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隣人を愛するのは、ほとんど無理 ドストエフスキー「大審問官」③

コロナ期にあらためて『カラマーゾフの兄弟』に挑戦したことは前回、書いた。
 あの時、私は、若いころ読んでいまいちピンとこなかった本で、しかもいまだに気になっているものを、このさい、読みかえしてみようと考えた。

 たとえば、その中には、森鴎外『渋江抽斎』もふくまれていた。こちらの方は、難行苦行どころか、じつに楽しく読めた。
 うるさがたの石川淳がめづらしく激賞しているのを見て、そんなにいいかね、とおもっていたのだが、今回読みかえしてみて、はじめてその「名文」をいくぶんたりとも味読することができた。
 あの気位の高い永井荷風が、鴎外にだけはまったく頭があがらなかったというのが、ちょっと解る気がした。

 よくよく考えてみると、この差は、ドストエフスキーの小説の構造だけでなく、翻訳文学の限界ということにもあるようだ。私にロシア語原文で読める語学力があれば、意外と、楽しく読めたのかもしれない。
 ロシア人にはおそらく、『渋江抽斎』は面白くないだろう。

 昨日、用事があって銀行に行ったら、待合室で、地元劇団の「ハムレット」の公演チラシを目にした。それにはコピーとして、ハムレットの名ぜりふが二つ大きく印刷されていた。

――生き続ける、生き続けない、それがむずかしいところだ。

 マジかよ、間延びにもほどがある、RSCの役者がリズミカルに歯切れよく演じたのを観たことがあるが、この翻訳ではどんな名優をもってしても、さすがにそれは無理だ。原文は弱強五歩格の律文だぜ。

――この世界の間接が外れたのだ。

 話言葉で「××のだ」とか、「××なのだ」というのは、バカボンのパパだけだ。
 赤塚不二夫はわざと、それを笑いのネタにしているのだが、この翻訳者が大真面目にそれを採用しているのには、まったくおそれいる。もうこうなると律文以前の問題である。「これで、いいのだ」とは、とてもいえない。
 私が劇場でそれを観たら、たぶん、吹き出すとおもう。

 演劇はもっとも実生活に近い芸術であり、当然せりふはその原則にしたがわねばならない。

 ドストエフスキーもシェークスピアを愛読していたようで、プーシキンほどではないにしても、しばしば引用される。かれの対話的な小説の構造は、「百万の心をもつ」シェークスピアからの影響もあるのではないかと考えられる。

「大審問官」の前段も、イワンとアリョーシャの対話で構成されている。
 そしてこの「反抗」という章は、「大審問官」のプロローグをなしているのだが、ある意味、小説全体からすると「大審問官」以上に重要な意味をもつ場面である。

 兄・イワンは、「地下生活者」やシガリョフ、ラスコーリニコフ、イッポリト、スタヴローギンの系列をひく、観念に憑かれた青年である。かれらをより進化させた人物といっていい。「ユークリッド的知性」をもった近代主義者であり、無神論的立場から、キリスト教の偽善を糾弾する。
 シニカルで虚無的、涓介で、つねに孤独の影をまとっている。

 他方、アリョーシャは、ロシア正教の僧院に通う、どこまでもキリスト教の理念に忠実であろうとする反近代主義的な人物である。
 温和で優しく、なにごとにもまず善意を見ようとする青年だ。

 前者は国際的な合理的個人主義者・哲学的唯物論者であり、後者はロシア的な神秘的精神主義者・宗教的理想主義者である。否定的悲観論と肯定的楽観論。そうした対比をあたえられている。

 こうした兄弟二人の対照的な位置は、ドストエフスキーによって注意深く設定されたものである。

「反抗」

 表題の「反抗」は、キリスト教の世界理解にたいする、イワンの反抗を意味している。
 かれはアリョーシャにむかって、心中ふかく抱いているキリスト教への疑義をぶつける。

