持てないんじゃないかと心配する。みんな同じさ(ここが強調されている)。だから早くそれに気づいた人間がほんの少しでも強くなろうって努力するべきなんだ。(強い)振りをするだけでもいい。

あんたは本当にそう信じてる?

ああ。

嘘だと言ってくれないか?

このやりとりをどう思われるだろうか―正論だと感じられるだろうか?―確かに。ただ、「鼠」は明らかに納得していない。僕はここを読んで、三部作の最後「羊をめぐる冒険」での (死んだ) 「鼠」と「僕」との最後の会話を思い出した。いつになく饒舌の (「生」から解き放たれたからだろうか) 「鼠」は言う―。

キー・ポイントは弱さなんだ 本当の弱さというものは本当の強さと同じくらい稀なものなんだ。たえまなく暗闇にひきずりこまれていく弱さというものを君は知らないんだ。そしてそういうものが実際に世の中に存在するのさ。何もかもを一般論でかたづけることはできない

僕が「鼠三部作」を好む理由の1つがここにある―。


34章の冒頭にはこのようなフレーズもある。

僕は時折嘘をつく。嘘をつくのはひどく嫌なことだ。嘘と沈黙は現代の人間社会にはびこる二つの巨大な罪だと言ってもよい。しかし、もし僕たちが年中しゃべり続け、それも真実しかしゃべらないとしたら、真実の価値など失くなってしまうかもしれない。


本作を読んでたら、他の村上作品を思わせるフレーズが幾つかあった。1章で紹介される作家「デレク・ハートフィールド」―その昔、架空の作家にもかかわらず図書館に問い合わせが殺到したという逸話が残されている―に文章の多くを学んだという「僕」(「僕」もまた村上氏同様「作家」という設定なのだろう。「鼠」もそうだった―「鼠」は「僕」のドッペルゲンガーなのだろうか―)が、32章で「火星の井戸」という作品を紹介する―「井戸」というキーワードは後の「ねじまき鳥クロニクル」を思い出す―。火星人によって火星の地表に無数に掘られた「底なし井戸」に、宇宙を彷徨っていた1人の青年が潜ってゆく…という話だが、別の井戸から再び地上に出た青年は老いてしまった太陽を見る。そこで「風」が囁き、青年は風に事情を尋ねるのだ。井戸を抜ける間に15億年の歳月が流れたことを説明した後、風は最後に質問する―「君は何を学んだ?

大気が微かに揺れ、風が笑った。そして再び永遠の静寂が火星の地表を被った。若者はポケットから拳銃を取り出し、銃口をこめかみにつけ、そっと引き金を引いた。

僕には「1Q84」BOOK2の最後のシーンにリンクするものを感じる―チェーホフの言葉「物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない」も。


11章以降登場する「ラジオN・E・B」のDJが12章で「僕」のところに電話してくる (「ポップス・テレフォン・リクエスト」の放送中なのだ) 。お約束の「ラジオ聴いててくれたかい?」との問いかけに「僕」は「本を読んでました。」と答えると、DJがこう言うのだ―「本なんてものはスパゲティーをゆでる間の時間つぶしにでも片手で読むものさ。わかったかい?

もうお分かりだろう―そう、「ねじまき鳥クロニクル」の冒頭シーンである。もっともこの時はFMで流れているロッシーニに合わせて口笛を吹きながら茹でていたのであるが―途中電話が来たのでアルデンテには仕上がらなかったようだ。

ロッシーニ/「泥棒かささぎ」序曲。確かに美味しく茹で上がりそうだ。小説ではアバド/LSO盤だったが、ここではCOE盤で―。


ところで本作には (意外にも) 感動的ともいえるシーンが挿入されているのも興味深い。「ラジオN・E・B」繋がりで、37章には番組に届いた17歳の少女からの手紙が最初に読まれる―彼女は脊髄の病気で3年間寝たきりであった。回復の可能性はわずか3%―。

がこの三年間にベットの上で学んだことは、どんなに惨めなことからも人は何かを学べるし、だからこそ少しずつでも生き続けることができるのだということです。時々、もし駄目だったらと思うととても怖い。一生こんな風に石みたいにベットに横になったまま風の中を歩くこともできず、何十年もかけてここで老いて、そしてひっそりと死んでいくのかと思うと我慢できないほど悲しいのです。夜中の3時頃に目が覚めると、時々自分の背骨が少しずつ溶けていく音が聞こえるような気がします。もし、たった一度でもいいから(海の香りを胸いっぱいに吸い込めたら)、世の中が何故こんな風に成り立っているのかわかるかもしれない。そしてほんの少しでもそれが理解できたとしたら、ベットの上で一生を終えたとしても耐えることができるかもしれない。さよなら。お元気で。

DJは手紙を読んだあと、港まで歩いて周りを見渡し、巷に溢れている命の営み、尊さを感じる―。

僕は・君たちが・好きだ。」(と太文字で記されている) を「僕の言いたいこと、一度しか言わないこと」として真摯に記されていることに感慨を覚える―そのあとDJはいつもの「犬の漫才師」に戻る。村上氏はこのセリフについて後日コメントを残しているが、DJは「本気で言っている」のであり、「孤独」を否定できない僕たちの「何かの役に立つ」のではないかと思った、と語っている。ちょうど前述の鼠の世界観と良いコントラストを出していて、物語に深みを与えているように感じられてならない。

「彼女」がリクエストしたエルヴィスの「Good Luck Charm」を―。


本作の最後40章では再び「ハートフィールド」について触れられる。エンパイア・ステート・ビルの屋上から飛び降りた彼の墓碑銘にはニーチェの引用が記されていた。

昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか。

そして巧妙にも「あとがきにかえて」ということで「ハートフィールド、再び……」と村上氏の名前で後書が記されるが、それは文庫本のみに載せられている。

マーラー/交響曲第3番~第4楽章。ニーチェ/「ツァラトゥストラ」から「真夜中の歌」が歌われる。

小指の無い女の子がバイトしてる店で「僕」が買ったレコードの数々。3枚で5,550円なり―。


僕たちはどんな「風の歌」を聞くのだろうか―。


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