 イワンの「ユークリッド的知性」によって、キリスト教の理念が提示する世界調和の矛盾が、するどく抉り出される。

 まず、イワンは次のようにアリョーシャに問いかける。「隣人愛」というキリスト教の根本的教義に疑義を呈するのである。

 いったいどうして近き者を愛することができるのか、俺にはとて
も納得できない。まさに、近き者こそ愛することはできぬと思う。

 俺にいわせたら、人間にたいするキリストの愛は地上にはありうべからざる種類の奇蹟だ。たしかにキリストは神だった。だが俺たちは神じゃない。

 抽象的には、隣人だって愛せもしよう。ときには遠くからでも。しかし近くからではまず無理だ。

「カラマーゾフの兄弟」米川和夫訳

 遠くの人を愛するのは容易い。しかし「近き者こそ愛する」には困難なのだ。それは人間の真実である。
 たとえばアフリカで紛争があり、子供たちが飢えている。われわれはその傷ましさに同情し、すすんで募金に応ずる。

 だがしかし、隣家の住人がたえず私に嫌がらせを仕掛けてくる。大きな音で音楽を流し、中傷の張り紙を玄関に貼り付け、ガレージの扉に落書きをし、ピンポンダッシュを繰り返し、車を傷つけ、花壇を荒らす。そんな人物をわれわれは許し、あまつさえ愛することができようか。

 そんなのは極端な例だというなら、それまで仲良く見えていた兄弟でも、親の介護の分担とか、遺産相続とか、利害の衝突が起こると、どうしようもなく険悪になることはどこにもある、ごくありふれた光景だ。
 それは個々の案件が、かれらを必要以上に近づけてしまったことによって生じる軋轢なのである。距離をたもつことで成立していた兄弟愛は、接近することで憎しみへと変容する。

 べつのところで、ゾシマ長老というアリョーシャの師が、ある人物に仮託して、人間の真実について語る次のような場面がある。

 人類のために十字架さえ背負いかねないほどの勢いであるのに、そのくせだれとでも一つの部屋に二日といっしょに暮らすことはできぬ。だれかちょっとでも自分のそばへ寄ってくると、すぐその個性が自分の自尊心や自由を圧迫する。それゆえ、わたしはわずか一昼夜のうちに、すぐれた人格者さえしんそこから憎むことがあるしまつだ。ある者は食事が長いからというて、またある者は鼻かぜを引いて、ひっきりなしに鼻をかむからというて憎らしがる。つまり、わたしは人がちょっとでも自分に接触すると、たちまちその人の敵となるのだ。

「カラマーゾフの兄弟」米川和夫訳

 遠き者は愛せても、近き者は愛せない――それが人間の本性であり、キリスト教の理念は、そういう人間の現実に背馳すると、イワンはいうのである。そしてそれは、ドストエフスキーの洞察でもある。

調和と子どもたち

 そして、このことを前提とした上で、イワンはさらに問題の核心へと踏み込んでいく。

 ここで語られるのは、実際にあった何件もの無垢な幼児の虐殺の事例である。(註)
 かりにその惨事がいつの日か、神の恩寵によって終末の日に調和するとしても、なぜ子供たちがその踏み台とならなければならなかったのか、どうして神はその時点で奇蹟をあらわして子供を救おうとはしないのか、そしてそういう非道をあえてする人物をもキリスト者は許し愛せるのか、とイワンは執拗に弟に問いかける。

 さらに、ささいな理由から獰猛な猟犬の群れをけしかけて、母親の目の前で子供を食い殺させたロシアの将軍の話をして、弟を十分に動揺させた上で、アリョーシャに水をむける――さて、どうだ、この将軍は銃殺すべきかね?

「銃殺です!」と、アリョーシャは思わず答えてしまう。
「ブラボー!」とイワンは叫び、「お前の心にも悪魔の子が潜んでいるのだ」という。

 われわれには、なかば本能のようなかたちで、いついかなる場合においても、人を殺すことは悪であるという確信がある。
 だがもう一方では、たとえば戦争で敵兵を殺す場合、革命で反革命勢力を排除する、そうした場面では殺人は悪ではないとする思想の枠組みも確実に存在する。

 千人の家族や同胞に害をなす百人の敵を殺すことは、目的において正当化される場合があるのだ。
 国家権力や政治集団にかぎらず、われわれの社会そのものが背景として暴力を隠しもっていて、実際にその暴力を行使するかしないかはべつとしても、人間社会というものがそうした非人間的論理を基礎として成立していることは疑いえない事実である。

 ドストエフスキーはまだ若いころ、社会主義者と親密な関係にあった。なかでもべリンスキーは極左的無神論者であり、理想の社会主義体制を樹立するためならば手を汚すことを厭うてはならず「数百数千の首をはねることも辞さず」という立場を鮮明にしていた。キリスト者であるドストエフスキーは当然反発し、かれと決別する。そうした非人間的な態度はとうてい受け入れられるものではない悪魔的なものだと思われたからである。

 だがここでアリョーシャに、「銃殺です!」といわせているのは、思想の枠組みとしてだけではなく、いいかえれば社会体制の維持という集団的な制度的要請とはべつに、あるいはその底に、それがどんな良き意図にもとづいているにしても、そうした判断を正当化し、目的のためには殺人をもあえて犯すという主体的な衝動もまた、人間の本性のうちに確実にあるということを、ドストエフスキーは示唆しているのである。

 イワンがアリョーシャにみとめた「悪魔の子」は万人のものであり、そこには解消されることのない人間の自己矛盾がある。
 正義のためなら、自分の手を汚す汚さないにかかわらず、殺人をも辞さないという衝動は、正義をもとめ明らかにしようとする人間の本性と、けっして分けて考えることはできない。片方だけを消去することはできないのだ。もし強行すれば、人間は正義や善への志向をも同時に喪失することになろう。

 それゆえイワンは、「一杯のお茶を美味しく飲めさえすれば、世界なんてどうなってもいい」と考える単調な個人主義者ではない。べつのいいかたをすれば、「性悪説」を否定するのである。ルソーのような「性善説」をも同時にしりぞける。
 かれは、善と悪は、人間の深奥にある同じものから生じると感じているのだ。だとすれば、神の計画する世界調和には悪もふくまれていることになる。そこにどうしても納得がいかないのである。

 イワンは自分の目で、世界の調和を――殺人者と被害者の和解と神の許しを見届けたいだけなのだ。正義が悪をともなわず、ただ正義として通用する光景を見たい。イエスがのべつたえた「隣人愛」とは、そうしたもののはずだ。

 だが現実はちがう。この世は調和どころか、破壊的要素にみちみちている。むごたらしく荒んでいる。
 正義の行動はかならず、副産物として悪を生みだす。大いなる善のとなりには、つねに大いなる悪が同居している。悪人のいないところには善人もいない。それがこの世の真実ではないか。そういう不条理な仕組みで出来上がっている現世が神の創り給うたものならば、そしていつ来るかわからぬ終末の日をただ手をこまねいて待てというのならば、「俺は入場券を返納する」という。
 自殺を仄めかすのである。

 
 それじゃ、人間がちっちゃな受難者の償われざる血潮の上にうちたてられた幸福を甘んじて受け、その上で永久にしあわせに暮すというような考えをお前は許容できるか。

「カラマーゾフの兄弟」米川和夫訳

 アリョーシャは自分にはできないが、ただ一人、イエス・キリストだけはそれができると答える。

 それをうけて、イワンはアリョーシャに、劇詩「大審問官」を語りはじめる。

註) 引用された幼児虐待の事件はすべて、ドストエフスキーがみずから史書や新聞から収集した「史実」であると、「作家の日記」において表明している。

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神原 伊津夫
福田恆存さんや、そのほかの私が尊敬してやまない人たちについて書いています。とても万人うけする記事ではありませんが、精魂かたむけて書いております。